私が小学3年生の9歳の時に、母が病死した。私の誕生日を過ぎた深夜のこ

とであった。それまで長い間家で寝たり起きたりしていた。武蔵小杉の病院に

入院して半年ぐらいで亡くなった。ただ寂しかった。父に連れられて何回も

病院に行き、病院の匂いが鼻についていやな気持だった。私は病院が嫌いにな

り、暗い気持ちになるだけだった。今でも病院へ行くと思い出すことがある。

母の死が近づいた頃には、「助からない」と子ども心に感じていた。母が亡く

なった時に、病院の死体安置所でのことは生涯忘れることはできない。

とても暗く寂しい場所だった。私はその時に泣けなかった。涙を流して泣けな

いほど悲しかった。今の私では、涙が溢れて止まらないだろう。母の死は胸が

引き裂けるほどの「悲しみ」である。周りにいた人が私の姿を見て、私のこと

を冷たい子どものように言った。「お前たちに僕の気持がわかるのか」と言い

たかった。大人はうわべで人を見てしか判断しないことを初めて知った。

このことも終生忘れることのできない体験であった。私は母の「笑顔」を知ら

ない。この一点が残念でならない。汚い家の縁側で一緒にひなたぼっこをした

ことが、ただ一つの「思い出」である。生気のない顔だった。この時の写真だ

けは1枚残っている。私が毎日、目にしている写真は、父と結婚した時のもので

ある。若い母が軍服姿の父と写っている。せめて母の「笑顔」だけでも、

私の記憶に残っていればなあとの思いが今でもある。今のほうがずっと強いか

もしれない。私が亡くなったら、来世でどうしても会いたい。ただ会いたいの

だ。そう思うだけで涙がでてくる。

 近いうちに、川崎市の霊園から、裾野市営墓地に墓を移設して、母を連れて

きて土に埋葬する。私が静岡県に来てから46年、裾野に家を建て住むように

なってから33年が経過する。母を失ってから60年になる。60年目にして、

母が私の近くにくるのだ。これからは頻繁に会いに行ける。感慨深い想いで

ある。



 自分の子どもには、私のようなつらく寂しい思いをさせたくないとの考えの

原点はここにある。私が子どもの頃の母の死のことを、御殿場南高校の授業で

話したことがある。ひとりの生徒が、私の話しを聞いて、涙を流してくれた。

その涙を流した生徒のことは生涯忘れない。授業の後、その生徒に、

I shall never forget your tears.と書いたメモを書いて渡したことを覚えて

いる。I・Nという生徒である。その生徒が2年生の時である。



 私の母が亡くなってから1年後に、父が母の妹である叔母と再婚し、叔母が

家に来た。お母さんとは呼べなかった。今でも母への想いは強い。当時の私は

子どもなりに、義母に迷惑をかけてはいけないと思い、子どもながらに努力し

て行動した。俗に言う「いい子」であるように努めたのである。近所の人も

「隆君は礼儀正しいいい子ですね」と、親は言われていたようだ。

私は自分なりにプレッシャーを感じながら、早く大人になって「自立」しなけ

ればと考えていた。父と一緒に電車に乗った時でも、一人で電車のドアのとこ

ろに立ち、外の景色を見ていることが多かった。ある意味では、ませた子ども

だったかもしれない。早く大人になりたいとの気持ちが強かった。この頃から

私の「自立心」が育ったのだと思う。私は子供への責任は「自立」させること

だとの考え方で、自分の子どもの教育をした。長男は4月12日に43歳、

次男は6月23日に41歳になる。私も妻も6月に69歳になる。