私には、もう一人記憶に残る先生がいる。岩井茂先生(東北大学卒業)で、
先生とは2005年の正月に電話でお話しをし、その後一度、手紙のやり取り
をして、3月の末にお会いする約束をしていた。申し訳ないことに、私が体調
を崩してその約束を果たせなかった。そのことを電話でお話しした時に、とて
も残念がっていたことが忘れられない。先生は年齢的にも教え子との人生最後
の機会になると感じていたのかもしれない。お気持ちはよく理解できたのに。
岩井先生は、私が2年生のときに、36歳の新任で英語の先生として赴任され
てきて、選択の英語の授業を教わった。寡黙の紳士で真面目な先生であった。
先生が一度私に「君の答案で君の実力がわかるよ」と言われたことは忘れられ
ない記憶だ。この言葉の意味が、実感として分かるようになったのは、私が
教師になってからである。記述の答案には生徒の学力が表れる。私の備忘録の
ためにも、岩井先生から返事をいただいた手紙の冒頭部分を書いておく。
「このたびは電話とお手紙、数々の玉稿、有り難うございました。まことに懐
かしい人にめぐり合った思いで、ただいま一通り拝読したところです。感想も
追想も尽きませんが、ひとくちにいえば、当時の私が受け止めた相川君の印象
が間違ってはいなかったこと。その人柄が相川先生の授業でおおいに生かされ
ていること。この先生は、丁寧に教えてくれるよき導き手であり、飾らぬ温か
い話し相手であるらしい...。ご自分で天職を感じておられるのも、むべなる
かな、と共感をおぼえます。英語教育については、(指導法そのものは)世の
実態として人さまざまで、それこそピンからキリまであります。研究・実践・
評価に裏付けられ、しかも『自分らしい』指導法であることが求められますが、
さすがに30余年の研鑽と自信のほどを感じました」と過分な温かい激励の評
価をしていただき、恐縮しながら、今も懐かしく岩井先生のお手紙を読み返し
ましたところだ。
岩井先生は、中学9年、研究所2年、新城高校14年、それから管理職となり、
校長で定年を迎えた。その後、日大で11年の英語教育で、並行して洗足短大
の英文科で「国語表現法」を教えられたとのことです。中学と研究所では、
Oral Approach に取り組んでいたようだ。現在のコミュニケーション活動につ
ながる研究と私は理解している。ALT等の活用が考えられない時代において
のことだ。進歩的なアプローチと言える。新城高校では、「受験教育」を求められ、
悩みがながら模索中だったことを初めて知った。真面目な教育者の先生であった
ことを思い出す。
先生が私と再会できることを望んでいたことは充分承知していたが、私の体調が
悪化したために、3月にお会いして、お話しができなかったことがとても残念で、
先生には申し訳ない思いで一杯との気持ちは今でも変わっていない。
この先生のお手紙で作家の山崎洋子さんの存在を知った。私の思い違いで、先生
との音信が途絶えてしまった。山崎洋子さんとFBで友達になり、私が思い違い
をしていたことがわかった。岩井先生のお身体の具合が良くないことを知り、
山崎さんとお見舞いに伺いたいと思い、先生に電話でその旨を連絡をしたが、
体力的に無理との話しで、諦めました。その後連絡も遠慮しているので、消息が
わからない。元気でいらっしゃることを願っています。昭和の香る学究肌の先生
です。今の時代の高校の先生にはいないタイプで、私の尊敬していた小林先生と
イメージが重なる。昨年5月に山崎さんにお会いしました。城友会総会で講演さ
れると知り、母校へ出かけたのです。岩井先生に対しては、共通の印象を抱いて
います。
*
1年の3学期に校舎が完成して、やっと肩身の狭い間借り生活から開放されて、
自分たちの学校生活が送れるようになった。1年生の時には部活動はなく、
同好会としてスタートした。私は、野球同好会に入り、放課後友達と軟式のボ
ールで練習して遊んでいた程度のものだった。その中に、高校3年間を通じて
行動をともにした友人にS・F君がいた。彼の家にも何度もおじゃまし、泊め
てもらったりし、彼のお母さんにはとてもお世話になった。お母さんには
「如才ない人」だと言われて、かわいがっていただいた。彼のおかげで、それ
なりの高校生活が送れたように思う。定期試験の後に、二人でよく映画を見に
行ったものだった。川崎・渋谷・新宿へと一緒に出かけたことを記憶している。
2年生になって、同好会のメンバーが部を作り、ゼロからのスタートだった。
先輩がいない中で、1年生の後輩を迎えることになった。私は、軟式から硬式
にとボールを変えて新しい野球部を作ってゆく決心がつかないで、野球から離
れた。S君も一緒に止めた。野球にかける時間がないこと、正直に言うと、
坊主頭がいやであった。私の高校生活の目的は、「大学受験」にあった。特別
な技術も才能もない私が、将来どのように生きていくか、そのためには、大学
の4年間という時間がどうしても必要だからだ。ここでも野球を続けたい気持
ちがあったが、私の力では勉強との両立はできないと考えた。その当時、受験
生は、「4当5落」(死語)と言って、睡眠時間のことを意味する。5時間睡
眠を取ったら入試で落ちるとまで言われていた「競争原理」が働いていた。
国公立・早稲田・慶応を目指す生徒には、3年間運動部の部活動を続ける余裕
がなかったと記憶している。私の同級生のK君は、バスケットボールを続けな
がら、新潟大学に合格した。同級生として尊敬に値する人物だと感心したほど
である。部活と勉強の両立は「高校生のテーマ」として長い間続いたが、
10年以上前から、スポーツ推薦制度ができたので、私の世代ほど厳しくはな
くなっていることも確かである。しかし、長い間運動部の上下関係には度が過
ぎていると感じてきた人間である。ある元プロ野球選手の言葉を借りると、
「1年生はゴミ、2年生は人、3年生は神さま」ほどの開きがあるようだ。
いじめやいやがらせは普通だったとのことを聞いた。異常な世界で、「野球バカ」
を象徴している。高校教育の中での部活動であり、プロを養成する場所ではない
ことを強調したい。ある強豪チームの監督は「選手以前に人間である」ことを
指導している、将来社会人として必要な礼儀やマナーを重視していると。
このことが本来の「スポーツ教育」だと私は思っている。良い意味での競争意識
は絶対に必要である。「切磋琢磨」の言葉の意味は、競い合って向上するで、
英語では、「improve together through friendly rivalry」である。
先生とは2005年の正月に電話でお話しをし、その後一度、手紙のやり取り
をして、3月の末にお会いする約束をしていた。申し訳ないことに、私が体調
を崩してその約束を果たせなかった。そのことを電話でお話しした時に、とて
も残念がっていたことが忘れられない。先生は年齢的にも教え子との人生最後
の機会になると感じていたのかもしれない。お気持ちはよく理解できたのに。
岩井先生は、私が2年生のときに、36歳の新任で英語の先生として赴任され
てきて、選択の英語の授業を教わった。寡黙の紳士で真面目な先生であった。
先生が一度私に「君の答案で君の実力がわかるよ」と言われたことは忘れられ
ない記憶だ。この言葉の意味が、実感として分かるようになったのは、私が
教師になってからである。記述の答案には生徒の学力が表れる。私の備忘録の
ためにも、岩井先生から返事をいただいた手紙の冒頭部分を書いておく。
「このたびは電話とお手紙、数々の玉稿、有り難うございました。まことに懐
かしい人にめぐり合った思いで、ただいま一通り拝読したところです。感想も
追想も尽きませんが、ひとくちにいえば、当時の私が受け止めた相川君の印象
が間違ってはいなかったこと。その人柄が相川先生の授業でおおいに生かされ
ていること。この先生は、丁寧に教えてくれるよき導き手であり、飾らぬ温か
い話し相手であるらしい...。ご自分で天職を感じておられるのも、むべなる
かな、と共感をおぼえます。英語教育については、(指導法そのものは)世の
実態として人さまざまで、それこそピンからキリまであります。研究・実践・
評価に裏付けられ、しかも『自分らしい』指導法であることが求められますが、
さすがに30余年の研鑽と自信のほどを感じました」と過分な温かい激励の評
価をしていただき、恐縮しながら、今も懐かしく岩井先生のお手紙を読み返し
ましたところだ。
岩井先生は、中学9年、研究所2年、新城高校14年、それから管理職となり、
校長で定年を迎えた。その後、日大で11年の英語教育で、並行して洗足短大
の英文科で「国語表現法」を教えられたとのことです。中学と研究所では、
Oral Approach に取り組んでいたようだ。現在のコミュニケーション活動につ
ながる研究と私は理解している。ALT等の活用が考えられない時代において
のことだ。進歩的なアプローチと言える。新城高校では、「受験教育」を求められ、
悩みがながら模索中だったことを初めて知った。真面目な教育者の先生であった
ことを思い出す。
先生が私と再会できることを望んでいたことは充分承知していたが、私の体調が
悪化したために、3月にお会いして、お話しができなかったことがとても残念で、
先生には申し訳ない思いで一杯との気持ちは今でも変わっていない。
この先生のお手紙で作家の山崎洋子さんの存在を知った。私の思い違いで、先生
との音信が途絶えてしまった。山崎洋子さんとFBで友達になり、私が思い違い
をしていたことがわかった。岩井先生のお身体の具合が良くないことを知り、
山崎さんとお見舞いに伺いたいと思い、先生に電話でその旨を連絡をしたが、
体力的に無理との話しで、諦めました。その後連絡も遠慮しているので、消息が
わからない。元気でいらっしゃることを願っています。昭和の香る学究肌の先生
です。今の時代の高校の先生にはいないタイプで、私の尊敬していた小林先生と
イメージが重なる。昨年5月に山崎さんにお会いしました。城友会総会で講演さ
れると知り、母校へ出かけたのです。岩井先生に対しては、共通の印象を抱いて
います。
*
1年の3学期に校舎が完成して、やっと肩身の狭い間借り生活から開放されて、
自分たちの学校生活が送れるようになった。1年生の時には部活動はなく、
同好会としてスタートした。私は、野球同好会に入り、放課後友達と軟式のボ
ールで練習して遊んでいた程度のものだった。その中に、高校3年間を通じて
行動をともにした友人にS・F君がいた。彼の家にも何度もおじゃまし、泊め
てもらったりし、彼のお母さんにはとてもお世話になった。お母さんには
「如才ない人」だと言われて、かわいがっていただいた。彼のおかげで、それ
なりの高校生活が送れたように思う。定期試験の後に、二人でよく映画を見に
行ったものだった。川崎・渋谷・新宿へと一緒に出かけたことを記憶している。
2年生になって、同好会のメンバーが部を作り、ゼロからのスタートだった。
先輩がいない中で、1年生の後輩を迎えることになった。私は、軟式から硬式
にとボールを変えて新しい野球部を作ってゆく決心がつかないで、野球から離
れた。S君も一緒に止めた。野球にかける時間がないこと、正直に言うと、
坊主頭がいやであった。私の高校生活の目的は、「大学受験」にあった。特別
な技術も才能もない私が、将来どのように生きていくか、そのためには、大学
の4年間という時間がどうしても必要だからだ。ここでも野球を続けたい気持
ちがあったが、私の力では勉強との両立はできないと考えた。その当時、受験
生は、「4当5落」(死語)と言って、睡眠時間のことを意味する。5時間睡
眠を取ったら入試で落ちるとまで言われていた「競争原理」が働いていた。
国公立・早稲田・慶応を目指す生徒には、3年間運動部の部活動を続ける余裕
がなかったと記憶している。私の同級生のK君は、バスケットボールを続けな
がら、新潟大学に合格した。同級生として尊敬に値する人物だと感心したほど
である。部活と勉強の両立は「高校生のテーマ」として長い間続いたが、
10年以上前から、スポーツ推薦制度ができたので、私の世代ほど厳しくはな
くなっていることも確かである。しかし、長い間運動部の上下関係には度が過
ぎていると感じてきた人間である。ある元プロ野球選手の言葉を借りると、
「1年生はゴミ、2年生は人、3年生は神さま」ほどの開きがあるようだ。
いじめやいやがらせは普通だったとのことを聞いた。異常な世界で、「野球バカ」
を象徴している。高校教育の中での部活動であり、プロを養成する場所ではない
ことを強調したい。ある強豪チームの監督は「選手以前に人間である」ことを
指導している、将来社会人として必要な礼儀やマナーを重視していると。
このことが本来の「スポーツ教育」だと私は思っている。良い意味での競争意識
は絶対に必要である。「切磋琢磨」の言葉の意味は、競い合って向上するで、
英語では、「improve together through friendly rivalry」である。