私には、母親の愛情を受けて育てられた記憶がない。病弱の母の顔しか浮か
んでこない。母親の笑顔を知らない。この歳になっても、「母に会いたい」と
の想いは消えない。誰に会いたいかと言えば、「母」しかいない。私の9歳の
誕生日が過ぎた深夜に亡くなった。
私の幼い頃の記憶は、病弱な母の姿だ。戦後食べるものもなく、医療も良く
なかったのだろう。弟が生まれてから母の体の具合がだんだんと悪化したよ
うだ。そのために、私は埼玉に住む祖父母のところに半年ほど預けられた。
その時に、叔父が私を迎えに来て、上野の動物園に連れて行くとの話しで、
着いたところが埼玉の田舎であった。途中でおかしいなと幼い心で感じた。
どこに連れていかれるのかなと思っていた。動物園とは違うとなんとなく感じ
ていた。今でも記憶として鮮明に残っている。
埼玉の田舎は、鴻巣駅から羽生方面へとバスに乗って行く。何分ぐらい乗る
のだろうか。平地の田圃しかないような場所へと進み、バス停で下りる。そこ
から歩いて10分くらいのところに、数件の農家があった。バス停に近い方の
家が田舎の家である。殺風景な景色しかない。私には田舎への郷愁はない。
この幼い頃の後、何回くらい田舎へ行っただろうか。私が一人で田舎へと行っ
たのは、小学校5年生の時である。時期は覚えてはいないが、夏休みのことだ
ろうとの記憶だが、小学校5年生の時は野球漬けだったから、夏休みではない
かも知れない。
田舎で私の相手をして遊んでくれたのが、その当時そこにいた雑種の犬であ
った。「犬」の名前の記憶はないが、毎日その犬に遊んでもらった記憶は、
はっきりと残っている。私にとって、私より大きいその犬が唯一の遊び相手で、
何をしても怒らないで私の相手をしてくれたのだった。半年ぐらいの間ずっと
私のそばにいてくれた。その犬がいたおかげで、「寂しさ」を紛らわすことが
できたと思っている。もしその犬がいなかったら、どんなに寂しい思いをした
ことだろう。今振り返ると、「感謝」の言葉しか浮かばない。その犬が唯一の
「友」であり、兄のような存在だった。半年の間、その犬にかわいがってもら
ったとの表現がふさわしいかもしれない。
一年後に再び田舎に行った時に、私がバス停から降りて、500メートル先
の家が視野に入った時に、その犬が飛んで迎えに来てくれたことは、鮮明な記
憶として残っている。とても嬉しい「再会」だった。その犬が、私の最初の犬
との出会いで、最初の「友」だった。4歳前後の記憶だと思うが、この犬には、
私の寂しさがわかっていたように思えてならない。犬とは利口な動物で、人と
共生してきた長い歴史がある。以前に盲導犬を刺した事件が報じられたが、
とんでもない愚かな行為としか言いようがない。犬は、人の友であると思う。
32年前からおよそ10年間、私の父が生きていたころに、シェルティーを
飼ったことがあるが、実に繊細で利口な犬だった。私たちの心がわかるようだ
った。バロンという名だった。約10年の命だった。私には従順であったが、
散歩に行くときに、行きたくない方向に連れて行こうとしても、その方向へ行
きたくない時には、頑として座ったまま動こうとしない頑固さも持っていた。
犬との思い出は尽きない。
話しを戻そう。私は幼稚園に通っていなかったので、小学校に入る前に、
他に幼いころの友達の記憶が全くない。私の同世代が、どのくらい幼稚園に通
っていたかは知らない。今、私の孫は、小学校2年生の男の子(翔)と、保育
園の年長の女の子(煌)である。来月には、3年生と新入学生だ。孫が元気で
成長してくれることをただ願っている。その孫への思いをブログに綴っておい
た。いつの日か孫に読んでもらいたい。
*
今年になってから、裾野市の墓地の抽選があって、私のお墓の場所が決まった。
富士山を正面に見渡せる高台にある。見晴らしの良い場所だ。その中の中央部
が抽選で決まり、喜んでいた。私の家のお墓は川崎市の霊園にある。父親が建
てたものだ。そのお墓を裾野市に移設することが具体化している。墓石はその
まま残すことにした。そこに墓誌を加えることに決めた。その墓誌に私の好き
な言葉を私が書いて彫ってもらうことにした。「心こそ大切なれ」との座右の銘である。
このお墓に「母」の遺骨を連れてきて、土に埋葬することにした。
将来は、私も一緒に入ることになる。そのことを今、仏前に報告したところだ。
涙が自然にこみあげてきた。ただ「嬉しい」との気持ちだ。
んでこない。母親の笑顔を知らない。この歳になっても、「母に会いたい」と
の想いは消えない。誰に会いたいかと言えば、「母」しかいない。私の9歳の
誕生日が過ぎた深夜に亡くなった。
私の幼い頃の記憶は、病弱な母の姿だ。戦後食べるものもなく、医療も良く
なかったのだろう。弟が生まれてから母の体の具合がだんだんと悪化したよ
うだ。そのために、私は埼玉に住む祖父母のところに半年ほど預けられた。
その時に、叔父が私を迎えに来て、上野の動物園に連れて行くとの話しで、
着いたところが埼玉の田舎であった。途中でおかしいなと幼い心で感じた。
どこに連れていかれるのかなと思っていた。動物園とは違うとなんとなく感じ
ていた。今でも記憶として鮮明に残っている。
埼玉の田舎は、鴻巣駅から羽生方面へとバスに乗って行く。何分ぐらい乗る
のだろうか。平地の田圃しかないような場所へと進み、バス停で下りる。そこ
から歩いて10分くらいのところに、数件の農家があった。バス停に近い方の
家が田舎の家である。殺風景な景色しかない。私には田舎への郷愁はない。
この幼い頃の後、何回くらい田舎へ行っただろうか。私が一人で田舎へと行っ
たのは、小学校5年生の時である。時期は覚えてはいないが、夏休みのことだ
ろうとの記憶だが、小学校5年生の時は野球漬けだったから、夏休みではない
かも知れない。
田舎で私の相手をして遊んでくれたのが、その当時そこにいた雑種の犬であ
った。「犬」の名前の記憶はないが、毎日その犬に遊んでもらった記憶は、
はっきりと残っている。私にとって、私より大きいその犬が唯一の遊び相手で、
何をしても怒らないで私の相手をしてくれたのだった。半年ぐらいの間ずっと
私のそばにいてくれた。その犬がいたおかげで、「寂しさ」を紛らわすことが
できたと思っている。もしその犬がいなかったら、どんなに寂しい思いをした
ことだろう。今振り返ると、「感謝」の言葉しか浮かばない。その犬が唯一の
「友」であり、兄のような存在だった。半年の間、その犬にかわいがってもら
ったとの表現がふさわしいかもしれない。
一年後に再び田舎に行った時に、私がバス停から降りて、500メートル先
の家が視野に入った時に、その犬が飛んで迎えに来てくれたことは、鮮明な記
憶として残っている。とても嬉しい「再会」だった。その犬が、私の最初の犬
との出会いで、最初の「友」だった。4歳前後の記憶だと思うが、この犬には、
私の寂しさがわかっていたように思えてならない。犬とは利口な動物で、人と
共生してきた長い歴史がある。以前に盲導犬を刺した事件が報じられたが、
とんでもない愚かな行為としか言いようがない。犬は、人の友であると思う。
32年前からおよそ10年間、私の父が生きていたころに、シェルティーを
飼ったことがあるが、実に繊細で利口な犬だった。私たちの心がわかるようだ
った。バロンという名だった。約10年の命だった。私には従順であったが、
散歩に行くときに、行きたくない方向に連れて行こうとしても、その方向へ行
きたくない時には、頑として座ったまま動こうとしない頑固さも持っていた。
犬との思い出は尽きない。
話しを戻そう。私は幼稚園に通っていなかったので、小学校に入る前に、
他に幼いころの友達の記憶が全くない。私の同世代が、どのくらい幼稚園に通
っていたかは知らない。今、私の孫は、小学校2年生の男の子(翔)と、保育
園の年長の女の子(煌)である。来月には、3年生と新入学生だ。孫が元気で
成長してくれることをただ願っている。その孫への思いをブログに綴っておい
た。いつの日か孫に読んでもらいたい。
*
今年になってから、裾野市の墓地の抽選があって、私のお墓の場所が決まった。
富士山を正面に見渡せる高台にある。見晴らしの良い場所だ。その中の中央部
が抽選で決まり、喜んでいた。私の家のお墓は川崎市の霊園にある。父親が建
てたものだ。そのお墓を裾野市に移設することが具体化している。墓石はその
まま残すことにした。そこに墓誌を加えることに決めた。その墓誌に私の好き
な言葉を私が書いて彫ってもらうことにした。「心こそ大切なれ」との座右の銘である。
このお墓に「母」の遺骨を連れてきて、土に埋葬することにした。
将来は、私も一緒に入ることになる。そのことを今、仏前に報告したところだ。
涙が自然にこみあげてきた。ただ「嬉しい」との気持ちだ。