心の宝物          02・10・26

童話を通して知り合ったアルゼンチンの子どもたち

質問「先生の童話に、木や白鳥、月やうさぎが出てくるのはなぜですか?」

「大切なものは身近にあります。そのことに気づいてほしいのです。たとえば、うれいしい心

で見れば、お月さまも笑っています。悲しい時には、お月さまも 泣いているようです。そうや

って、お月さまは、私たちを励ましてくれているの ではないでしょうか。」

質問「作家になるために、どんな勉強をしましたか?」

「特別な勉強があったわけではありません。当たり前のことを、真剣に真剣に努力する。あと

一歩進もう。あと五分頑張ろう、あと一枚原稿に挑戦しよう、そうやって努力してきたのです。

わたしにとって書くことは生きることと一体です。一生懸命生きないで、いい文章は書けませ

ん」

質問「暴力をさけるために、どんなことが大事ですか?」

「自分が強くなることです。暴力は、おく病な人が使うものです。おく病だから、本当の力が

ないから、力ずくでおさえようとしたり、乱暴な言葉で相手をやっつようとするのです。たとえ

ば悪口を言われても、自分が堂々としていれば平気です。悪口を言った人が損するだけです。

それにしても、言葉とは何という奇跡だろう。私の心の奥から生まれた物語が、地球の反対側

に住むアルゼンチンの子どもたちの心の中に、ちゃんと届いている!

声も何という不思議だろう。心の思いをそのまま伝える。耳は、その声を聞けるし、目は、見よ

うと思ったほうに向く。手が動くのも、花が咲くのも、花の香りをかげるのも、生命とは、それ

自体、目がくらむほどの奇跡ではないだろうか。


誕生を記憶する子どもたち (春秋社)

新生児は「多くの能力が出生の時点からおとな同様にそなわっていることが証明されたの

だ」。「新生児がすでにひとりの人間だということだ」子どもたちは、想像以上に、何でも知っ

ている。心で知っている。

生命は神秘である。「新生児はまた、母親がお話しを読むのを一生懸命聴いている。しかも、

生まれる前に聴いたことのある話のほうを聴きたがる。さらに驚くべきことには、ふつうに読ま

れるのは熱心に聴くのに、さかさまに読まれると(つまり意味をなさないと)、たちまち聴くの

をやめてしまうのだ。りっぱな思考がある証拠である」

どの子も、どの子も、大いなる奇跡なのだ!

「こころそのもの」である子どもたちに、最高に良き物語を贈りたい。日本では、食品の安全性

にはやかましいのに、心の食事である本の中身については無とん着である。心に毒を入れてはい

けない。「おいしくて栄養のある」つまり「面白くて、ためになる」ものを与えてあげたい。


(ブエノスアイレスのエリナちゃん)

「絵本を読んでもらうのは、なんて、うれしいことだろう!わたしの耳も目も鼻も、全身が幸

せ!」

お気に入りの絵本なら何回でも「読んで」「読んで」。お母さんが「新しいのにしない?」と言

っても「これがいいの!」

そんなひとつに子ヤギがある。 アルゼンチンの昔話だ。

お話を聞いて育ったエリナちゃんにとって<人の身になってみる>想像力は当たり前の力だ。

キツネも雄牛もかなわなかったのに、アリさんが!エリナちゃんは、小さなものが大きなもの

を、やっつける話が大好きだ。

昔の物語には、子どもや子男が、知恵や機転を使って、巨人を倒したり、竜をやっつけたり、敵

を味方に変える話が多い。

自分が小さいからだろうか、子どもたちは、こういう物語によって「自信」をえるらしい。

いや、子どもたちだけではない。人間ならだれでも、自分の道をはばむ「鬼」や「巨人」や魔法使

いが出る森」をもっている。昔話は、それらに必ず打ち勝てるのだという励ましを送ってくれて

いるようだ。しかも理屈ではなく、心の奥底にしみとおる「お話」のかたちで!昔話は、もとも

と子どもだけのものではなく、大人もいっしょに耳を傾け、楽しんだのである。糸つむぎの部屋

で、暖炉のそばで。そして、いろりを囲んで。


(世界の絵本展)メッセージ

「子どもは自分の魂の養分としてメルヘンを必要としているのです」と言われる。

「夢はかなう」「悪事は割に合わない」「君がヒーロー」「楽観主義でいこう」

「自立して、自分らしく」

そういう滋養を、たっぷり魂にしみこませた子どもは、どんな運命でも、たくましく受けとめ、

乗り越えていけるにちがいない。たとえ、お話をすっかり忘れたとしても、心の底に住みついた

物語は、しらずしらずのうちに、その子の生き方の「モデル」になるのではないだろうか。

頭の知能指数も大事かもしれないが、心の知能指数は、もっと大事だ。幸福のためには生きる力

と知恵が大事だ。

もちろん昔話は単純な勧善懲悪だけではない。悪漢も怠け者も、いじわるも、いたずらっ子も、

うそつきも活躍する。残酷な描写もあれば、病気や死、運命の変転などの悲しい話もある。それ

らは人生の「影」の部分であろう。だからこそ語られる必要がある。

「昔話との出会いのなかった子供たちは、人生において、心準備のないままに残酷さに遭遇する

ことになる」からだ。

影から逃げても、影は追いかけてくる。しかも、影は外にあるだけではない。自分の中にもあ

る。 白雪姫も、赤ずきんちゃんも、狼も、山姥も、鬼子母神も、三年寝太郎も、自分の心の深層

に生きている。昔話は鏡である。映っているのは自分自身である。自分の中に鬼も仏もあるのだ

から、昔話で「鬼退治」を体験すれば、それは自分の「心の中の鬼」を退治する練習をしている

のである。

子どもは、みんな「お話」が大好きだ。なのに、「本はきらい」という子がいるのは、なぜだろ

う。 エリナちゃんのお母さんは、読み終わるといつも、「面白かった?」とは聞かない。

面白かったね!」と言って、本当にうれしそうに笑う。

エリナちゃんは、お母さんが読むのを楽しんでいることがうれしい。お母さんと同じものに感動

して、気持ちがひとつになることがうれしい。そんな幸せを与えてくれる本」という奇跡が大好

きだ。 反対に、お母さんが、絵本で字をおぼえさせようとか、いちいち感想を聞いたりして、

絵本を「教科書」のように使ったら、どうだろう。絵本が苦痛になり、ひいては読書がきらいにな

るかもしれない。

子どもにお話しを読んであげる「読み聞かせ」「読み語り」が今、静かに広がっている。

「読んでいると、励まされるのは自分自身です」とおっしゃる方が多い。それは、子どもたちに

読んでいると同時に、自分の中の子ども心に向かって読んであげているのかもしれない。自分の

中で育ちそびれていた心の何かが、読み語りによって、太陽の光を浴びたように、花開いていく

のかもしれない。

「子ども心」。それは未熟な心のことではない。深い知恵を秘めた詩心の別名であり、一生の宝な

のである。その泉が枯れる時、心の水面は濁り、人生は砂漠となる。そして社会は乱れ、自然ま

で汚れていく。

トインビー博士は言われた。

「私にとって、人生の最初の七年間は、その後の人生全体と同じくらい長いものに感じられま

す。子どもは七歳までに、自分にとって大切なことを、たっぷりと学ぶのです。

それは、その後の何十年にもわたる人生で学ぶことよりも多いのです」

私は願っている。世界中の子どもたちが、ひとりのこらず、人生の最後の最後に、

こう思ってほしいと。わたしの人生は、何という素晴らしい物語だったのだろう!

ああ面白かった!」

そのとき、その子は一生を振り返り、思い出の底に響く、なつかしい声に向かって言うのではな

いだろうか。「お母さん、お父さん、子どものころ、いっぱい、お話しをしてくれて、ありがと

う!」

 私は、この文章が大好きだ。私はこの文章を読んで、涙が溢れてとまらなか

った。とても感動した。ただ嬉しかった。

 2013年2月に、蓄膿症が発覚した。それからは病との闘いの日々であ

った。この文章を「心の支え」にしてきたが、忘れてしまうことも何度もあ

った。

 Life is often compared to a voyage.(人生はよく航海にたとえられる)

 とあるが、私は、人生は「登山」のようなものだと思っている。

 人それぞれ目指して登る山は違うのかもしれない。

 仮に、同じ山でも、登る道が違う。それこそ人生だ。

 人はそれぞれ歩む道が違う。そこにこそ、その人の「人生の価値」がある。

 山道は平坦な道はほとんどない。勾配も違う。きれいな渓流も流れている。

 登れそうにもない崖もある。それこそ苦しいことのほうが多い。でも歩い

 て 登り続ける。途中で休んで進めなくなることもある。道を間違えてしま

 うこともある。また引き返さなければならない。

 元の道に戻って、再び歩きはじめる。山には先輩たちの歩いた道がある。

 人生はその道を自分で見つけなければならない。自分にとっては、

 常に「未知の世界」の道である。踏み外さないように注意しなければ

 ならない。

 ある所までは夢中で登っていき、振り返ることはない。人生50年を過

 ぎると、少しずつ振り返ることがある。登ってきた道、景色が目に入って

 くる。それなりの感慨がある。そこでストップするわけにはいかない。

 頂上を目指して、再び歩いて登っていく。「定年」を迎えると、再び振り返る。

 また景色が見えてくる。美しい景色だ。しかしずっと見ているわけにはい

 かない。さらに登っていく。「退職」を迎える。また振り返って見る。

 これからの人生は胸突き八丁だと言える。なかなか険しい道だ。

 もう「疲れたな」との思いもある。最後の険しい道に挑まなければならない。

 人生の総仕上げだ。ここで大事になってくるのは、 人生観であり、死生観で

 ある。人生の終末をどのように迎えたいのか。非常に難しい問題である。

 釈尊はこの問題を説いたのだ。それが仏教の始まり となる。最後は死生観と

 いうことになる。宗教はここに視点を当てている。この死生観の捉え方が違う。

 信教の自由である。どのように捉えるかは、哲学や宗教の分野である。

 哲学は学問であるから、解決の道を示すことが出来ない。今アメリカでは、

 実践哲学の研究者もいる。宗教に近い。 

 私のような凡人は、この問題を宗教に求めるしか方法はない。よく無宗教とい

 うが、誰でも何かを信じている。そうでなければ、生きてはいけない。

 信じる対象が明確なのが宗教である。宗教とは「根本的な教え」との意味である。

 そこに行かなければ「死生観の問題」は解決しないと思っている。

 私の人生の最後の願いは、今まで生きてきて良かった。わたしの人生は、

 何という素晴らしい物語だったのだろう!ああ面白かった!」

 この頂上(ゴール)を味わいたいのだ。ただそれだけだ。