「生涯学習」の言葉を聞いてから久しい。当然のことと考え、
深く思索をしてこなかった。私が、生涯学び続けることの大切さを
実感するようになったのは、退職してから、体調の良い状態の時
ではないかと思う。教壇に立っていた時には、特に意識はしていな
かったのではないか。
今朝、新聞を読んで、ふと頭に浮かんできた言葉だ。学ぶことの
必要性を感じさせてくれる記事を読んだからであろう。
生涯学習のキーワードは、「何のために」という目的意識では
ないだろうか。また、「向上心」という学ぶ姿勢が問われる。
教壇を降りてからは、教えるとの立場ではなくなった。
「一人の人間として、何ができるのか」が、テーマになってきた。
高校教員として、教育現場から見た世界しか知らない人間である。
「人と人の関わり」が希薄になっている時代へと変化している。
その一方、「人と人のつながり」を求めている流れもある。
東北大震災から4年の歳月が流れた。復興が進んではいないと聞く。
時間と共に、風化していく。震災の現場に行っていないので、
肌で感じ取ることはできない。メディアを通じ、知人からの話しを
聞いている範囲である。復興は、政治や行政の問題だけではなく、
ソフト面の人の問題である。ハードの復興とソフトの復興の両面がある。
ハードの面では、財政の問題が大きな要素になっているが、ソフトの
面では、人と人とのつながりの問題が生じていることを知った。
新しいコミュニティー作りに苦労しているとのことだ。
「人間の復興」との視点に立てば、東北の問題には限らない。日本の
問題であり、世界の問題であると感じている。足下から見つめ直す
ことからスタートするしかない。
人間の目的は、「個人の幸福」と「社会の平和」にあると考える。
そのための、政治であり、経済であり、科学であり、教育である。
科学や科学技術の発達が人間の幸福や、平和へとつながっていないのが、
歴史的事実であり、現実の世界である。科学技術の開発も、軍事目的の側面
が強く感じられる。科学は諸刃の剣である。結局は人間の問題に帰着する。
人間の心にあるエゴの問題になる。個人や国家の利益を優先させ、他人を
蹴落とし、支配しょうとする本然的顕示欲の心の問題に行きつく。
教育の世界にいた一人の人間として、残念に感じたことは、元中学校長
の逮捕の事件だ。「性的好奇心が人よりも強かった」との供述を知った。
また、元高校数学教諭の逮捕事件である。少女への淫行行為である。
実に教育者として情けない事件である。ここにも人間の問題がある。
私の記憶から離れない出来事を書いて置く。私が長い間、年賀状の交換
をしていた中学の英語の教師のことである。犯罪を犯したわけではない。
反面教師として学んだことである。その教師(先生とは書かない)は、
私が生徒の時に受けていた記憶は、情熱を持つ熱心な教師であった。
毎年の年賀状には、教師の心情が書かれていた。それを読み、私の励みに
していた。それが、退職の年の年賀状には、失望した。中学から高校へと
移り、努力されていたとの認識を持っていたのだが。管理職になれなかった
恨みのような思いと、生徒との縁も切るとのことが書いてあった。ショック
を受けた。こんな教師だったのかと思った。その後のことは知らない。私が
年賀状を出していた先生は、みんな立派な先生である。「私の人生の記憶」
との自分史には、高校時代の3人の先生を実名で書いた。実名は先生への
感謝の想いである。とても良い先生に恵まれた私である。中学の英語の教師
には、人間として裏切られたとの気持ちである。私は、平凡な人間であるが、
人としての道を外したくはない。教職は聖職のように言われるが、職業の持つ
使命を表わした言葉であって、教師は、聖職者ではない。教育という大事な
使命を担う人間である。したがって、「人間としての生き方」が問われるのだ。
また、私にとっては、教え子は、永久に教え子である。ブログを書き始めた
目的の大きな柱である。その想いを込めて、正直に文を書いている。
私の想いを伝えたいのであって、他の意図は全くない。
今朝、新聞で読んだのは、中学校校長と高校指導教諭の教育実践である。
中学校校長のTさんは、「どうすればこどもたちが楽しく学校生活を送り、
価値のある学びができるか、真剣に考え、その中で、まずは自分自身が率先
して、生徒と誠実に向き合う決意をした」「教員に対して、授業の改善を
訴え、私自身が率先して授業を行いました」一つの提案として「行事で
登壇する時は、原稿をもたずに発表しよう」と。「表現力や伝える力を
鍛えるだけでなく、話し手と聞き手の心が通うことで学校全体の一体感が
高まり、規律ある校風になると思ったからです。」と。卒業式では、校長の
式辞、在校生の送辞、卒業生の答辞が全て、原稿なしで行われた。この
卒業式以来、原稿無しの発表は、良き伝統になったとの記事である。
指導教諭のFさんは、科学部の生徒10数人と週2回のゼミを始め、
そこで、「仲間と共に学び合う楽しさを経験させてあげたい」との考えから
であったと。大学に入るための学力と共に、自分で考え、調べて結論を出す
といった「大学で学ぶことのできる力」を身につけてくれていると。
お二人のような立派な教育実践を行っていることに感銘し、紹介した。
このような先生がいることは心強い。それに比べると、私の教育実践は
大したことではないが、「わかる授業」を心掛け、授業プリントを作成して、
生徒に基礎学力をつけさせたいとの想いと、授業余談で、教材に応じて、
物事の見方や考え方を自分の経験を通して話してきたことだけである。
「自分らしく、正直にありのままに」である。人間として大事なことも
話してきた。人間関係においては、思いやりと誠意である。
昨日は、フェイスブックの友達である作家の山崎洋子さんから、SNSの
世界の「マナー」について助言して頂いた。ありがたいと思っている。
SNSの世界も現実の世界も、人間関係の基本は同じであると。人間関係
を大事にしてきた人だと感じている。私も同じである。山崎さんとは、
高校の同期生である。同時代に生きた人間としての親近感がある。
良き友とも感じている。
一昨日のブログ「思いがけない一日」で、同年齢のコーヒー専門店の店主
から「音楽の世界」を教えてもらったことを書いた。このようにして、日々
学ぶことが多いのだ。「学ぶことは楽しい」ことが、実感としてわかって
きている。そして、そのことを「伝えたい」のである。
「生涯学習」とは、生涯「学び」の連続と言えるのではないか。
最近、書店で本をぱっと見て買うことが多い。全部を読んではいないどころか、
読みかけの状態のままである。だが本を通して、思索の機会になっている。
これも学習行為である。本を読んでも、知識としては残っていかないのが、
私の脳のレベルではある。できるだけノートに記録するようにはしている。
私は、生涯「学ぶ心」を持つ人間でありたいと思っている。
深く思索をしてこなかった。私が、生涯学び続けることの大切さを
実感するようになったのは、退職してから、体調の良い状態の時
ではないかと思う。教壇に立っていた時には、特に意識はしていな
かったのではないか。
今朝、新聞を読んで、ふと頭に浮かんできた言葉だ。学ぶことの
必要性を感じさせてくれる記事を読んだからであろう。
生涯学習のキーワードは、「何のために」という目的意識では
ないだろうか。また、「向上心」という学ぶ姿勢が問われる。
教壇を降りてからは、教えるとの立場ではなくなった。
「一人の人間として、何ができるのか」が、テーマになってきた。
高校教員として、教育現場から見た世界しか知らない人間である。
「人と人の関わり」が希薄になっている時代へと変化している。
その一方、「人と人のつながり」を求めている流れもある。
東北大震災から4年の歳月が流れた。復興が進んではいないと聞く。
時間と共に、風化していく。震災の現場に行っていないので、
肌で感じ取ることはできない。メディアを通じ、知人からの話しを
聞いている範囲である。復興は、政治や行政の問題だけではなく、
ソフト面の人の問題である。ハードの復興とソフトの復興の両面がある。
ハードの面では、財政の問題が大きな要素になっているが、ソフトの
面では、人と人とのつながりの問題が生じていることを知った。
新しいコミュニティー作りに苦労しているとのことだ。
「人間の復興」との視点に立てば、東北の問題には限らない。日本の
問題であり、世界の問題であると感じている。足下から見つめ直す
ことからスタートするしかない。
人間の目的は、「個人の幸福」と「社会の平和」にあると考える。
そのための、政治であり、経済であり、科学であり、教育である。
科学や科学技術の発達が人間の幸福や、平和へとつながっていないのが、
歴史的事実であり、現実の世界である。科学技術の開発も、軍事目的の側面
が強く感じられる。科学は諸刃の剣である。結局は人間の問題に帰着する。
人間の心にあるエゴの問題になる。個人や国家の利益を優先させ、他人を
蹴落とし、支配しょうとする本然的顕示欲の心の問題に行きつく。
教育の世界にいた一人の人間として、残念に感じたことは、元中学校長
の逮捕の事件だ。「性的好奇心が人よりも強かった」との供述を知った。
また、元高校数学教諭の逮捕事件である。少女への淫行行為である。
実に教育者として情けない事件である。ここにも人間の問題がある。
私の記憶から離れない出来事を書いて置く。私が長い間、年賀状の交換
をしていた中学の英語の教師のことである。犯罪を犯したわけではない。
反面教師として学んだことである。その教師(先生とは書かない)は、
私が生徒の時に受けていた記憶は、情熱を持つ熱心な教師であった。
毎年の年賀状には、教師の心情が書かれていた。それを読み、私の励みに
していた。それが、退職の年の年賀状には、失望した。中学から高校へと
移り、努力されていたとの認識を持っていたのだが。管理職になれなかった
恨みのような思いと、生徒との縁も切るとのことが書いてあった。ショック
を受けた。こんな教師だったのかと思った。その後のことは知らない。私が
年賀状を出していた先生は、みんな立派な先生である。「私の人生の記憶」
との自分史には、高校時代の3人の先生を実名で書いた。実名は先生への
感謝の想いである。とても良い先生に恵まれた私である。中学の英語の教師
には、人間として裏切られたとの気持ちである。私は、平凡な人間であるが、
人としての道を外したくはない。教職は聖職のように言われるが、職業の持つ
使命を表わした言葉であって、教師は、聖職者ではない。教育という大事な
使命を担う人間である。したがって、「人間としての生き方」が問われるのだ。
また、私にとっては、教え子は、永久に教え子である。ブログを書き始めた
目的の大きな柱である。その想いを込めて、正直に文を書いている。
私の想いを伝えたいのであって、他の意図は全くない。
今朝、新聞で読んだのは、中学校校長と高校指導教諭の教育実践である。
中学校校長のTさんは、「どうすればこどもたちが楽しく学校生活を送り、
価値のある学びができるか、真剣に考え、その中で、まずは自分自身が率先
して、生徒と誠実に向き合う決意をした」「教員に対して、授業の改善を
訴え、私自身が率先して授業を行いました」一つの提案として「行事で
登壇する時は、原稿をもたずに発表しよう」と。「表現力や伝える力を
鍛えるだけでなく、話し手と聞き手の心が通うことで学校全体の一体感が
高まり、規律ある校風になると思ったからです。」と。卒業式では、校長の
式辞、在校生の送辞、卒業生の答辞が全て、原稿なしで行われた。この
卒業式以来、原稿無しの発表は、良き伝統になったとの記事である。
指導教諭のFさんは、科学部の生徒10数人と週2回のゼミを始め、
そこで、「仲間と共に学び合う楽しさを経験させてあげたい」との考えから
であったと。大学に入るための学力と共に、自分で考え、調べて結論を出す
といった「大学で学ぶことのできる力」を身につけてくれていると。
お二人のような立派な教育実践を行っていることに感銘し、紹介した。
このような先生がいることは心強い。それに比べると、私の教育実践は
大したことではないが、「わかる授業」を心掛け、授業プリントを作成して、
生徒に基礎学力をつけさせたいとの想いと、授業余談で、教材に応じて、
物事の見方や考え方を自分の経験を通して話してきたことだけである。
「自分らしく、正直にありのままに」である。人間として大事なことも
話してきた。人間関係においては、思いやりと誠意である。
昨日は、フェイスブックの友達である作家の山崎洋子さんから、SNSの
世界の「マナー」について助言して頂いた。ありがたいと思っている。
SNSの世界も現実の世界も、人間関係の基本は同じであると。人間関係
を大事にしてきた人だと感じている。私も同じである。山崎さんとは、
高校の同期生である。同時代に生きた人間としての親近感がある。
良き友とも感じている。
一昨日のブログ「思いがけない一日」で、同年齢のコーヒー専門店の店主
から「音楽の世界」を教えてもらったことを書いた。このようにして、日々
学ぶことが多いのだ。「学ぶことは楽しい」ことが、実感としてわかって
きている。そして、そのことを「伝えたい」のである。
「生涯学習」とは、生涯「学び」の連続と言えるのではないか。
最近、書店で本をぱっと見て買うことが多い。全部を読んではいないどころか、
読みかけの状態のままである。だが本を通して、思索の機会になっている。
これも学習行為である。本を読んでも、知識としては残っていかないのが、
私の脳のレベルではある。できるだけノートに記録するようにはしている。
私は、生涯「学ぶ心」を持つ人間でありたいと思っている。