大学生活で「反省」していることがある。私の大学には、数名の全国的に知ら
れた著名な学者がいた。その教授の講義を受けなかったことは、非常に残念なこ
とだと後悔している。日々の活動の忙しさの中に、自分に対する甘えがあったと
認めざるを得ない。結局は、勉強も自分自身に「責任」がある。その反面、講義
を受けてもつまらない授業をする教授が多かったことも確かだ。ともかく、私は
「単位」の取得だけで、大学に行っていたことは事実として認めなければならな
い。卒業に必要な単位の取得さえできればいいと思っていた。これでは、学問す
る資格などはない。大学は、基本的に自分で勉強するところだが、幅広く「教養」
を身につけるところでもある。講義を基礎に、本を読みしっかりと勉強すべきだ
ったと、教師になってから思ったことだ。「後悔先に立たず」である。
1・2年の「教養課程」では、人文科学・自然科学・社会科学の3分野と語学の
勉強が必修である。その上で、「専門課程」の勉強に入るのが基本だと、現在は
考えている。教師になってから、「教養」を軽視して専門課程を重視しすぎるの
は、疑問だと感じた時期がある。現在は「リベラルアーツ」の形で復活している
ことが池上彰氏の「大人の教養」の著書で知った。「学問の基本」を学ぶのが
教養課程であるべきだと、私は思っている。現在の状況はわからないが、私の学
生時代には、教養課程の講義を軽視した教授が多かったように記憶している。
大学の「語学」で、記憶に残っていることは、1年次に第2外国語として、
フランス語を履修したのだが、単位を落としてしまい(58点の不可)2年次に、
その単位を含めて履修しなければならかったことだ。つまり、他の学生の2倍の
学習になった。2年生の時、今度は、フランス語の成績を取り返そうと真面目に
勉強した。その結果、1年次の単位と同時に、2年の単位も優の成績を取った。
いわゆるリターンマッチをしたことが記憶に残っている。その2年生の時に、
「英語国際関係」を専攻した。この専門課程の勉強で、障害になったのは、
世界史である。受験で避けた科目なので、勉強はしていなかった。世界史、特に
近・現代史は、国際関係を学ぶ上で、基礎、基本になっていた。国際関係は、
文字通り国と国との関係を学ぶのであるが、その前提には、それぞれの国の
「歴史」がある。歴史的知識なしには、学べない。「国際関係論」と言われるよ
うに、学問として確立されたものではなく、歴史は浅く、私の学生時代に、
専門家はほとんどいなかった。東京大学助教授・川田侃著「國際關係概論」が、
最初の専門書と記憶している。私の大学にも専門教員は山極助教授だけだった。
ゼミの教授は、「比較歴史学」が専門だったと記憶している。その後、
国際関係系統の学部を持つ大学が増えて、ブームを呈することになる。
横浜市大の専門課程に「国際関係」があり、受験科目が4科目(500点)だ
ったことが、大学を選んだ理由である。私は典型的な私立文系タイプで、中学以
来、好きで得意な科目は、「英語」と社会科の「政治経済」だった。この2科目
は、他の人に負けたくないとの思いで頑張って勉強した。特に英語はそうだ。
高校時代の1・2年次は、英語の勉強しかしていなかった。「英語馬鹿」とも言
える。大学では、その英語でも、人並みよりややいいかなという程度だった。
優秀な同級生がたくさんいた。その一人で印象に残っているのは、銀座の松坂屋
で一緒にアルバイトをしたS君で、彼は、英語が堪能で、デパートの心臓部であ
る外商部で、一年次からアルバイトをしていた。それに対して、私は、文房具売
り場に、ただ立っているようなアルバイト生だった。慣れない手つきで、文具の
包装をしていた。この力の差は歴然としたものだった。また、彼は年上から年下
まで幅広く女性にもてる男だった。優秀な男だが、男の私から見て魅力があると
は思えなかった(女性の気持ちはわからない)。今でいう「イケメン」とは違う。
母性本能をくすぐるタイプと言えばいいかもしれない。故に、彼には、語学及び
女性関係では、かなわないと思ったことが記憶に蘇ってくる。このアルバイトで、
自分には接客の適性がないことを自覚したことが、唯一の収穫だった。彼は卒業
と同時に、そのまま松坂屋に就職した。今は、この松坂屋もなくなった。
アルバイトは、長期の休みに色々やってみた。自転車でデパートの商品を配送し
たこと。電機工場で流れ作業の一部をやったこと。町工場で働いたことなどだ。
この町工場では、昼休みにキャッチボールでピッチングをしている工員さんがい
た。その人とボールのスピードを競った。ろくに準備運動もしないで、いきなり
本気で投げたために肩を痛めてしまった。その肩の痛みは、高齢になった現在に
再発している。孫とのキャッチボールで手本を示すことができない。古傷が痛む
とはこういうことを言うのだろう。
日常的には、「家庭教師」のアルバイトをしていた。このアルバイトが自分には
合っていると感じたが、高学年の小学生を教えることは難しかったとの記憶が強
く残っている。私が最初に教えたのは、高校3年次の担任である英語の石井先生
の紹介で、高校の後輩の受験生だった。この時に、教えることの難しさと面白さ
を知ったように記憶している。この後輩は大学に入学できた。その後は、二人の
姉妹を教えた記憶しか残っていない。その姉のFちゃんを教えたのは、夏休みの
一月の間だけだったが、とても楽しい時間を過ごすことができた。私の記憶から
絶対に消えることはない。その故は、20歳(大学2年)と17歳(高校2年)
の淡い「恋心」としか表現できない。Fちゃんは、賢い子で私の気持ちがわかっ
ていたようだ。彼女は母子家庭の長女だった。彼女にとっては、私の想いを感じ
とり心の負担になったのだろう。私にとっては、甘くせつない思い出としてず
っと残っている。可能であるならば、現在でも会って、お互いの人生を振り返っ
て話しをしてみたいとも思っているくらいだ。
れた著名な学者がいた。その教授の講義を受けなかったことは、非常に残念なこ
とだと後悔している。日々の活動の忙しさの中に、自分に対する甘えがあったと
認めざるを得ない。結局は、勉強も自分自身に「責任」がある。その反面、講義
を受けてもつまらない授業をする教授が多かったことも確かだ。ともかく、私は
「単位」の取得だけで、大学に行っていたことは事実として認めなければならな
い。卒業に必要な単位の取得さえできればいいと思っていた。これでは、学問す
る資格などはない。大学は、基本的に自分で勉強するところだが、幅広く「教養」
を身につけるところでもある。講義を基礎に、本を読みしっかりと勉強すべきだ
ったと、教師になってから思ったことだ。「後悔先に立たず」である。
1・2年の「教養課程」では、人文科学・自然科学・社会科学の3分野と語学の
勉強が必修である。その上で、「専門課程」の勉強に入るのが基本だと、現在は
考えている。教師になってから、「教養」を軽視して専門課程を重視しすぎるの
は、疑問だと感じた時期がある。現在は「リベラルアーツ」の形で復活している
ことが池上彰氏の「大人の教養」の著書で知った。「学問の基本」を学ぶのが
教養課程であるべきだと、私は思っている。現在の状況はわからないが、私の学
生時代には、教養課程の講義を軽視した教授が多かったように記憶している。
大学の「語学」で、記憶に残っていることは、1年次に第2外国語として、
フランス語を履修したのだが、単位を落としてしまい(58点の不可)2年次に、
その単位を含めて履修しなければならかったことだ。つまり、他の学生の2倍の
学習になった。2年生の時、今度は、フランス語の成績を取り返そうと真面目に
勉強した。その結果、1年次の単位と同時に、2年の単位も優の成績を取った。
いわゆるリターンマッチをしたことが記憶に残っている。その2年生の時に、
「英語国際関係」を専攻した。この専門課程の勉強で、障害になったのは、
世界史である。受験で避けた科目なので、勉強はしていなかった。世界史、特に
近・現代史は、国際関係を学ぶ上で、基礎、基本になっていた。国際関係は、
文字通り国と国との関係を学ぶのであるが、その前提には、それぞれの国の
「歴史」がある。歴史的知識なしには、学べない。「国際関係論」と言われるよ
うに、学問として確立されたものではなく、歴史は浅く、私の学生時代に、
専門家はほとんどいなかった。東京大学助教授・川田侃著「國際關係概論」が、
最初の専門書と記憶している。私の大学にも専門教員は山極助教授だけだった。
ゼミの教授は、「比較歴史学」が専門だったと記憶している。その後、
国際関係系統の学部を持つ大学が増えて、ブームを呈することになる。
横浜市大の専門課程に「国際関係」があり、受験科目が4科目(500点)だ
ったことが、大学を選んだ理由である。私は典型的な私立文系タイプで、中学以
来、好きで得意な科目は、「英語」と社会科の「政治経済」だった。この2科目
は、他の人に負けたくないとの思いで頑張って勉強した。特に英語はそうだ。
高校時代の1・2年次は、英語の勉強しかしていなかった。「英語馬鹿」とも言
える。大学では、その英語でも、人並みよりややいいかなという程度だった。
優秀な同級生がたくさんいた。その一人で印象に残っているのは、銀座の松坂屋
で一緒にアルバイトをしたS君で、彼は、英語が堪能で、デパートの心臓部であ
る外商部で、一年次からアルバイトをしていた。それに対して、私は、文房具売
り場に、ただ立っているようなアルバイト生だった。慣れない手つきで、文具の
包装をしていた。この力の差は歴然としたものだった。また、彼は年上から年下
まで幅広く女性にもてる男だった。優秀な男だが、男の私から見て魅力があると
は思えなかった(女性の気持ちはわからない)。今でいう「イケメン」とは違う。
母性本能をくすぐるタイプと言えばいいかもしれない。故に、彼には、語学及び
女性関係では、かなわないと思ったことが記憶に蘇ってくる。このアルバイトで、
自分には接客の適性がないことを自覚したことが、唯一の収穫だった。彼は卒業
と同時に、そのまま松坂屋に就職した。今は、この松坂屋もなくなった。
アルバイトは、長期の休みに色々やってみた。自転車でデパートの商品を配送し
たこと。電機工場で流れ作業の一部をやったこと。町工場で働いたことなどだ。
この町工場では、昼休みにキャッチボールでピッチングをしている工員さんがい
た。その人とボールのスピードを競った。ろくに準備運動もしないで、いきなり
本気で投げたために肩を痛めてしまった。その肩の痛みは、高齢になった現在に
再発している。孫とのキャッチボールで手本を示すことができない。古傷が痛む
とはこういうことを言うのだろう。
日常的には、「家庭教師」のアルバイトをしていた。このアルバイトが自分には
合っていると感じたが、高学年の小学生を教えることは難しかったとの記憶が強
く残っている。私が最初に教えたのは、高校3年次の担任である英語の石井先生
の紹介で、高校の後輩の受験生だった。この時に、教えることの難しさと面白さ
を知ったように記憶している。この後輩は大学に入学できた。その後は、二人の
姉妹を教えた記憶しか残っていない。その姉のFちゃんを教えたのは、夏休みの
一月の間だけだったが、とても楽しい時間を過ごすことができた。私の記憶から
絶対に消えることはない。その故は、20歳(大学2年)と17歳(高校2年)
の淡い「恋心」としか表現できない。Fちゃんは、賢い子で私の気持ちがわかっ
ていたようだ。彼女は母子家庭の長女だった。彼女にとっては、私の想いを感じ
とり心の負担になったのだろう。私にとっては、甘くせつない思い出としてず
っと残っている。可能であるならば、現在でも会って、お互いの人生を振り返っ
て話しをしてみたいとも思っているくらいだ。