私が小学校に入学したのは、昭和29(1954)年、新城小学校であった。
入学式の日に、桜の花が満開だったことをよく覚えている。誰と一緒だったの
かは記憶にない。母は病弱だったために、入学式には一緒ではなかったはずだ。
そうすると父と一緒だったことになるが記憶にない。「桜の花がきれいだなー」
というだけの記憶である。私の家からは学校までは比較的近かった。
*
女の子から「一緒に遊ぼう」と言われても、ままごとが嫌いだったので、
一緒に遊ぶことはなかった。一人で遊んでいる方がよかった子どもだった。
一度だけ女の子の誕生会に誘われて、その家に行ったことを記憶しているが、
何人いて何をしたかは記憶にない。その女の子が好意を持っていたことは知
っていた。私には、好きな女の子がいた。T・Fという女の子だ。細面の
長い髪の子で頭の良い女の子だった。私の「片想い」だったのだろう。
大学の頃までその想いを引きずっていたくらいだ。その子とは、同じ高校に
通うことができなかった。その頃の受験の状況は高校時代のところで書くが、
その子とは中学も違う。高校は、多摩高校に進学するだろうと思っていた。
私が多摩高校に入学できれば高校生活を共にすることができると中学3年の
時に思っていた。私は、多摩高校から新城高校へと志願届の変更を余儀なく
された。予想通り、彼女は多摩高校に入学した。私たち新城高校の1期生は、
1学期と2学期は居候生活だった。私の1学期は、多摩高校の一番奥の校舎
の2階の教室でスタートした。この「屈辱感」が高校生活の私のコンプレッ
クスだったが、大学受験では負けないとのモチベーションとなった。
彼女への想いが私の「初恋」と呼べるだろう。高校1年の1学期に、学校で
偶然顔を合わせることがあったが、正直に言うと、顔を合わせたくなかった。
コンプレックスからだ。高校2年の修学旅行先でも、偶然ある店で顔を合わ
せることになった。別の高校なのに、行く先と日程が重なっていたからだ。
お互いに話しはしなかった。それぞれ友達と自由時間に外出して楽しんでい
たからだ。彼女と再会したのは、川崎市の成人式の時だった。その時にはよ
く話しをした。私が大学を卒業する前に、小学校の4年生の担任のE先生
(理科が専門)のところへと、二人で訪問した。先生は私たちが付き合って
いると思ったらしい。そのようなニュアンスの言い方をしていたと記憶して
いる。彼女とは年賀状のやりとりをしていたに過ぎない。「付き合いたい」
との想いは私にあったことは確かだ。先生のお宅を訪れた日に、彼女のお宅
まで送り、お母さんに紹介されたことをよく覚えている。その後会うことは
なかった。私の意志からだが、付き合う時間もなかった。彼女は高校を卒業
してから実社会に入り、私よりもずっと大人になっていたことを感じた
というのが本音ではないか。好意を持っていたのは確かだ。彼女が結婚して
千葉に嫁いだことをきっかけに、年賀状のやりとりをやめた。
小学校4年生の出会いからこの段階まで引きずったことを誰にも話したことが
ない。妻にも話してはいないと思う。何でも妻には話してはいるが、付き合っ
たわけではないのだから、話す必要もないと思っていた。
*
女の子の記憶には、5年生の時の記憶がある。私は不器用なせいか、家庭科
が嫌いであった。学校で編み物をさせられて、今で言う「不登校」になった。
数日休んでしまった。そのために更に遅れてしまった。その時に、優しく教え
てくれた女の子がいた。名前も覚えていないが、手取り足取り教えてくれた
おかげで、マフラーを編むことができた。良い思い出である。
悪い思い出も書いて置く。私は小学校5年生の夏に、宿河原に引っ越した。
多摩高校の少し先の場所にあり、高校のグランドが近く、家の前は梨畑だった。
川崎市営住宅である。裏手は多摩川の土手があるような場所だった。今では、
いい住宅地になっている。昭和33(1958)9月には、狩野川台風の大
被害が神奈川県でもあった。鶴見川が氾濫した。私の家の前にある梨畑の前を
流れる小さな川も氾濫して一面が川になった。私の住宅は平屋の集合住宅にな
っており、多摩川の土手の方に向かって傾斜があり、私の家が最前列にあった
ために、床下浸水の被害を受けた。後ろの列にある住宅は雨が降ったぐらいの
様子だった。被害があったのは、最前列の住宅一棟の10軒だけ床下浸水にな
った。多摩川も水量が上がり、濁流となって流れていたことが記憶に残ってい
る。静岡県の伊豆半島ではたくさんの人命が亡くなったことを後に知ることに
なった。
*
宿河原から武蔵新城まで南武線で2学期から通った。転校は全く考えていな
かった。卒業までの1年半電車通学をした。学校が終わってから、子ども会の
野球の練習にあけくれていた。毎朝駅の売店で、スポーツ新聞(スポニチ)を
買っていた。練習の後に、駅近くのそば屋に一人で立ち寄ることが何回かあっ
た。それをクラスの帰りの会で取り上げられて非難された。女の子の告げ口で
あった。別に何も悪いことをしたわけではないが、帰りに飲食店に寄ること
自体が問題にされたのだ。とても嫌な思い出だったことを記憶している。
その女の子に嫌われていたのだろうが、その覚えは全くなかった。女の子の
気持ちは実に難しいと、この頃から感じていたようだ。私は「大人っぽい」
子どもだったと自分でも思っている。小学校3年生の時に母を亡くしている。
その頃から「自立心」が強くなったようだ。
入学式の日に、桜の花が満開だったことをよく覚えている。誰と一緒だったの
かは記憶にない。母は病弱だったために、入学式には一緒ではなかったはずだ。
そうすると父と一緒だったことになるが記憶にない。「桜の花がきれいだなー」
というだけの記憶である。私の家からは学校までは比較的近かった。
*
女の子から「一緒に遊ぼう」と言われても、ままごとが嫌いだったので、
一緒に遊ぶことはなかった。一人で遊んでいる方がよかった子どもだった。
一度だけ女の子の誕生会に誘われて、その家に行ったことを記憶しているが、
何人いて何をしたかは記憶にない。その女の子が好意を持っていたことは知
っていた。私には、好きな女の子がいた。T・Fという女の子だ。細面の
長い髪の子で頭の良い女の子だった。私の「片想い」だったのだろう。
大学の頃までその想いを引きずっていたくらいだ。その子とは、同じ高校に
通うことができなかった。その頃の受験の状況は高校時代のところで書くが、
その子とは中学も違う。高校は、多摩高校に進学するだろうと思っていた。
私が多摩高校に入学できれば高校生活を共にすることができると中学3年の
時に思っていた。私は、多摩高校から新城高校へと志願届の変更を余儀なく
された。予想通り、彼女は多摩高校に入学した。私たち新城高校の1期生は、
1学期と2学期は居候生活だった。私の1学期は、多摩高校の一番奥の校舎
の2階の教室でスタートした。この「屈辱感」が高校生活の私のコンプレッ
クスだったが、大学受験では負けないとのモチベーションとなった。
彼女への想いが私の「初恋」と呼べるだろう。高校1年の1学期に、学校で
偶然顔を合わせることがあったが、正直に言うと、顔を合わせたくなかった。
コンプレックスからだ。高校2年の修学旅行先でも、偶然ある店で顔を合わ
せることになった。別の高校なのに、行く先と日程が重なっていたからだ。
お互いに話しはしなかった。それぞれ友達と自由時間に外出して楽しんでい
たからだ。彼女と再会したのは、川崎市の成人式の時だった。その時にはよ
く話しをした。私が大学を卒業する前に、小学校の4年生の担任のE先生
(理科が専門)のところへと、二人で訪問した。先生は私たちが付き合って
いると思ったらしい。そのようなニュアンスの言い方をしていたと記憶して
いる。彼女とは年賀状のやりとりをしていたに過ぎない。「付き合いたい」
との想いは私にあったことは確かだ。先生のお宅を訪れた日に、彼女のお宅
まで送り、お母さんに紹介されたことをよく覚えている。その後会うことは
なかった。私の意志からだが、付き合う時間もなかった。彼女は高校を卒業
してから実社会に入り、私よりもずっと大人になっていたことを感じた
というのが本音ではないか。好意を持っていたのは確かだ。彼女が結婚して
千葉に嫁いだことをきっかけに、年賀状のやりとりをやめた。
小学校4年生の出会いからこの段階まで引きずったことを誰にも話したことが
ない。妻にも話してはいないと思う。何でも妻には話してはいるが、付き合っ
たわけではないのだから、話す必要もないと思っていた。
*
女の子の記憶には、5年生の時の記憶がある。私は不器用なせいか、家庭科
が嫌いであった。学校で編み物をさせられて、今で言う「不登校」になった。
数日休んでしまった。そのために更に遅れてしまった。その時に、優しく教え
てくれた女の子がいた。名前も覚えていないが、手取り足取り教えてくれた
おかげで、マフラーを編むことができた。良い思い出である。
悪い思い出も書いて置く。私は小学校5年生の夏に、宿河原に引っ越した。
多摩高校の少し先の場所にあり、高校のグランドが近く、家の前は梨畑だった。
川崎市営住宅である。裏手は多摩川の土手があるような場所だった。今では、
いい住宅地になっている。昭和33(1958)9月には、狩野川台風の大
被害が神奈川県でもあった。鶴見川が氾濫した。私の家の前にある梨畑の前を
流れる小さな川も氾濫して一面が川になった。私の住宅は平屋の集合住宅にな
っており、多摩川の土手の方に向かって傾斜があり、私の家が最前列にあった
ために、床下浸水の被害を受けた。後ろの列にある住宅は雨が降ったぐらいの
様子だった。被害があったのは、最前列の住宅一棟の10軒だけ床下浸水にな
った。多摩川も水量が上がり、濁流となって流れていたことが記憶に残ってい
る。静岡県の伊豆半島ではたくさんの人命が亡くなったことを後に知ることに
なった。
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宿河原から武蔵新城まで南武線で2学期から通った。転校は全く考えていな
かった。卒業までの1年半電車通学をした。学校が終わってから、子ども会の
野球の練習にあけくれていた。毎朝駅の売店で、スポーツ新聞(スポニチ)を
買っていた。練習の後に、駅近くのそば屋に一人で立ち寄ることが何回かあっ
た。それをクラスの帰りの会で取り上げられて非難された。女の子の告げ口で
あった。別に何も悪いことをしたわけではないが、帰りに飲食店に寄ること
自体が問題にされたのだ。とても嫌な思い出だったことを記憶している。
その女の子に嫌われていたのだろうが、その覚えは全くなかった。女の子の
気持ちは実に難しいと、この頃から感じていたようだ。私は「大人っぽい」
子どもだったと自分でも思っている。小学校3年生の時に母を亡くしている。
その頃から「自立心」が強くなったようだ。