私が高校へ入学したのは、昭和38(1963)年4月である。その翌年の

10月に、「東京オリンピック」の開催が決定していた。社会インフラが整備

されていった時代である。。

 自分の希望していなかった高校に進学することを余儀なくさせられて、私の

高校生活がスタートした。私と中学で同レベルの同級生が、何名も県立多摩高

校に進学したことで、彼らには負けたくない気持ちと、家の近くにある多摩高

校の生徒に対する「コンプレックス」を抱きながらの高校生活だった。

 私の学校は、入学時には校舎が完成していなかった。校舎ができたのは3学

期で、1学期と2学期は、多摩高校と近くの県立向の岡工業高校に間借り生活

になった。この「間借り生活」は特殊な体験と言える。入学した生徒は8クラ

スの488人だった。受験で落ちた生徒は、150人ぐらいいた。団塊の世代

は、競争の激しい世代である。1クラスが61人で、今ではとても考えられな

い。そんなに人数が多くても、「学力差」はそれほど大きくなく、だから努力

次第で、成績の上位になれるのではと考えていた。おそらく私の入学時の成績

は、真ん中あたりではなかったかと推測していた。それは入学直後の実力試験

がそのくらいだったからである。その実力試験では、英語は50番ぐらいに入

っていた。その時に、これなら英語では1番を狙えると思い、そうなると決意

した。最初の中間試験の結果は、学年で英語が1番になった。私の学校では、

5教科の成績・総合の順位を50番まで、職員室の近くの掲示板に張り出して

いた。総合で50番といっても、全体の1割だ。なかなか大変であった。最初

の中間試験が、総合で50番くらいだと記憶している。私にとって、250番

ぐらいからの50番である。この学校で充分やっていけるとの確信を得たこと

を覚えている。中学よりも学習努力の結果が出やすいと感じた。高校では、

中学の時に技能教科や、理科・社会で成績が良くて、上位で入学した生徒は、

英語や数学の得意な生徒に抜かれてしまった。普通高校では、国語・数学・

英語の3教科がポイントの教科になってしまう。特に英語と数学の両方ができ

れば、トップレベルになる可能性は高くなるが、私の高校では、そのような生

徒はまれだった。両方の成績が良ければ、新城高校には来ていなかっただろう。

学校の成績は、やはり女子のほうが高かった。男子6割で女子4割の比率の学

校だが、「女高男低」の成績と言えた。のちの世代もこの傾向は変わらない。

2年生になる時に、成績でクラス編成がなされ、とても不思議な共学の学校に

なった。男子だけの3クラス、女子だけの3クラス、共学クラスが2クラスで、

その2クラスは、男子54人と女子7人のクラスと男子53人と女子8人のク

ラスで、成績上位者が集められた。当時の先生たちは何を考えていたのか理解

できなかった。それも1月の実力試験の一回だけの試験が基準になったようだ。

生徒には納得がいかないクラス編成で、私は腹を立てていた生徒の一人であっ

た。2年の最初の頃は怒っていた男子クラス・女子クラスの生徒も慣れてくる

と、この方がお互いに気楽だという気持ちに変化していった。私の実力試験の

結果は並みの成績だったように思う。だがクラス分けで、男子クラスに入れさ

せられたとの思いは消えることはなかった。私は上位のクラスにいる生徒に対

して秘かな対抗意識を持つようになったが、多くの生徒はそんな意識はなかっ

たようだ。試験の成績が貼り出されると、男子クラスと女子クラスから何名の

名前が載っているかを注目していた。1クラス平均2、3名くらいで、50番

の中に15人前後の名前が出ていたように記憶している。私は、その中に入る

ことの方が多かったとの記憶だ。私はかなり意識していたと思う。教室も上位

の2クラスは3階にあり、あとの6クラスは2階に配置されていた。私たちは

上のクラスという言い方をしていた。この生徒の心理を、授業の中で対抗意識

を故意に煽るような馬鹿な英語の教師がいた。Kという名の教員だ。青山学院

の英文科の出身と言っていたが、アホヤマの出身かと私は言っていた。生徒の

心がつかめない教員だった。上のクラスで、男子クラスや女子クラスの生徒は

できが悪いと言い、私が教わった男子クラスでは、上のクラスの生徒はたいし

たことがないような言い方をする教員だった。当然生徒からは嫌われていたが、

本人はそのことに気づいてはいなかったようだ。自分の言動が生徒に与える影

響さえもわかっていないのだ。教師の資格がないと言える。生徒の見る目は厳

しいものだ。私は教師になってから、そのことを教訓とし、「反面教師」とし

て常に念頭にいれてきた。その逆に、良い先生も何人もいたことも事実だ。