教師は教科を軸に、校務分掌の仕事がある。学年、分掌、部活動等の教育活
動である。私は、新卒で2年生の担任になった。新卒での担任は通常行なわれ
ないことである。後で知ったことだが、この学年の元担任が残っている状態で、
担任を新卒の教師に代えることは異例のことである。元担任と生徒の関係がう
まくいっていないために、新卒にやらしてみようということが、真相のようだ
った。私にとっては実に迷惑なことだった。分掌は生徒課に所属し、主に生徒
会活動が中心の業務になった。部活動は卓球部の顧問になった。もちろん授業
に対する悩みは大きかったが、それ以上に、担任としての「生徒との関わり」
に悩み抜いたと言える。5月頃には、ノイローゼ状態になりかかっていると感
じる程になっていた。「生徒との関わり」を求めて、この世界に入ってきた私
だが、自分の想像と現実の大きな違いのギャップに悩み苦しんだ。あまりにも
生徒との「ギャップ」が大きかった。私は、生徒のことを知ると共に、私のこ
とを生徒に知ってもらうことに力を注いだ。ホームルーム及び授業で、
「本音で正直に自分らしく」話すことだけを心がけて実践した。後は、時間を
かけて「信頼」を得ることだった。生徒との個人面接も大切にしたつもりでい
る。生徒との相互理解には、個人面接は不可欠である。面接の時に、話しをし
てくれる生徒もいれば、ほとんど何も話さない生徒もいた。ともかく時間をか
けて「信頼関係」を築くこと以外方法はなかった。定時制で教えることにめど
がたつのに、2年間かかったように思う。その間に、残念ながら定時制を去る
生徒もいたことも事実である。定時制は、ともかく卒業するまで頑張ることが
大変なことだ。全日制での卒業は当然のことになっているが。ここに、全日制
と定時制の「根本的な違い」が表れているように思う。定時制の生徒が卒業し
たときの「喜び」を理解できる人は少ないと思う。私自身は、生徒を通じて感
じたことである。この経験は、その後の教師生活でも感じたことはない。
私は、現在の定時制のことはよくわからないが、私の接してきた生徒たちは、
卒業まで「困難な道」を一生懸命歩いたことは確かである。生徒たちからは多
くのことを学ばせてもらった。
私の「授業」について触れておくことにする。私は、大学時代に、教育につ
いて勉強してこなかったので、基本的な知識は全くなかったと言える。
教員採用試験の勉強さえしなかった程である。恥ずかしい話しではあるが、
事実である。大学後の進路について、自分自身に問いかけ、自己の適性を考え
ていく過程で、「消去法」で選んだのが教師の道である。積極的な面では、話
しができる「人との関わり」を持ちたいとの想いであった。これは学会活動の
中で、自分で学んだことである。授業の方法さえ知らない者が教師になったの
だから、教えることに悩むのは当然なことで、ゼロからのスタートである。
ともかく授業はどうしていいかわからなかった。自分が過去に教わった経験か
らスタートするしかなかった。とは言っても、進学のための授業しか経験して
いなかった。まさかそういう授業をするわけにはいかなかった。定時制の英語
のテキストは易しめのものを使っていた。私が教わってきた旧来の文法訳読式
の授業しかできなかった。指導主事の参観授業でも、その点を指摘されたこと
は忘れない。と同時に旧来の授業としては、成功だが新しい授業への試みが必
要だと言われた。しかし、「君の英語の発音と板書はどこにいっても通用する」
と言われたことは、強く記憶に残っている。とにかく生徒が「わかる授業」に
したいとの思いが強かったことは確かだ。上級生のなかには、私の授業を新鮮
に受け取る生徒もいたが、最初は、どうもわかりにくい授業だったようだ。
受験勉強の弊害だったように思う。大学でも、教科教育法でも、まともな授業
はなかったように記憶している。どんな講義が行われていたかまったく覚えて
いない。教員養成の大学ではなかったから無理もないことかもしれない。
教育学部のある学校では違っていたのだろうと想像している。唯一の経験は、
「教育実習」である。それもわずか2週間であった。大学の紹介で、川崎の
駅北にある中学校で実習を行ったが、どんな授業をしたのか覚えていない。
生徒と触れ合う楽しさを感じた記憶が残っている。授業に関して、特別なアド
バイスをしてもらった記憶もない。一人で考えた授業をしたとの記憶だ。
動である。私は、新卒で2年生の担任になった。新卒での担任は通常行なわれ
ないことである。後で知ったことだが、この学年の元担任が残っている状態で、
担任を新卒の教師に代えることは異例のことである。元担任と生徒の関係がう
まくいっていないために、新卒にやらしてみようということが、真相のようだ
った。私にとっては実に迷惑なことだった。分掌は生徒課に所属し、主に生徒
会活動が中心の業務になった。部活動は卓球部の顧問になった。もちろん授業
に対する悩みは大きかったが、それ以上に、担任としての「生徒との関わり」
に悩み抜いたと言える。5月頃には、ノイローゼ状態になりかかっていると感
じる程になっていた。「生徒との関わり」を求めて、この世界に入ってきた私
だが、自分の想像と現実の大きな違いのギャップに悩み苦しんだ。あまりにも
生徒との「ギャップ」が大きかった。私は、生徒のことを知ると共に、私のこ
とを生徒に知ってもらうことに力を注いだ。ホームルーム及び授業で、
「本音で正直に自分らしく」話すことだけを心がけて実践した。後は、時間を
かけて「信頼」を得ることだった。生徒との個人面接も大切にしたつもりでい
る。生徒との相互理解には、個人面接は不可欠である。面接の時に、話しをし
てくれる生徒もいれば、ほとんど何も話さない生徒もいた。ともかく時間をか
けて「信頼関係」を築くこと以外方法はなかった。定時制で教えることにめど
がたつのに、2年間かかったように思う。その間に、残念ながら定時制を去る
生徒もいたことも事実である。定時制は、ともかく卒業するまで頑張ることが
大変なことだ。全日制での卒業は当然のことになっているが。ここに、全日制
と定時制の「根本的な違い」が表れているように思う。定時制の生徒が卒業し
たときの「喜び」を理解できる人は少ないと思う。私自身は、生徒を通じて感
じたことである。この経験は、その後の教師生活でも感じたことはない。
私は、現在の定時制のことはよくわからないが、私の接してきた生徒たちは、
卒業まで「困難な道」を一生懸命歩いたことは確かである。生徒たちからは多
くのことを学ばせてもらった。
私の「授業」について触れておくことにする。私は、大学時代に、教育につ
いて勉強してこなかったので、基本的な知識は全くなかったと言える。
教員採用試験の勉強さえしなかった程である。恥ずかしい話しではあるが、
事実である。大学後の進路について、自分自身に問いかけ、自己の適性を考え
ていく過程で、「消去法」で選んだのが教師の道である。積極的な面では、話
しができる「人との関わり」を持ちたいとの想いであった。これは学会活動の
中で、自分で学んだことである。授業の方法さえ知らない者が教師になったの
だから、教えることに悩むのは当然なことで、ゼロからのスタートである。
ともかく授業はどうしていいかわからなかった。自分が過去に教わった経験か
らスタートするしかなかった。とは言っても、進学のための授業しか経験して
いなかった。まさかそういう授業をするわけにはいかなかった。定時制の英語
のテキストは易しめのものを使っていた。私が教わってきた旧来の文法訳読式
の授業しかできなかった。指導主事の参観授業でも、その点を指摘されたこと
は忘れない。と同時に旧来の授業としては、成功だが新しい授業への試みが必
要だと言われた。しかし、「君の英語の発音と板書はどこにいっても通用する」
と言われたことは、強く記憶に残っている。とにかく生徒が「わかる授業」に
したいとの思いが強かったことは確かだ。上級生のなかには、私の授業を新鮮
に受け取る生徒もいたが、最初は、どうもわかりにくい授業だったようだ。
受験勉強の弊害だったように思う。大学でも、教科教育法でも、まともな授業
はなかったように記憶している。どんな講義が行われていたかまったく覚えて
いない。教員養成の大学ではなかったから無理もないことかもしれない。
教育学部のある学校では違っていたのだろうと想像している。唯一の経験は、
「教育実習」である。それもわずか2週間であった。大学の紹介で、川崎の
駅北にある中学校で実習を行ったが、どんな授業をしたのか覚えていない。
生徒と触れ合う楽しさを感じた記憶が残っている。授業に関して、特別なアド
バイスをしてもらった記憶もない。一人で考えた授業をしたとの記憶だ。