1年生の時に、1・2学期の間借りの学校生活が、生徒と教師の親密感を深め
たことも事実である。私たち生徒は、1学期と2学期で通う学校を交代させら
れた。先生方は、昼休みに自転車(現在のような車社会になっていなかったた
めに)で移動して授業をしなければならない苦労があったことを記憶している。
1期生と教える先生方の連帯意識みたいなものを感じていたのは、私だけでは
ないと思う。私は何人かの先生とはよく話をする生徒だった。特に印象に残っ
ているのは、3人の先生である。その先生方とは、毎年の年賀状のやりとりが
ほぼ40年続いた。残念ながら、この12年の間に、2人先生が亡くなられた。
先生への感謝の気持ちで、実名を挙げることにする。
鯉淵次一先生(東京理科大卒業)は、2年生の時の担任で、物理の授業を教
わった。私のことを信頼してくれていた先生で、修学旅行の時に、移動する船
の中で、いろいろな話しをしてくださったことは、忘れられない思い出である。
鯉淵先生は、私が欠席し連絡を忘れた時でも、私には注意しなかった。
一度冬に、私はオーバーコートの着用をして登校した時に、コートを没収され
たことがある。そのコートは父親が、ある養護施設で私のためにオーダーした
もので、グレーのコートだった。それが校則違反になっていた。鯉淵先生は何
も言わずに私に返してくれた。先生の私への信頼は生涯忘れることはなかった。
その鯉淵先生とは、私が教師になってから7~8年後(私が30歳くらい)に
偶然、実践女子大学の説明会でお会いし、帰りに、喫茶店でお話しさせていた
だいた。その時の先生の私に対する話し方は生涯忘れることはない。教え子で
あった私に、同じ教師の立場で、対等に話しをしてくださったことが、嬉しく
また懐かしく思い出される。多弁ではないが誠実な先生であった。
石井英吉先生(早稲田大学英文科卒業)は、3年次の担任で英語の先生であ
った。先生に教わったのは3年生になってからで、私は1年生の時から、石井
先生の作る試験問題は苦手だった。英文の読解問題で、全体的な把握の理解を
問う問題がよく出題された。私は文法的な問題や、部分的な解釈、書き換え表
現などが得意であったが、全体的な把握は苦手だった。これは私の課題の一つ
だった。もう一つの苦手なことは長めの日本文の英訳だった。この基本を石井
先生の授業から学んだ。和文英訳の演習の授業で、受験のための授業と言える
が、入試での長文の和文英訳の問題は、「半分の点数が取れればいい」のだと
教わった。この言葉が私の心の負担を軽くしてくれたのだ。その半分の点数を
取るために必要なのは、「基本文型」の応用であることと、その具体的な例を
教えていただいた。私は、独学的学習をしていたが、この授業だけは真面目に
取り組んでいた。私はプリントされた演習問題に積極的に取り組み、自発的に
毎時間黒板にでて、自分で考えて答えた英文を書いて、そのつど添削してもら
った。ようやく3ヶ月かかって、めどがつくようになった。とても感謝したこ
とを覚えている。このような経験が教師になってから生きることになる。
石井先生との年度当初の面談で、先生は、私に「君は将来教員になる気はない
か?」と聞かれて、教育系の国立大学(学芸大学)への受験を勧めてくれた。
私は、先生に「教員になる気はまったくありません。だから学芸大学の受験は
しません。受験校は自分で探します」とはっきり答えていた。私は、家庭事情
から、家から通える国公立大学しか受験させてもらえなかった。選択肢は狭く、
受験可能な大学は少数であった。それは自分の学力と科目の関係にあったのだ
が。その当時、国立大学は一期校と二期校に分かれていて、受験科目が5教科
6科目を課すのが普通であった。国語・数学・英語・理科・社会の5教科で、
文系は、社会2科目、理系は、理科2科目で、6割程度の成績が取れれば入れ
たのである。難関の一期校(ブロックの中心大学)では7~8割くらいの点数
が取れなければ、合格できなかった(一部にはもっと楽な大学も入っていたの
だが)。東大・京大、関東では、一ツ橋・東工大・東京教育大などがその代表
である。二期校は各県に所在する大学で、その中堅の学校が静岡大学であった。
簡単に言うと、人口の多い県にある大学が、難易度が高いということだ。つま
り同じ二期校でも、私の出身の神奈川県の横浜国立大学のほうが、静岡大学よ
り難易度が高いということだ。付加しておくと、二期校で難関校は、東京外国
語大学と横浜国大(経済・工学部)であった。東京学芸大学や横浜国大の学芸
学部は、私が入学した横浜市大の文科よりも難易度が下である。二期校の大学
は、人口の少ない県ほど難易度が下がり、地方の国立大学へいくほど入りやす
くなる原理は、今でもまったく変わっていない。国立一期校と二期校の間にあ
ったのが、公立大学で、通常は、国立大学よりも易しいと言えた。受験科目も
1~2科目少ない傾向にあり受験者しやすかった。しかし、大都市にある公立
大学は難しい大学であった。東京都立大学(現在の首都大東京に併合)、横浜
市大、大阪市大は難関大学とはいえないが、合格しにくい大学であった。
私の時代は、国・公立大学を3校受験することが可能だった。現在のように、
センター試験・OA入試等の複雑な制度ではなく、推薦制度もなかったので、
まったくの「一発勝負」であった。利点は複数の機会があったことだけである。
私の選択した横浜市立大学は、国立一期校と二期校の間にあり、両方の志望者
が受験する大学で、私の当時では、全国で最高倍率の大学であった。文科が
50倍を超えた。理科の化学は160倍と報じられた。この記録は破られては
いない。今は横浜市大は普通の公立大学になり学部再編が行われ、国際総合科
学部と医学部になっている。高倍率は受験科目が、私立型に近い4科目であっ
たことも大きな理由であった。私立型とは、文系が国語・英語・社会で、理系
が数学・英語・理科の3科目である。私は典型的な私立文系タイプであったの
で、国立受験は厳しかったのだ。
現在は、アベノミクスの経済も停滞している。昨日の毎日新聞(4月5日)
の3面の見出しは、黒田緩和・誤算の3年、賃上げ停滞・消費伸びず、強まる
副作用論と書かれている。GDPが世界3位の日本。GDPで国の豊かさが計
れるのだろうか。世界2位の中国経済の減速は世界経済に影響を及ぼしている。
国の経済指標の国民総生産の消費の約60%が個人消費である。物価上昇のペ
ースに比べ賃金の上昇が鈍く、家計の負担感が高まっているのが現実だ。
年金暮らしの生活は厳しくつつましい(一部の金持ちを除いて)。デフレから
の脱却はできてはいないのが日本のマクロ経済である。
現在の高校生も、20年に及ぶ長いデフレ経済不況の影響で、国・公立大学
志向が強くなっている。バブル期は私立大学の人気が高く、早稲田、慶応、
上智の3大学とMARCH(明治、青山、立教、中央、法政)へと流れた。
私の時代は一部の私立大学(早稲田、慶応、上智の3大学と中央大学)のブラ
ンド学部(中央大学法学部法律学科は、司法試験の合格率が最も高く、早稲田
大学法学部よりも上位であった)しか人気がなかった。大学がブランドではな
かった。優秀な生徒は国立一期校に進学したといっても過言ではないだろう。
当時の国立大学の年間の授業料は1万2千円で、私立大学は、文系で約5倍の
6万ぐらいで、理系はさらに高かった。ちなみに横浜市大は、1万5千円だっ
た。奨学金をもらえば、授業料はまかなえた。私がもらっていた奨学金は月額
3千円だった。
私が受験したのは、横浜市立大学だけだったが、典型的な併願大学で、第一
志望で受験する生徒は、ほとんどいなかったと言えるだろう。合格者の多くが
他の大学に進学したために、高倍率の中で、私はぎりぎりの補欠合格者(欠員
に関係なく入学できる準合格)だった。大学の合格発表の時に、私の名前が掲
示されていなく、不合格とのショックで茫然自失となった。その日の帰りに、
石井先生に報告するために学校に行き、これからのことを相談したこと、高校
の近くに住む小学校の友達(N君)の家に立ち寄った記憶は鮮明に残っている。
当日のある新聞の夕刊に私の名前が載っていたようで、小学校時代の友人が連
絡をくれたが信じられなかった。翌日夕方に、大学から(補欠)合格との知ら
せを受けたのだ。この空白の一日ほど強く記憶に残っている出来事はない。
受験の明暗を誰よりも知ったのが私である。天国と地獄ほどの違いであった。
ちなみに商学部も受験したが、落ちて当然だった。横浜市大受験の際には、
文科の徹底した「傾向と対策」を自分で行っていた。過去10年間の問題分析
である。受験4科目の傾向はつかんでいた。英語が200点、国語100点、
社会100点、数学と理科が選択で100点の合計500点満点であった。
どうやって合格ライン(6割程度)に達することができるかを考え、その分析
に対応した勉強をした。信じられないことだが、政経では、試験問題の一部を
的中させた。そこが合否の分かれ道になったと判断している。新城高校から二
人の女子が世界史で受験していた。横浜市大の社会科目は、記述問題が6割を
占めていた。政経の穴埋め問題も経済白書からだった。そこまでの勉強はして
いなかった。世界史も同様な記述問題が出ており、ほとんど書けなかったこと
を聞いた。これでチャンスが残ったと感じたのが私である。数学でのマイナス
のカバーができるかもと。その二人の女子は不合格になったが、学芸大学に合
格した。多摩高校で私と同じ補欠合格になった女子(以外他の数人は落ちた)
が、東京外大に合格したことも後から知ったことだ。高倍率は実に不確定要素
が高いと言える。一発試験の怖さでもある。
たことも事実である。私たち生徒は、1学期と2学期で通う学校を交代させら
れた。先生方は、昼休みに自転車(現在のような車社会になっていなかったた
めに)で移動して授業をしなければならない苦労があったことを記憶している。
1期生と教える先生方の連帯意識みたいなものを感じていたのは、私だけでは
ないと思う。私は何人かの先生とはよく話をする生徒だった。特に印象に残っ
ているのは、3人の先生である。その先生方とは、毎年の年賀状のやりとりが
ほぼ40年続いた。残念ながら、この12年の間に、2人先生が亡くなられた。
先生への感謝の気持ちで、実名を挙げることにする。
鯉淵次一先生(東京理科大卒業)は、2年生の時の担任で、物理の授業を教
わった。私のことを信頼してくれていた先生で、修学旅行の時に、移動する船
の中で、いろいろな話しをしてくださったことは、忘れられない思い出である。
鯉淵先生は、私が欠席し連絡を忘れた時でも、私には注意しなかった。
一度冬に、私はオーバーコートの着用をして登校した時に、コートを没収され
たことがある。そのコートは父親が、ある養護施設で私のためにオーダーした
もので、グレーのコートだった。それが校則違反になっていた。鯉淵先生は何
も言わずに私に返してくれた。先生の私への信頼は生涯忘れることはなかった。
その鯉淵先生とは、私が教師になってから7~8年後(私が30歳くらい)に
偶然、実践女子大学の説明会でお会いし、帰りに、喫茶店でお話しさせていた
だいた。その時の先生の私に対する話し方は生涯忘れることはない。教え子で
あった私に、同じ教師の立場で、対等に話しをしてくださったことが、嬉しく
また懐かしく思い出される。多弁ではないが誠実な先生であった。
石井英吉先生(早稲田大学英文科卒業)は、3年次の担任で英語の先生であ
った。先生に教わったのは3年生になってからで、私は1年生の時から、石井
先生の作る試験問題は苦手だった。英文の読解問題で、全体的な把握の理解を
問う問題がよく出題された。私は文法的な問題や、部分的な解釈、書き換え表
現などが得意であったが、全体的な把握は苦手だった。これは私の課題の一つ
だった。もう一つの苦手なことは長めの日本文の英訳だった。この基本を石井
先生の授業から学んだ。和文英訳の演習の授業で、受験のための授業と言える
が、入試での長文の和文英訳の問題は、「半分の点数が取れればいい」のだと
教わった。この言葉が私の心の負担を軽くしてくれたのだ。その半分の点数を
取るために必要なのは、「基本文型」の応用であることと、その具体的な例を
教えていただいた。私は、独学的学習をしていたが、この授業だけは真面目に
取り組んでいた。私はプリントされた演習問題に積極的に取り組み、自発的に
毎時間黒板にでて、自分で考えて答えた英文を書いて、そのつど添削してもら
った。ようやく3ヶ月かかって、めどがつくようになった。とても感謝したこ
とを覚えている。このような経験が教師になってから生きることになる。
石井先生との年度当初の面談で、先生は、私に「君は将来教員になる気はない
か?」と聞かれて、教育系の国立大学(学芸大学)への受験を勧めてくれた。
私は、先生に「教員になる気はまったくありません。だから学芸大学の受験は
しません。受験校は自分で探します」とはっきり答えていた。私は、家庭事情
から、家から通える国公立大学しか受験させてもらえなかった。選択肢は狭く、
受験可能な大学は少数であった。それは自分の学力と科目の関係にあったのだ
が。その当時、国立大学は一期校と二期校に分かれていて、受験科目が5教科
6科目を課すのが普通であった。国語・数学・英語・理科・社会の5教科で、
文系は、社会2科目、理系は、理科2科目で、6割程度の成績が取れれば入れ
たのである。難関の一期校(ブロックの中心大学)では7~8割くらいの点数
が取れなければ、合格できなかった(一部にはもっと楽な大学も入っていたの
だが)。東大・京大、関東では、一ツ橋・東工大・東京教育大などがその代表
である。二期校は各県に所在する大学で、その中堅の学校が静岡大学であった。
簡単に言うと、人口の多い県にある大学が、難易度が高いということだ。つま
り同じ二期校でも、私の出身の神奈川県の横浜国立大学のほうが、静岡大学よ
り難易度が高いということだ。付加しておくと、二期校で難関校は、東京外国
語大学と横浜国大(経済・工学部)であった。東京学芸大学や横浜国大の学芸
学部は、私が入学した横浜市大の文科よりも難易度が下である。二期校の大学
は、人口の少ない県ほど難易度が下がり、地方の国立大学へいくほど入りやす
くなる原理は、今でもまったく変わっていない。国立一期校と二期校の間にあ
ったのが、公立大学で、通常は、国立大学よりも易しいと言えた。受験科目も
1~2科目少ない傾向にあり受験者しやすかった。しかし、大都市にある公立
大学は難しい大学であった。東京都立大学(現在の首都大東京に併合)、横浜
市大、大阪市大は難関大学とはいえないが、合格しにくい大学であった。
私の時代は、国・公立大学を3校受験することが可能だった。現在のように、
センター試験・OA入試等の複雑な制度ではなく、推薦制度もなかったので、
まったくの「一発勝負」であった。利点は複数の機会があったことだけである。
私の選択した横浜市立大学は、国立一期校と二期校の間にあり、両方の志望者
が受験する大学で、私の当時では、全国で最高倍率の大学であった。文科が
50倍を超えた。理科の化学は160倍と報じられた。この記録は破られては
いない。今は横浜市大は普通の公立大学になり学部再編が行われ、国際総合科
学部と医学部になっている。高倍率は受験科目が、私立型に近い4科目であっ
たことも大きな理由であった。私立型とは、文系が国語・英語・社会で、理系
が数学・英語・理科の3科目である。私は典型的な私立文系タイプであったの
で、国立受験は厳しかったのだ。
現在は、アベノミクスの経済も停滞している。昨日の毎日新聞(4月5日)
の3面の見出しは、黒田緩和・誤算の3年、賃上げ停滞・消費伸びず、強まる
副作用論と書かれている。GDPが世界3位の日本。GDPで国の豊かさが計
れるのだろうか。世界2位の中国経済の減速は世界経済に影響を及ぼしている。
国の経済指標の国民総生産の消費の約60%が個人消費である。物価上昇のペ
ースに比べ賃金の上昇が鈍く、家計の負担感が高まっているのが現実だ。
年金暮らしの生活は厳しくつつましい(一部の金持ちを除いて)。デフレから
の脱却はできてはいないのが日本のマクロ経済である。
現在の高校生も、20年に及ぶ長いデフレ経済不況の影響で、国・公立大学
志向が強くなっている。バブル期は私立大学の人気が高く、早稲田、慶応、
上智の3大学とMARCH(明治、青山、立教、中央、法政)へと流れた。
私の時代は一部の私立大学(早稲田、慶応、上智の3大学と中央大学)のブラ
ンド学部(中央大学法学部法律学科は、司法試験の合格率が最も高く、早稲田
大学法学部よりも上位であった)しか人気がなかった。大学がブランドではな
かった。優秀な生徒は国立一期校に進学したといっても過言ではないだろう。
当時の国立大学の年間の授業料は1万2千円で、私立大学は、文系で約5倍の
6万ぐらいで、理系はさらに高かった。ちなみに横浜市大は、1万5千円だっ
た。奨学金をもらえば、授業料はまかなえた。私がもらっていた奨学金は月額
3千円だった。
私が受験したのは、横浜市立大学だけだったが、典型的な併願大学で、第一
志望で受験する生徒は、ほとんどいなかったと言えるだろう。合格者の多くが
他の大学に進学したために、高倍率の中で、私はぎりぎりの補欠合格者(欠員
に関係なく入学できる準合格)だった。大学の合格発表の時に、私の名前が掲
示されていなく、不合格とのショックで茫然自失となった。その日の帰りに、
石井先生に報告するために学校に行き、これからのことを相談したこと、高校
の近くに住む小学校の友達(N君)の家に立ち寄った記憶は鮮明に残っている。
当日のある新聞の夕刊に私の名前が載っていたようで、小学校時代の友人が連
絡をくれたが信じられなかった。翌日夕方に、大学から(補欠)合格との知ら
せを受けたのだ。この空白の一日ほど強く記憶に残っている出来事はない。
受験の明暗を誰よりも知ったのが私である。天国と地獄ほどの違いであった。
ちなみに商学部も受験したが、落ちて当然だった。横浜市大受験の際には、
文科の徹底した「傾向と対策」を自分で行っていた。過去10年間の問題分析
である。受験4科目の傾向はつかんでいた。英語が200点、国語100点、
社会100点、数学と理科が選択で100点の合計500点満点であった。
どうやって合格ライン(6割程度)に達することができるかを考え、その分析
に対応した勉強をした。信じられないことだが、政経では、試験問題の一部を
的中させた。そこが合否の分かれ道になったと判断している。新城高校から二
人の女子が世界史で受験していた。横浜市大の社会科目は、記述問題が6割を
占めていた。政経の穴埋め問題も経済白書からだった。そこまでの勉強はして
いなかった。世界史も同様な記述問題が出ており、ほとんど書けなかったこと
を聞いた。これでチャンスが残ったと感じたのが私である。数学でのマイナス
のカバーができるかもと。その二人の女子は不合格になったが、学芸大学に合
格した。多摩高校で私と同じ補欠合格になった女子(以外他の数人は落ちた)
が、東京外大に合格したことも後から知ったことだ。高倍率は実に不確定要素
が高いと言える。一発試験の怖さでもある。