次に、生活のことについて触れる。私は大学の4年間、家から通学していた
ために、家を出て一人で生活をしたことがない。初任教員として赴任した下田
では、「独身寮」に入り、2年間、そこで生活した。独身寮には、全日制と
定時制の教員が入り、食事の世話をしてくれる寮母さんの家族がいた。
そのために、食事の心配はしなくてもよかったが、全日制の人たちが中心にな
っていたので、私たち定時制の人が帰ってくるときには、十分な食事が残って
いないのが、通例になっていた。定時制での勤務は、午後3時の打ち合わせで
始まり、授業が5時半から9時半、部活動が、1時間程度で、帰宅が11時頃
になるのが普通だった。学校から寮までは、徒歩10分くらいの距離であった。
打ち合わせは、1時間以上に及んだ。当時の定時制の責任者であったI主事の
「炉辺談話」と称する教育雑談が大部分を占めていた。定時制では、「I天皇」
と呼ばれるほど絶対的な力を持っていた先生である。I主事は、(主事は現在
の教頭)若手の教員育成を使命と考え、さまざまな教育界の情報を提供し、
私たちを指導していた。定時制専任教員は5人で、事務の女子職員とI主事を
含め、7人の少人数の構成であった。全日制の教員が講師で、いくつかの教科
を担当していた。昔は、専任教員は配置されずに、全日制の教員が交代で授業
していたとのことだった。I主事はその頃からずっと定時制の責任者だったよ
うだ、I先生は、「この定時制で通用すれば、教員としてどこでも通用する」
とよく言っていたことを記憶している。
私は、昼間はよくボーリング場に行っていた。夜帰ると、全日制の先輩教員
が、私と定時制1年先輩のSさんを麻雀に誘うことがしばしばあった。私は、
大学時代にほとんど麻雀をしたことがなかったので、多少知っている程度だっ
た。ずいぶん先輩たちに、鴨にされたとの印象が残っている。また寮の食事が
合わなくて、帰りに、寿司屋によく立ち寄ったことが懐かしい。私は、酒が飲
めないので、他に行く場所がなかったためなのだが。たまには、事務の女の子
に付き合ってもらうこともあったが、一人で行くのが通例になっていた。寮で
は、1年先輩のSさんと同居生活(1階がSさん、2階が私)で、わたしは
テレビを持っていなかったために、下で一緒にテレビを見たり、よく話しをし
たが、ことさら書くほどの独身生活ではなかったと言える。生活の中心軸は、
現実の教員としての仕事の世界にあったからだと思う。
3年目の4月の末に結婚し、独身寮から近くにある家族集合住宅に移った。
この住宅には、下田南高と北高の教員12所帯の家族が入っていた。私にとっ
ては、妻との新婚生活のスタートであり、懐かしく思い起こされる所である。
妻は、初めての慣れない所からの生活である。その生活も、夜間定時制という
通常ではない生活スタイルである。朝は遅く、夜の食事は、11時過ぎてから
の日々の生活である。妻は、「夜は私が帰るまでとても寂しかった」と後にな
ってから、私に言ったことである。妻にとって、1年目はさぞ大変だったのだ
ろうと今にして思い返される。その頃の私は、自分勝手の生活をしていたよう
に思う。土曜日には、夜の11時頃に、独身の同僚を家に呼んで、朝まで麻雀
をよくしていた。麻雀は、私にとって、同僚との「人間関係」における潤滑油
の働きをしていた。その「潤滑油」との考え方は、その後の教員生活でも同じ
である。同僚との人間関係を結ぶには、何か「共有」するものが必要だと考え、
その手段が、私にとっては、麻雀だったのである。妻は、私のそのような生活
を強いられたが、私に何の苦情も言わなかった。俗に言う甘い新婚生活とは違
っていたように思う。結婚して2年目の4月に長男の亮が生まれた。それから
は、妻は、子育てと家事に忙しい日々になった。私は、家のことは、妻任せで、
子育ても同じだった。今の人たちには、考えられないことだろう。亮はとても
かわいい赤ん坊だった。よく女の子と間違えられたと妻から聞いていた。
亮は、逆子で生まれ、斜頸になる心配をし、病院で見てもらったり、枕に砂を
入れて、首をまっすぐにするようにして寝かしたりした。妻は、お風呂の後に、
亮の首のしこりを丁寧にマッサージする日々が続いた。幸いなことに、1年後
には、完全にしこりがとれて直ったので、安心したことを記憶している。亮の
ことで、私がいまだに鮮明に記憶として残っていることがある。1歳くらいの
頃、歩き始めるようになり、住宅の前の坂道をヨチヨチ歩く姿の光景である。
とてもかわいい光景であった。また、この頃に伊豆に大地震があった。日にち
は忘れたが、朝の8時半ごろで、全日制では、朝のホームルームの時間だった。
私たち夫婦は、亮を抱きかかえたままじっとしているしかなかった。揺れは1
分くらいだったが、とても長く感じた。その時の地震は、体感で今でもよく覚
えている。その後の地震の尺度となった。この直下型地震で、南伊豆で山が崩
落して、死者が出る程だった。下田市内でも、家屋の被害が出て、記憶に残る
大地震だった。そんな経験をしながら、3年間教員住宅で過ごし、転勤で、
富士市の吉原高校に移動することになった。初めての転勤で、希望と不安が入
り混じっていた。県東部にある全日制普通高校の希望であった。一番の不安は
「授業」にあった。定時制では、高校としては、易しい教科書を使っていて、
5年間の間に、すっかり慣れてしまっていたからだ。定時制で行なっていた授
業で、全日制で通用するのかどうかが不安であった。実は、この不安は定時制
にいる間ずっと抱えていたことだ。生徒との「人間関係」については、何の不
安もなかった。定時制で身につけたことで、充分やっていけるとの確信があっ
たからだ。しかし、転勤先は女子高校なので、何の知識も経験もない学校であ
った。女子高はどんな学校なのか、想像もできなかった。「女の園」とのイメ
ージしかなかった。私にしても、まだ27歳の若さであった。教師として、
女子生徒だけの学校でやっていけるかどうかという不安は感じていた。私の友
人は、女子高ということだけで、うらやましいと言っていた。男にとって、
女子だけの世界は、興味があるようだ。私には、そのような興味・関心はなか
ったように思う。また、新たなるスタートとの気持ちであった。定時制の職員
の年度末の打ち上げの会が、土肥の近くで行なわれ、その翌日の朝、フェリー
で土肥港から田子の浦港へ行き、そこから吉原高校までタクシーで行き、新年
度に向けた最初の会議に出席したと記憶している。3月の下旬であった。
転勤に関して付記しておくと、実は前年に移動の話しがあった。一つは、隣の
下田北高校からの誘いであった。この学校には3年目に、臨時講師として1カ
月ほど教えたことがあった。その2年生の中には、私が個人的に教えていたS
子ちゃんがいたのであるが、彼女は心配そうな表情をしていたことが思い出さ
れる。彼女は近所に住むお母さんから個人教授の依頼を受け、最初の1年はお
宅で教え、私が結婚してからは、私の家で教えていた。麻雀の後では、私が途
中で居眠りしたりしていたが、その間は自分で勉強していたようだ。その子に
は色々な話しをしたように思う。もちろん内容は忘れているが、定時制の生徒
に話したことと変わらないと思う。その子(今ではいいおばさんではあるが)
とは年賀状のやりとりはずっと続いている。この1,2年は手紙のやりとりも
した。彼女も苦労の人生を送ってきたようだ。人生の道は一人一人違う。それ
ぞれの人生に「価値」があるように思う。人は苦労した分だけ幸せになる権利
があるのだ。苦労こそ人間の内面を磨くのであると、私は信じている。私も苦
しんだ分だけ成長し、人の気持ちがわかるようになったと思っている。
もう一つは、転任した校長と同じ学校(熱海高校)のようだったが、二つとも
伊豆からは出たいことを伝えて、事前に断った経緯があるのである。一度断る
とその年の人事異動は無くなるのが常で、更に1年定時制に残ることになった。
私は定時制を出たかったのではない、教員生活の将来を考えると、転勤しなけ
ればならないのである。転勤も教員としての「研修」である。その後、初任か
ら10年で3校を経験する原則ができたのである。私の時代も初任校は3、4
年が普通であった。転勤が1年延びたので、1年生の担任をすることになった。
その学年の卒業次(卒業式には参列した)の担任が、私が御殿場南高校で定年
になり、その後退職する沼津城北高校で、再任用教員と校長として再会する不
思議な縁があった。ともかく、私にとっても、私の妻にとっても思いで深い地
が下田である、2013年の5月に下田セントラルホテルに宿泊する機会があ
ったので、帰りに、私たちが住んでいた学校住宅を訪れた。また勤務先の学校
の跡地を確認し、病院に変わっていることを知った。市内を一回りして下田を
後にした。今年の2月下旬に、伊豆急行で下田駅に行き昼食を取り、寝姿山に
ロープウェイで上った。下田湾を見渡す懐かしい風景だった。
ために、家を出て一人で生活をしたことがない。初任教員として赴任した下田
では、「独身寮」に入り、2年間、そこで生活した。独身寮には、全日制と
定時制の教員が入り、食事の世話をしてくれる寮母さんの家族がいた。
そのために、食事の心配はしなくてもよかったが、全日制の人たちが中心にな
っていたので、私たち定時制の人が帰ってくるときには、十分な食事が残って
いないのが、通例になっていた。定時制での勤務は、午後3時の打ち合わせで
始まり、授業が5時半から9時半、部活動が、1時間程度で、帰宅が11時頃
になるのが普通だった。学校から寮までは、徒歩10分くらいの距離であった。
打ち合わせは、1時間以上に及んだ。当時の定時制の責任者であったI主事の
「炉辺談話」と称する教育雑談が大部分を占めていた。定時制では、「I天皇」
と呼ばれるほど絶対的な力を持っていた先生である。I主事は、(主事は現在
の教頭)若手の教員育成を使命と考え、さまざまな教育界の情報を提供し、
私たちを指導していた。定時制専任教員は5人で、事務の女子職員とI主事を
含め、7人の少人数の構成であった。全日制の教員が講師で、いくつかの教科
を担当していた。昔は、専任教員は配置されずに、全日制の教員が交代で授業
していたとのことだった。I主事はその頃からずっと定時制の責任者だったよ
うだ、I先生は、「この定時制で通用すれば、教員としてどこでも通用する」
とよく言っていたことを記憶している。
私は、昼間はよくボーリング場に行っていた。夜帰ると、全日制の先輩教員
が、私と定時制1年先輩のSさんを麻雀に誘うことがしばしばあった。私は、
大学時代にほとんど麻雀をしたことがなかったので、多少知っている程度だっ
た。ずいぶん先輩たちに、鴨にされたとの印象が残っている。また寮の食事が
合わなくて、帰りに、寿司屋によく立ち寄ったことが懐かしい。私は、酒が飲
めないので、他に行く場所がなかったためなのだが。たまには、事務の女の子
に付き合ってもらうこともあったが、一人で行くのが通例になっていた。寮で
は、1年先輩のSさんと同居生活(1階がSさん、2階が私)で、わたしは
テレビを持っていなかったために、下で一緒にテレビを見たり、よく話しをし
たが、ことさら書くほどの独身生活ではなかったと言える。生活の中心軸は、
現実の教員としての仕事の世界にあったからだと思う。
3年目の4月の末に結婚し、独身寮から近くにある家族集合住宅に移った。
この住宅には、下田南高と北高の教員12所帯の家族が入っていた。私にとっ
ては、妻との新婚生活のスタートであり、懐かしく思い起こされる所である。
妻は、初めての慣れない所からの生活である。その生活も、夜間定時制という
通常ではない生活スタイルである。朝は遅く、夜の食事は、11時過ぎてから
の日々の生活である。妻は、「夜は私が帰るまでとても寂しかった」と後にな
ってから、私に言ったことである。妻にとって、1年目はさぞ大変だったのだ
ろうと今にして思い返される。その頃の私は、自分勝手の生活をしていたよう
に思う。土曜日には、夜の11時頃に、独身の同僚を家に呼んで、朝まで麻雀
をよくしていた。麻雀は、私にとって、同僚との「人間関係」における潤滑油
の働きをしていた。その「潤滑油」との考え方は、その後の教員生活でも同じ
である。同僚との人間関係を結ぶには、何か「共有」するものが必要だと考え、
その手段が、私にとっては、麻雀だったのである。妻は、私のそのような生活
を強いられたが、私に何の苦情も言わなかった。俗に言う甘い新婚生活とは違
っていたように思う。結婚して2年目の4月に長男の亮が生まれた。それから
は、妻は、子育てと家事に忙しい日々になった。私は、家のことは、妻任せで、
子育ても同じだった。今の人たちには、考えられないことだろう。亮はとても
かわいい赤ん坊だった。よく女の子と間違えられたと妻から聞いていた。
亮は、逆子で生まれ、斜頸になる心配をし、病院で見てもらったり、枕に砂を
入れて、首をまっすぐにするようにして寝かしたりした。妻は、お風呂の後に、
亮の首のしこりを丁寧にマッサージする日々が続いた。幸いなことに、1年後
には、完全にしこりがとれて直ったので、安心したことを記憶している。亮の
ことで、私がいまだに鮮明に記憶として残っていることがある。1歳くらいの
頃、歩き始めるようになり、住宅の前の坂道をヨチヨチ歩く姿の光景である。
とてもかわいい光景であった。また、この頃に伊豆に大地震があった。日にち
は忘れたが、朝の8時半ごろで、全日制では、朝のホームルームの時間だった。
私たち夫婦は、亮を抱きかかえたままじっとしているしかなかった。揺れは1
分くらいだったが、とても長く感じた。その時の地震は、体感で今でもよく覚
えている。その後の地震の尺度となった。この直下型地震で、南伊豆で山が崩
落して、死者が出る程だった。下田市内でも、家屋の被害が出て、記憶に残る
大地震だった。そんな経験をしながら、3年間教員住宅で過ごし、転勤で、
富士市の吉原高校に移動することになった。初めての転勤で、希望と不安が入
り混じっていた。県東部にある全日制普通高校の希望であった。一番の不安は
「授業」にあった。定時制では、高校としては、易しい教科書を使っていて、
5年間の間に、すっかり慣れてしまっていたからだ。定時制で行なっていた授
業で、全日制で通用するのかどうかが不安であった。実は、この不安は定時制
にいる間ずっと抱えていたことだ。生徒との「人間関係」については、何の不
安もなかった。定時制で身につけたことで、充分やっていけるとの確信があっ
たからだ。しかし、転勤先は女子高校なので、何の知識も経験もない学校であ
った。女子高はどんな学校なのか、想像もできなかった。「女の園」とのイメ
ージしかなかった。私にしても、まだ27歳の若さであった。教師として、
女子生徒だけの学校でやっていけるかどうかという不安は感じていた。私の友
人は、女子高ということだけで、うらやましいと言っていた。男にとって、
女子だけの世界は、興味があるようだ。私には、そのような興味・関心はなか
ったように思う。また、新たなるスタートとの気持ちであった。定時制の職員
の年度末の打ち上げの会が、土肥の近くで行なわれ、その翌日の朝、フェリー
で土肥港から田子の浦港へ行き、そこから吉原高校までタクシーで行き、新年
度に向けた最初の会議に出席したと記憶している。3月の下旬であった。
転勤に関して付記しておくと、実は前年に移動の話しがあった。一つは、隣の
下田北高校からの誘いであった。この学校には3年目に、臨時講師として1カ
月ほど教えたことがあった。その2年生の中には、私が個人的に教えていたS
子ちゃんがいたのであるが、彼女は心配そうな表情をしていたことが思い出さ
れる。彼女は近所に住むお母さんから個人教授の依頼を受け、最初の1年はお
宅で教え、私が結婚してからは、私の家で教えていた。麻雀の後では、私が途
中で居眠りしたりしていたが、その間は自分で勉強していたようだ。その子に
は色々な話しをしたように思う。もちろん内容は忘れているが、定時制の生徒
に話したことと変わらないと思う。その子(今ではいいおばさんではあるが)
とは年賀状のやりとりはずっと続いている。この1,2年は手紙のやりとりも
した。彼女も苦労の人生を送ってきたようだ。人生の道は一人一人違う。それ
ぞれの人生に「価値」があるように思う。人は苦労した分だけ幸せになる権利
があるのだ。苦労こそ人間の内面を磨くのであると、私は信じている。私も苦
しんだ分だけ成長し、人の気持ちがわかるようになったと思っている。
もう一つは、転任した校長と同じ学校(熱海高校)のようだったが、二つとも
伊豆からは出たいことを伝えて、事前に断った経緯があるのである。一度断る
とその年の人事異動は無くなるのが常で、更に1年定時制に残ることになった。
私は定時制を出たかったのではない、教員生活の将来を考えると、転勤しなけ
ればならないのである。転勤も教員としての「研修」である。その後、初任か
ら10年で3校を経験する原則ができたのである。私の時代も初任校は3、4
年が普通であった。転勤が1年延びたので、1年生の担任をすることになった。
その学年の卒業次(卒業式には参列した)の担任が、私が御殿場南高校で定年
になり、その後退職する沼津城北高校で、再任用教員と校長として再会する不
思議な縁があった。ともかく、私にとっても、私の妻にとっても思いで深い地
が下田である、2013年の5月に下田セントラルホテルに宿泊する機会があ
ったので、帰りに、私たちが住んでいた学校住宅を訪れた。また勤務先の学校
の跡地を確認し、病院に変わっていることを知った。市内を一回りして下田を
後にした。今年の2月下旬に、伊豆急行で下田駅に行き昼食を取り、寝姿山に
ロープウェイで上った。下田湾を見渡す懐かしい風景だった。