昨日は、高校の同窓会臨時総会があり、私と同じ1期生の作家の
山崎洋子さんが、第二部で講演されるということで、40数年ぶり
に母校を訪れた。
母校へ行く前に、大学の友人と横浜で会う約束をしておいた。大学
を卒業してからは、歩む道が異なり、地理的距離も離れているために、
会う機会はほとんどなくなっていた。2005年の1月に、東京へ行く
前に横浜で久しぶりにあった。どんな話しをしたかは記憶していない
が、太ったなとの印象を受けた。健康上の問題はないとのことだった。
次の機会は2013年の3月であった。この時には、昔の体形に戻って
いた。今年の1月に亡くなった妻の母の誕生日に大船の実家を訪れた
翌日のことだった。この日は、仕事で大船に来る友人のM君と駅で待ち
合わせてお茶を飲み昼食を取り、1時間半ほど話しをした。その後東京
へ行き、信濃町で2人の友人に会った。2人とも仕事の合間に時間を
作ってくれた。2年前退職しているのは私だけだったが、この2年で
2人の友人も退職した。私たち団塊の世代も職場を去る時期になった。
昨日あったK君は、警備会社に役員として勤務しているが、任期が今年
の9月の株主総会までとのことだ。奥さんの初期の乳癌がわかり、
摘出手術をしたことを聞いた。自覚症状がなく、たまたま知り合いの
医者に行ってわかったと。健康であることが何よりも大切であると感
じている。
友と分かれて母校へと向かった。母校を訪れたのは、44年前との
記憶だ。親が川崎に住んでいたために、神奈川県の教員採用試験の再
受験を考えていた頃のことだ。武蔵中原で南武線を降りたが、線路が
高架になり、環境が一変したために、母校への道を尋ねたくらいだ。
母校へ着き通路で、山崎さんとお会いすることができた。在学中に会
った記憶はない。フェイスブック上で知ることになった。山崎さんの
著書「誰にでも、言えなかったことがある」を一読し、タイムライン
でもFBの助言をして頂いていたので、初対面との印象ではなかった。
挨拶程度で話しをすることはできなかった。
講演では、1期生の思い出と自身の生い立ちを交えながら話しをさ
れた。京都府の宮津の出身で、中学3年の夏に東京に出て、義父の転
勤で川崎に来たとのことだ。現在は、溝の口の先へ田園都市線が走っ
ている、電車が開通してからは住宅地として開発され発展してきた所
であるが、当時は未開地とも言えるような所だと記憶している。現在
の宮前区に相当する地域のようだ。バスで溝の口に出て、南武線で
武蔵新城に通ったと当時の思い出を語る。新城高校は、昭和38年
(1963年)に新設された。当初は校舎なき学校で、二つの高校に
間借りして高校生活がスタートした。私にとっては、この頃の印象が
一番強く残っている。音楽選択4クラスと美術選択の4クラスに分か
れ、1学期の間音楽選択クラスは、向の岡工業高校、美術選択クラスは、
多摩高校で、2学期は交代して通った。多摩高校は、川崎市のトップ校
であった川崎高校を抜いた時期でもある。私は多摩高校からの志願変更
で、新城高校を受験した。そのために、多摩高校へのコンプレックスが
人一倍強かったことと思う。同じ中学からの同級生には、大学入試では
負けたくなかった。間借り生活は屈辱的なものを感じていたことは事実
だ。3学期に新校舎が完成し、新城へ通学することになった。山崎さん
がその時にパレードをしたと言っていたが、私の記憶には全くない。
学校が男女交際を含めて指導が厳しかったことは私も感じていたこと
だ。初代校長は日の丸校長と呼ばれていた。山崎さんたち女生徒が
先生にあだ名をつけていたらしいが私の記憶には残っていない。
ある英語の教員を「アホ山」と呼び、馬鹿にしていたことは覚えて
いる。若い教員と中堅の先生が多かったように記憶しているが、
山崎さんと宮川さんが同じ新聞部で一緒だったことを初めて知った。
私は野球部創設とともに部活動をあきらめた。学校行事は、九州への
修学旅行の印象が残っているくらいで、文化祭や体育祭の記憶も残っ
ていない。大学受験のことしか頭になかったのが、高校生活の半分
である。講演を聞いていて、同期生でも高校生活の送り方は随分違う
と感じた。山崎さんは、高校時代に江戸川乱歩賞を取って作家にな
るとの想いはあったらしい。本を読むことが好きで、ミステリーに
興味があったようだ。興味・関心と好きであることが、いかに大切な
ことであるかが後の人生に現れたと言えるのではないかと感じた。
大学に行っていないとのことなので、どこで文を書くことを学んだの
かを知りたいとの気持ちだ。「花園の迷宮」で作家デビューを果たし
たのが30台の後半で、ノンフィクションも書くように依頼されたと
のことで、取材して文を書きながら、横浜の歴史を勉強されたとの
ことだ。話しの中で最も印象深いのは、駐留米兵の性の対象となった
女性とその赤子の処置の問題である。戦争の影の部分を取材を通じて
学んでこられたのだ。戦争を直接経験していないのが、戦後世代で
あり、その点で私たち団塊の世代は幸せであるとの言葉には同意で
あるし、教育の中で、戦争のことを教えてこなかったことに対して、
問題を感じていることを語っていたが、私も同じ問題意識を持って
いる。私自身教壇で戦争のことを語ったことはないが、人としての
心のあり方については生徒に話してきたつもりだ。私は、あらゆる
暴力を否定する立場で行動してきたつもりでいる。最大の暴力が
戦争であると考えるのが私である。学校教育の中で、近現代史を
しっかりと教えなければいけないと思っている。社会科だけでは
ないが、受験に必要かどうかが基準になっているのが、進学校の
実態である。近現代史は受験には出ないのが戦後の受験競争の歴史
でもある。日本史の授業も明治時代で終わっている。明治時代の
富国強兵政策における日清戦争・日露戦争や日本の産業革命や加工
貿易のことは教わっているが、昭和の歴史が抜けている。アジア
太平洋戦争及び日本の帝国主義・軍国主義については教えていない。
一番肝心な部分がタブー視されてきたのである。
山崎さんが指摘していたが、戦後の日本は、朝鮮戦争で在日米軍
が日本で調達した物資の需要による特需景気がもたらした経済的影響
は大きい。私たち団塊世代は貧しさと物の豊かさを経験している。
8月で戦後70年になり、団塊世代は68歳になる。昭和史を日本の
歴史にしっかりと位置づけする必要があると私は思っている。
ありのままの事実に基づいて過去の謝罪と反省をし、未来にあるべき
日本の国家像を考える議論がなされるべきだと考える。国際社会で
日本が貢献することは軍事協力ではない。人道的・経済的支援であり、
文化・教育交流の推進であり、戦争をしない社会の構築であると考える。
安保法制法案の議論が国会でスタートするが、国民の命と安全を守る
ための集団的自衛権の行使と言っているが、集団的自衛権が行使される
事態になったら、戦争状態と認識すべきで、国民の命と安全はなくなる。
拙速な法案審議をしてはならないし、政府・与党法案に反対及び今国会
での成立に反対している人が過半数であることが、毎日新聞・日経新聞
の世論調査で示された民意である。
山崎洋子さんが、第二部で講演されるということで、40数年ぶり
に母校を訪れた。
母校へ行く前に、大学の友人と横浜で会う約束をしておいた。大学
を卒業してからは、歩む道が異なり、地理的距離も離れているために、
会う機会はほとんどなくなっていた。2005年の1月に、東京へ行く
前に横浜で久しぶりにあった。どんな話しをしたかは記憶していない
が、太ったなとの印象を受けた。健康上の問題はないとのことだった。
次の機会は2013年の3月であった。この時には、昔の体形に戻って
いた。今年の1月に亡くなった妻の母の誕生日に大船の実家を訪れた
翌日のことだった。この日は、仕事で大船に来る友人のM君と駅で待ち
合わせてお茶を飲み昼食を取り、1時間半ほど話しをした。その後東京
へ行き、信濃町で2人の友人に会った。2人とも仕事の合間に時間を
作ってくれた。2年前退職しているのは私だけだったが、この2年で
2人の友人も退職した。私たち団塊の世代も職場を去る時期になった。
昨日あったK君は、警備会社に役員として勤務しているが、任期が今年
の9月の株主総会までとのことだ。奥さんの初期の乳癌がわかり、
摘出手術をしたことを聞いた。自覚症状がなく、たまたま知り合いの
医者に行ってわかったと。健康であることが何よりも大切であると感
じている。
友と分かれて母校へと向かった。母校を訪れたのは、44年前との
記憶だ。親が川崎に住んでいたために、神奈川県の教員採用試験の再
受験を考えていた頃のことだ。武蔵中原で南武線を降りたが、線路が
高架になり、環境が一変したために、母校への道を尋ねたくらいだ。
母校へ着き通路で、山崎さんとお会いすることができた。在学中に会
った記憶はない。フェイスブック上で知ることになった。山崎さんの
著書「誰にでも、言えなかったことがある」を一読し、タイムライン
でもFBの助言をして頂いていたので、初対面との印象ではなかった。
挨拶程度で話しをすることはできなかった。
講演では、1期生の思い出と自身の生い立ちを交えながら話しをさ
れた。京都府の宮津の出身で、中学3年の夏に東京に出て、義父の転
勤で川崎に来たとのことだ。現在は、溝の口の先へ田園都市線が走っ
ている、電車が開通してからは住宅地として開発され発展してきた所
であるが、当時は未開地とも言えるような所だと記憶している。現在
の宮前区に相当する地域のようだ。バスで溝の口に出て、南武線で
武蔵新城に通ったと当時の思い出を語る。新城高校は、昭和38年
(1963年)に新設された。当初は校舎なき学校で、二つの高校に
間借りして高校生活がスタートした。私にとっては、この頃の印象が
一番強く残っている。音楽選択4クラスと美術選択の4クラスに分か
れ、1学期の間音楽選択クラスは、向の岡工業高校、美術選択クラスは、
多摩高校で、2学期は交代して通った。多摩高校は、川崎市のトップ校
であった川崎高校を抜いた時期でもある。私は多摩高校からの志願変更
で、新城高校を受験した。そのために、多摩高校へのコンプレックスが
人一倍強かったことと思う。同じ中学からの同級生には、大学入試では
負けたくなかった。間借り生活は屈辱的なものを感じていたことは事実
だ。3学期に新校舎が完成し、新城へ通学することになった。山崎さん
がその時にパレードをしたと言っていたが、私の記憶には全くない。
学校が男女交際を含めて指導が厳しかったことは私も感じていたこと
だ。初代校長は日の丸校長と呼ばれていた。山崎さんたち女生徒が
先生にあだ名をつけていたらしいが私の記憶には残っていない。
ある英語の教員を「アホ山」と呼び、馬鹿にしていたことは覚えて
いる。若い教員と中堅の先生が多かったように記憶しているが、
山崎さんと宮川さんが同じ新聞部で一緒だったことを初めて知った。
私は野球部創設とともに部活動をあきらめた。学校行事は、九州への
修学旅行の印象が残っているくらいで、文化祭や体育祭の記憶も残っ
ていない。大学受験のことしか頭になかったのが、高校生活の半分
である。講演を聞いていて、同期生でも高校生活の送り方は随分違う
と感じた。山崎さんは、高校時代に江戸川乱歩賞を取って作家にな
るとの想いはあったらしい。本を読むことが好きで、ミステリーに
興味があったようだ。興味・関心と好きであることが、いかに大切な
ことであるかが後の人生に現れたと言えるのではないかと感じた。
大学に行っていないとのことなので、どこで文を書くことを学んだの
かを知りたいとの気持ちだ。「花園の迷宮」で作家デビューを果たし
たのが30台の後半で、ノンフィクションも書くように依頼されたと
のことで、取材して文を書きながら、横浜の歴史を勉強されたとの
ことだ。話しの中で最も印象深いのは、駐留米兵の性の対象となった
女性とその赤子の処置の問題である。戦争の影の部分を取材を通じて
学んでこられたのだ。戦争を直接経験していないのが、戦後世代で
あり、その点で私たち団塊の世代は幸せであるとの言葉には同意で
あるし、教育の中で、戦争のことを教えてこなかったことに対して、
問題を感じていることを語っていたが、私も同じ問題意識を持って
いる。私自身教壇で戦争のことを語ったことはないが、人としての
心のあり方については生徒に話してきたつもりだ。私は、あらゆる
暴力を否定する立場で行動してきたつもりでいる。最大の暴力が
戦争であると考えるのが私である。学校教育の中で、近現代史を
しっかりと教えなければいけないと思っている。社会科だけでは
ないが、受験に必要かどうかが基準になっているのが、進学校の
実態である。近現代史は受験には出ないのが戦後の受験競争の歴史
でもある。日本史の授業も明治時代で終わっている。明治時代の
富国強兵政策における日清戦争・日露戦争や日本の産業革命や加工
貿易のことは教わっているが、昭和の歴史が抜けている。アジア
太平洋戦争及び日本の帝国主義・軍国主義については教えていない。
一番肝心な部分がタブー視されてきたのである。
山崎さんが指摘していたが、戦後の日本は、朝鮮戦争で在日米軍
が日本で調達した物資の需要による特需景気がもたらした経済的影響
は大きい。私たち団塊世代は貧しさと物の豊かさを経験している。
8月で戦後70年になり、団塊世代は68歳になる。昭和史を日本の
歴史にしっかりと位置づけする必要があると私は思っている。
ありのままの事実に基づいて過去の謝罪と反省をし、未来にあるべき
日本の国家像を考える議論がなされるべきだと考える。国際社会で
日本が貢献することは軍事協力ではない。人道的・経済的支援であり、
文化・教育交流の推進であり、戦争をしない社会の構築であると考える。
安保法制法案の議論が国会でスタートするが、国民の命と安全を守る
ための集団的自衛権の行使と言っているが、集団的自衛権が行使される
事態になったら、戦争状態と認識すべきで、国民の命と安全はなくなる。
拙速な法案審議をしてはならないし、政府・与党法案に反対及び今国会
での成立に反対している人が過半数であることが、毎日新聞・日経新聞
の世論調査で示された民意である。