親友に手紙を書いた。ファックスで送ることができなかたので、

郵送することにし、家を出た。散歩がてら郵便局まで歩くことにした。

途中で、近くの友人の車を見かけた。家の方を見ると、顔を合わせ挨拶

をした。この友人とは、話しをする機会が多く、話し込むと結構長い時間

を費やす。身近で話しができる人だ。地域にこのような友人がいることは

貴重だと思っている。「調子はどうですか」と聞かれた。「いい状態だと

感じていますよ」と言い、最近の様子を話した。この友人は、私の体調

が悪い時のことを知っている。年齢は6歳下であるが、いろいろな話し

ができる人だ。身近で一番話しができる友人だ。「昨日、S君と何年か

ぶりで、囲碁をやって、話しもしたことを告げた。「近いうちに話しに

伺います」と言っていた。

 その後、郵便局へと歩いた。歩くことが、健康上大切なことはわかって

はいるが習慣化していない。「歩くこと」と、「人との対話」が必要である。

人間関係が希薄になり、「個人の世界」に入っている世の中である。スマホ

に依存し、対面しての人との関わりがなくなっている。人は人の間に

生きると考えるアナログ人間だ。話しがそれるが、最近レコードの売り

上げが伸び、見直されていることをテレビで知った。ある若者は、新鮮な

感じで、音楽と向かい合えるとの感想を述べていた。CDやダウンロード

の音楽では味わえないものを感じているようだ。レコード針の製造メーカー

もナガオカだけだが、生産が倍になっているとのことだ。先日喫茶店で、

レコードをかけてもらい「音楽の世界」の一端に触れさせてもらったが、

印象深く残っている。本物の音楽を聴くと、心に響いてくる。私は、

車の運転中にCDをかけているが、聴いているとは言えない。

 話しを戻すと、帰りにMさんのお宅を通りかかった。先日「藤」が見頃

の時に、藤の花の写真を撮らせて頂いた。ご主人が庭の手入れをされて

いたので、声をかけて挨拶を交わした。私たち夫婦が散歩に行く時に

会うと、よく声をかけてくれる。「お二人をあまり見かけないと、どうした

のかと思う」と言ってくれるような人である。私よりも一回り年上である。

しばらく立ち話しをした。この地域の歴史を尋ねた。私がこの地に来て32年

になる。300所帯ぐらいの地域である。持家としては、最後の住人になる。

この地域は、古い歴史があり、曹洞宗の本山の定輪寺があり、7軒が長い間、

共同で暮らしてきたと聞く。田畑での生活は、7軒が限界であったという。

 私がこの地に住むようになって一番の変化は、国道246号バイパスができた

ことである、今は国道246号線で、幹線道路になっている。朝夕は渋滞して

いる。完成したのは、20数年前で、その頃に、御殿場高校に転任なり、

バイパスを利用した。家の横の上を走っているので、利用しやすい。当時は、

開通して間もないためにほとんど車が走っていなかったので、通勤は非常に

楽であった。前任校への通勤と比べても、距離は倍になったが、通勤時間は

変わらなかった。それも1~2年のことで、車の通行量が大幅に増加した。

バイパスから国道へと変わった。ここに小さな家を建てた時には想像していな

かったことだ。便利になったことは確かであるが、騒音も感じるようになった。

この地域は閑静な住宅地である。主観的に言えば、裾野でも一番住みやすい

土地だと思っている。小学校、中学校、スーパー、JRの駅もすべて徒歩で

行かれる。その途中には黄瀬川が流れている。自然に恵まれた住みやすい

地域である。狭い地域だけに発展の余地がない。道路ができてからは、20年

以上変わっていない。高齢化が進み、裾野で2番目の高齢地域と言われている。

区長の選出が困難になっている。退職後に、私にも依頼がきたが、体調不良の

ために断った。やりたくないからではなく、引き受ける状態ではなかったのだ。

区の役員は、この地に来た翌々年に、こども会の会長をやらされ、会則を作る

ようにも依頼された。ほとんど知り合いのない地域での活動を通じて、知り合い

ができた。団塊世代ジュニアの子どもたちがいた。その子どもたちも多くは外に

出ている。私の長男を含めて数人が戻ってきているようだが、こどもの数が激減

している。少子高齢化そのものと言える地域だ。建て替えた家が多くなったが、

3階建て(息子の家)の家が一部あるくらいで、環境の変化はほとんどない。
 
 Mさんとの話しに戻るが、この地域は富岡村と呼ばれ、何キロも離れた小学校

に通うのは大変だったようだ。森と川に囲まれた小島のような場所だったようだ。

不二農園に「温情舎」が富岡小学校の分校として発足し、Mさんは分校に入学

した4人の一人で、男はMさん一人だったと言っていた。「温情舎」がカトリック

系のミッションスクールの不二聖心女学院へと変わり、お嬢様学校とのことだった。

しかし、今ではお嬢様学校も普通の女子中学・高校になっている。

 私の元同僚は、東京教育大を卒業後、1年この学校の教壇に立った。住む世界

が違うと感じ、県立高校へ移ったことをかつて聞いたことがある。彼は、数学

の指導主事になり、副校長で定年退職し、富士市の私学に8年常勤していたとの

ことである。県の採用は同年であるが、退職は私より1年前である。彼との

記憶は吉原高校の頃に、麻雀をやったことと、私のクラスの数学の授業を持った

ことで、生徒は、自習の時間を数学へ変更して2時間連続になることを嫌がらな

なかったことが印象深い。私の英語の2時間連続は嫌だと言っていたことが記憶

に残っている。

 Mさんは、80歳、定輪寺の住職と同年齢で、生臭坊主と呼ぶ。先先代の住職が

名僧の高僧だったと言っていた。定輪寺の枝垂れ桜の2本は立派なものだ。一本は

推定樹齢が500年とも言われているが、500年前には、現在の場所に定輪寺は

移されていなかったと聞いた。地域の歴史を勉強する必要がある。Mさんのお父さん

が戦後の昭和22年に帰国して、農作物が豊富に収穫できるようになったと言う。

器用な人で、農業の知恵も持っていたいう。一番は飼料だと言っている。

それまでの農業では、生産量が少なく貧しかったようだ。7軒の共同作業で、

生活が成り立っていた。現在、Mさんの実家の場所は、国道になっている。

Mさんは、サラリーマンのために、実家の前に、8軒目の家を建てることができた

と言う。その後に、定輪寺が借地を提供し、人家が建ち現在の姿に変化したようだ。

私の家の周辺は、分譲地・建売住宅として売り出された場所で、元は田んぼだった

所ということだ。そのため、地盤がゆるい。私は、33年前に元の所有者が売りに

出した土地を購入し、32年前の8月に新築し、この地に来て、親との同居生活が

始まった。時の経過は早いものだ。私の居住地域に大きな変化はないが、裾野駅周辺、

沼津駅周辺、三島駅周辺の変化は大きい。特に裾野、沼津駅の商店街の衰退はひどい。

全国的な傾向であるが、今の日本の地方を象徴している。「地方創生」が言われて

いるが、非常に困難な道である。住民と自治体との協力なしには、創生はあり得ない。

裾野市は生き残れるのか不安を感じている。行政のアイデアがなく、住民の関心

も薄い。

 Mさんの話しの中で良かったことは、地元の高校の評判が上がっているとのこと

だった。地元の人の目に余る生徒が多く評判の悪い学校であった。退職してから

学校の情報がないために知らなかった。Mさんは、高校の頃から陸上競技をやって

いたそうだ。地域にマラソンを持ち込んだ人でもある。そんなわけで、スポーツの

人脈を持っている。私と同年代のOさんは、子どもの頃からサッカーをやり、

高校のサッカー部に所属し、市役所に勤務した。こどもたちへのサッカー指導を

長年行ってきた。このOさんとは、この地域で最初に知った人である。7軒のうち

の1軒のお宅である。この家の庭にも、藤の花がある。

 Mさんに聞いて初めて知ったが、「藤」はとても強く、つるが木にまきついて

その木を殺してしまうと聞き驚いた。まるで蛇のようだと感じた。足利フラワー

パークの藤の映像を見たが、実に素晴しい。樹木医である園長の目が行き届いて

いる。世界に紹介され、海外からの観光客が大勢訪れ、感嘆の声をあげている。

目に見える美しい世界と、その生命の強さに驚かされる。この藤の根の深さに

想いをめぐらす。最近読んだ本によると、植物は地上に見えている部分と地下に

かくれた根とは形もほぼ同形でシンメトリーをなしているという。

 現在は、「顔の見えない社会」つまり「SNSの世界」を言うのだろうが、人は、

対面して話しをすることが大切であることを感じさせてくれた「会話」であった。

文化、教育、平和の基本は「対話」の交流にあると感じている。