最近の私は、はしゃいでいる子供のような「心の動き」をしていると感じる。
おおげさかもしれないが、生きていることに「喜び」を感じている。
このような味わいをしばらく忘れていた。「心」が開放される状態ではなか
った。閉鎖した「心」の状態が続いていた。そのような時は、何も楽しくない
し、「楽しむ」ことができない。持病を抱えているからなのだろうか。
頭痛が続くと、不安な気持ちになる。それが何か月も続くと、「心」が折れそ
うになる。それこそ生きている意味すら感じられなくなる。自分ながら恐ろし
いと思っていた。幸いにも、自分で「心」のブレーキをかけることができるの
で、暴走することはない。「心」の中の「葛藤」が激しい。このようなことが
10数年繰り返されてきた。自分の中の「弱い」部分と自分なりに戦ってきた。
これではいけないと必死になっている自分がいる。私の周りには、大切な家族
がいる。大切な友がいる。私の「心」の中に大切な教え子がいる。教え子に会
う機会はないが、彼らを失望させることはどうしてもできない。
退職してから4年になる。今でも教壇に立ちたいとの気持ちはある。
私は「教師」を職業にしたが、「仕事」だと思っていたことはほとんどない。
「義務感(マスト)」で仕事をしたことがないと理解してもらえればいい。
したがって、連合に加盟している組合員が使う「労働者」の意識はない。
私は、「教師」は労働者だともサラリーマンだとも思っていない。教師は、
こども・生徒と触れ合う職業の人との認識である。私の中では、「教師」
と「教員」を区別している。教師は、時間で割り切ることができない仕事だ。
報酬がいいわけではない。報酬や出世を考えるタイプの人は、教師には向い
ていないと考える人間だ。お金や、地位を求めるならば、実社会の「競争原理」
の中で生きるべきである。教師が「上昇志向」を持つならば、「教員」だと
私は見る。私の定義では、教員は単に教える人であり、教育者ではない。
生徒と向き合ってこそ「教師」であると思っている。私は自分を「教育者」
だとも思ったことはない。それ程の人間ではない。私にとっては、教師と
教員はイコールではない。生活のために教師を続けたわけではない。
自分が教員の意識になったら教壇をおりなければという「覚悟」を持って
いたつもりだ。きれいごとをいうつもりはないが、教師は労働者的な
「意識」で勤まる職業ではない。とても難しく、時間ではかることができな
い職業である。自分のことすらよくわかっていない人間が、生徒という人間
と授業を通じ教える立場で、触れ合いの時間を「共有」するのだ。
私はその時間を楽しんできたと言える。私には「聖職者」という意識も全く
ない。だから「教育者」との意識はないということだ。
「一人の人間」との意識が、他の人よりも強いのだろう。それが私の「個性」
であり、自分を支えている基盤になっている。教師生活の晩年に、教師とし
ての「醍醐味」(天台大師の言葉)を味わっている。この時に、「天職」だ
と感じた。この期間が5年間だった。一方では、病との闘いであった。
予約の関係で、夜遅く耳鼻科に通ってもいた。頭痛に苦しんでいた。
そんな私を支えてくれたのは生徒の「笑顔」である。風邪をひいて休んだり
すると、「先生、何んで昨日来なかったの」「寂しかったよ」と言ってくれ
る生徒たちだった。今、私は文章を書きながら泣いている。涙がこみあげて
きてとまらない。肉体的には本当に苦しかったが、精神的には充実していた。
生徒たちの「おかげ」である。「本当にありがとう」と心の底から言いたい。
「感謝」している。この味わいは、管理職には絶体に味わえないことだ。
この時期に、私の「心」を支えていたのが「信仰」であることも事実だ。
今まで誰にも言ったことがない。私の妻は、感じ取っていたことだろう。
*
昨日、30年前に生徒からもらった色紙を読んだ。その存在さえ忘れていた
ものだ。懐かしく思い出される。生徒たちのメッセージが私の心に響いている。
素直な生徒たちである。正直に言って、成績が優秀な生徒たちではない。
しかし感性豊かな「心」を持っている生徒たちであった。商業科の女子クラス
の生徒たちである。詳しいことは「私の人生の記憶」で書いたが、簡単に触れ
ると、入学してまもない5月に担任が突然亡くなり、この生徒たちのクラスを
受け持つことになったのである。担任のなり手がいなくて、私に白羽の矢が立
った。授業を持つことを条件に引き受けたいきさつがある。そういう意味では、
特別なケースである。その生徒たちからもらった「宝物」を忘れていたとは
情けないとの思いもするが、偶然見つかったので、これからは大事に保管する。
時間とともに、字が消えてしまい、読めなくなっている部分もある。
ボールペンで強く書いてある文字ははっきりと読めるが、鉛筆で書いた文字は
読むことがでいない。
「好きだった英語を嫌いにしてくれた先生(うそ)1年間ありがとうござい
ました。Y」この生徒は賢い生徒と記憶している。
「相川先生へ 先生のしびれるような低い声が印象的でした。いろいろとごめ
いわくをおかけしましたが、みな楽しい思い出でした。J」私は迷惑だなんて
思ったことがない。
「へっへー 先生の結婚物語を聞いた時から私は相川先生にあこがれていたん
だよ!M]結婚話は私が教えた全生徒にしてきたのが事実だ。女子生徒には
好評だった。反応でわかること。
「途中で英語の先生がかわって、相川先生が担任になったけど、授業もわかり
やすくてうんとよかったDesu。ばいばい!O」わかりやすい授業を心がけた
つもりだ。この逆で、私の授業受けられなくなった生徒の言葉は鮮明に覚えて
いる。「先生の授業でノートの取り方も、勉強の仕方も分かり始めたのに、
どうして」この生徒たちにはとても申し訳なかったと今でも思っている。
担任を引き受けることで、クラスの授業を他の教員と交換したからだ。
やむを得ない選択だった。私が出した条件だからこそ。生徒の言葉は、
現在の私の方が生徒の「心」をきちんとキャッチできる。
嬉しいことだ!
おおげさかもしれないが、生きていることに「喜び」を感じている。
このような味わいをしばらく忘れていた。「心」が開放される状態ではなか
った。閉鎖した「心」の状態が続いていた。そのような時は、何も楽しくない
し、「楽しむ」ことができない。持病を抱えているからなのだろうか。
頭痛が続くと、不安な気持ちになる。それが何か月も続くと、「心」が折れそ
うになる。それこそ生きている意味すら感じられなくなる。自分ながら恐ろし
いと思っていた。幸いにも、自分で「心」のブレーキをかけることができるの
で、暴走することはない。「心」の中の「葛藤」が激しい。このようなことが
10数年繰り返されてきた。自分の中の「弱い」部分と自分なりに戦ってきた。
これではいけないと必死になっている自分がいる。私の周りには、大切な家族
がいる。大切な友がいる。私の「心」の中に大切な教え子がいる。教え子に会
う機会はないが、彼らを失望させることはどうしてもできない。
退職してから4年になる。今でも教壇に立ちたいとの気持ちはある。
私は「教師」を職業にしたが、「仕事」だと思っていたことはほとんどない。
「義務感(マスト)」で仕事をしたことがないと理解してもらえればいい。
したがって、連合に加盟している組合員が使う「労働者」の意識はない。
私は、「教師」は労働者だともサラリーマンだとも思っていない。教師は、
こども・生徒と触れ合う職業の人との認識である。私の中では、「教師」
と「教員」を区別している。教師は、時間で割り切ることができない仕事だ。
報酬がいいわけではない。報酬や出世を考えるタイプの人は、教師には向い
ていないと考える人間だ。お金や、地位を求めるならば、実社会の「競争原理」
の中で生きるべきである。教師が「上昇志向」を持つならば、「教員」だと
私は見る。私の定義では、教員は単に教える人であり、教育者ではない。
生徒と向き合ってこそ「教師」であると思っている。私は自分を「教育者」
だとも思ったことはない。それ程の人間ではない。私にとっては、教師と
教員はイコールではない。生活のために教師を続けたわけではない。
自分が教員の意識になったら教壇をおりなければという「覚悟」を持って
いたつもりだ。きれいごとをいうつもりはないが、教師は労働者的な
「意識」で勤まる職業ではない。とても難しく、時間ではかることができな
い職業である。自分のことすらよくわかっていない人間が、生徒という人間
と授業を通じ教える立場で、触れ合いの時間を「共有」するのだ。
私はその時間を楽しんできたと言える。私には「聖職者」という意識も全く
ない。だから「教育者」との意識はないということだ。
「一人の人間」との意識が、他の人よりも強いのだろう。それが私の「個性」
であり、自分を支えている基盤になっている。教師生活の晩年に、教師とし
ての「醍醐味」(天台大師の言葉)を味わっている。この時に、「天職」だ
と感じた。この期間が5年間だった。一方では、病との闘いであった。
予約の関係で、夜遅く耳鼻科に通ってもいた。頭痛に苦しんでいた。
そんな私を支えてくれたのは生徒の「笑顔」である。風邪をひいて休んだり
すると、「先生、何んで昨日来なかったの」「寂しかったよ」と言ってくれ
る生徒たちだった。今、私は文章を書きながら泣いている。涙がこみあげて
きてとまらない。肉体的には本当に苦しかったが、精神的には充実していた。
生徒たちの「おかげ」である。「本当にありがとう」と心の底から言いたい。
「感謝」している。この味わいは、管理職には絶体に味わえないことだ。
この時期に、私の「心」を支えていたのが「信仰」であることも事実だ。
今まで誰にも言ったことがない。私の妻は、感じ取っていたことだろう。
*
昨日、30年前に生徒からもらった色紙を読んだ。その存在さえ忘れていた
ものだ。懐かしく思い出される。生徒たちのメッセージが私の心に響いている。
素直な生徒たちである。正直に言って、成績が優秀な生徒たちではない。
しかし感性豊かな「心」を持っている生徒たちであった。商業科の女子クラス
の生徒たちである。詳しいことは「私の人生の記憶」で書いたが、簡単に触れ
ると、入学してまもない5月に担任が突然亡くなり、この生徒たちのクラスを
受け持つことになったのである。担任のなり手がいなくて、私に白羽の矢が立
った。授業を持つことを条件に引き受けたいきさつがある。そういう意味では、
特別なケースである。その生徒たちからもらった「宝物」を忘れていたとは
情けないとの思いもするが、偶然見つかったので、これからは大事に保管する。
時間とともに、字が消えてしまい、読めなくなっている部分もある。
ボールペンで強く書いてある文字ははっきりと読めるが、鉛筆で書いた文字は
読むことがでいない。
「好きだった英語を嫌いにしてくれた先生(うそ)1年間ありがとうござい
ました。Y」この生徒は賢い生徒と記憶している。
「相川先生へ 先生のしびれるような低い声が印象的でした。いろいろとごめ
いわくをおかけしましたが、みな楽しい思い出でした。J」私は迷惑だなんて
思ったことがない。
「へっへー 先生の結婚物語を聞いた時から私は相川先生にあこがれていたん
だよ!M]結婚話は私が教えた全生徒にしてきたのが事実だ。女子生徒には
好評だった。反応でわかること。
「途中で英語の先生がかわって、相川先生が担任になったけど、授業もわかり
やすくてうんとよかったDesu。ばいばい!O」わかりやすい授業を心がけた
つもりだ。この逆で、私の授業受けられなくなった生徒の言葉は鮮明に覚えて
いる。「先生の授業でノートの取り方も、勉強の仕方も分かり始めたのに、
どうして」この生徒たちにはとても申し訳なかったと今でも思っている。
担任を引き受けることで、クラスの授業を他の教員と交換したからだ。
やむを得ない選択だった。私が出した条件だからこそ。生徒の言葉は、
現在の私の方が生徒の「心」をきちんとキャッチできる。
嬉しいことだ!