山極寿一京大学長の記事を紹介する。もし私が、教壇に立っていたら、
次の記事を読んで、生徒に紹介していたであろうと思う。
毎日新聞の「時代の風」に、山極寿一氏が京大学長選挙のあとで、寄稿した
記事で初めて知り、次に学長に就任直後の記事を読んで、関心を持っていた
人物である。山極寿一氏は、日本人の人類学者。霊長類学者で、ゴリラ研究の
第一人者とのことだ。その学者が、京大学長とは、どんな人物だろうかと
思ったのが最初である。記事を読み、山極寿一氏の考え方のバランス感覚
に、私は共鳴している。1970年入学は、私が卒業した年である。
東の東大、西の京大との名声であるが、個人的には、京大のほうが好きである。
私の能力・学力では入ることのできない大学であった。大学時代の同期生を
思い出す。彼は、3回京大を受けている。3回とも、数点差で落ちたと言って
いた。3回目は、前回の反省をもとに、学科を変えて受験したそうだ。それが
裏目に出たと残念がっていた。もし変えなかったら、合格していたと。
彼とは、特に付き合いがなかったので、卒業後のことは知らない。私の同期生
には、東大、京大の志望者が多かったとの記憶だ。以下が寄稿記事全文である。
この3月、学長として初めて卒業式で式辞を述べた。京都大学は対話を根幹
とした自由の学風を伝統としている。さて、卒業生諸君はそれを十分に体験し
て世に出て行くのかと問うたのである。私が大学に入学した1970年は、
まだ学生たちがキャンパス内を占拠し、授業もボイコットされたり中止にな
ったりしたが、教員と学生との対話は今よりも頻繁だった。学生たちも自主
ゼミを開いて、自らテーマを掲げて必要な文献を持ち寄り、議論を交わして
いた。戦前にも、現在の京都大学総合博物館の前身である陳列館の地下室に、
「和服に下駄でやってくる教官たちが必ず立ち寄り、そこで談論風発、学問
上の諸問題からゴシップの類まで、学生も交えて賑やかで豊かな時間があった」
という記録が残っている。
ところで談論風発とはいったいどんな様子を指しているのか。
私は、明治時代にジャン・ジャック・ルソーの思想を日本に紹介し、自由民権
運動を展開した中江兆民の著作を引用した。1887年に出した「三酔人問答」
には、3人の論者が登場し、酒を酌み交わしながら日本の国際戦略を論じる。
一人は洋学紳士と呼ばれる西洋の近代思想を擁護する論客。もう一人はかすり
の和服をきた豪傑君と呼ばれる壮士。そして、お酒の大好きな南海先生である。
洋学紳士はルソーさながら自由・平等・博愛の3原則の確立を説き、軍備の撤廃
を主張する。人間は四海同胞たるもの、万一強国に侵略されても、道義をもって
訴えれば他の列強は放置するはずがないと言うのだ。いいや、それは学者の書斎の
議論である、と豪傑君は反論する。現実の世界は弱肉強食、国家間の戦争は
避けることはできない。侵略を甘受せずに軍備を整えて大陸の大国に立ち向かう
べしと主張する。南海先生はその2人の間に割って入る。双方の説は極論で机上
の空論や過去のまぼろしに過ぎない。国内においては立憲の制度を設けて人民
の権利を守り、世界に対しては各国の民主勢力と連携を図り、武力をふるっては
ならないと説く。洋学紳士も豪傑君も南海先生の議論の平凡さにあきれ返るのだが、
南海先生は国家百年の大計を議論するのに奇抜な発想などできるはずがない、
と言って頑として譲らない。この三酔人はそれぞれ中江兆民の分身と思われる
のだが、兆民は三人問答の形式を取って議論の向かうべき道を示したといって
よいだろう。
この論議は、今の日本の情勢に似ていなくもない。現代の日本社会は
果たして談論風発といえるだろうか。洋学紳士や豪傑君のように極論する
人はいるが、南海先生のように議論に割って入る人は現れず、互いに
自説を曲げず相手の議論の不備をののしり合うだけのように見える。
実は、京都大学にもこの問答形式を採用して論を展開した先駆者がいる。
霊長類学という新しい学問を創った今西錦司である。1952年に出した
「人間性の進化」という著作に、進化論者、人間、サル、ハチを登場させ、
文化よりもっと広いカルチュアという概念について、それぞれの立場から
論じたのである。本能によって生活している動物は、その行動の目的を
知らないが、カルチュアによって生活している人間は、いちいちその行動
の目的を知っているところに違いがある、と進化論者が問いかける。すると
サルは、「チンパンジーは天井から吊り下げられたバナナを取るために
箱を積み重ねるのだから、目的をわかって行動している」と反論する。
これに対して人間は、「目的ではなく、ゴールに到達しようとして行動
するのが人間だ」と言い返す。ハチは、「カリウドバチが獲物を穴倉の
巣にしまいこんで卵を産み付けるのは、幼虫とその食物の安全さを確保
するために予想して行動したように見えるが、これは本能であってカルチュア
とは言えない」と主張する。
今西は人間を超えた談論風発を演じて、人間中心的な思考を正そうとした
のである。卒業生諸君に私は、複数の人の意見を踏まえ、直面している課題に
最終的に自分の判断を下して立ち向かってほしいと述べた。自分を支持して
くる人の意見ばかりを聞いていれば、やがては裸の王様になって判断は
鈍る。ぜひ、談論風発を駆使して傾聴できる議論を展開してほしいものである。
実に傾聴に値する意見である。今の政治家や知識人と称する人たちに読んで
自らの立場を考えてもらいたいとの感想である。特に安倍総理に問いかけたい
との思いである。
次の記事を読んで、生徒に紹介していたであろうと思う。
毎日新聞の「時代の風」に、山極寿一氏が京大学長選挙のあとで、寄稿した
記事で初めて知り、次に学長に就任直後の記事を読んで、関心を持っていた
人物である。山極寿一氏は、日本人の人類学者。霊長類学者で、ゴリラ研究の
第一人者とのことだ。その学者が、京大学長とは、どんな人物だろうかと
思ったのが最初である。記事を読み、山極寿一氏の考え方のバランス感覚
に、私は共鳴している。1970年入学は、私が卒業した年である。
東の東大、西の京大との名声であるが、個人的には、京大のほうが好きである。
私の能力・学力では入ることのできない大学であった。大学時代の同期生を
思い出す。彼は、3回京大を受けている。3回とも、数点差で落ちたと言って
いた。3回目は、前回の反省をもとに、学科を変えて受験したそうだ。それが
裏目に出たと残念がっていた。もし変えなかったら、合格していたと。
彼とは、特に付き合いがなかったので、卒業後のことは知らない。私の同期生
には、東大、京大の志望者が多かったとの記憶だ。以下が寄稿記事全文である。
この3月、学長として初めて卒業式で式辞を述べた。京都大学は対話を根幹
とした自由の学風を伝統としている。さて、卒業生諸君はそれを十分に体験し
て世に出て行くのかと問うたのである。私が大学に入学した1970年は、
まだ学生たちがキャンパス内を占拠し、授業もボイコットされたり中止にな
ったりしたが、教員と学生との対話は今よりも頻繁だった。学生たちも自主
ゼミを開いて、自らテーマを掲げて必要な文献を持ち寄り、議論を交わして
いた。戦前にも、現在の京都大学総合博物館の前身である陳列館の地下室に、
「和服に下駄でやってくる教官たちが必ず立ち寄り、そこで談論風発、学問
上の諸問題からゴシップの類まで、学生も交えて賑やかで豊かな時間があった」
という記録が残っている。
ところで談論風発とはいったいどんな様子を指しているのか。
私は、明治時代にジャン・ジャック・ルソーの思想を日本に紹介し、自由民権
運動を展開した中江兆民の著作を引用した。1887年に出した「三酔人問答」
には、3人の論者が登場し、酒を酌み交わしながら日本の国際戦略を論じる。
一人は洋学紳士と呼ばれる西洋の近代思想を擁護する論客。もう一人はかすり
の和服をきた豪傑君と呼ばれる壮士。そして、お酒の大好きな南海先生である。
洋学紳士はルソーさながら自由・平等・博愛の3原則の確立を説き、軍備の撤廃
を主張する。人間は四海同胞たるもの、万一強国に侵略されても、道義をもって
訴えれば他の列強は放置するはずがないと言うのだ。いいや、それは学者の書斎の
議論である、と豪傑君は反論する。現実の世界は弱肉強食、国家間の戦争は
避けることはできない。侵略を甘受せずに軍備を整えて大陸の大国に立ち向かう
べしと主張する。南海先生はその2人の間に割って入る。双方の説は極論で机上
の空論や過去のまぼろしに過ぎない。国内においては立憲の制度を設けて人民
の権利を守り、世界に対しては各国の民主勢力と連携を図り、武力をふるっては
ならないと説く。洋学紳士も豪傑君も南海先生の議論の平凡さにあきれ返るのだが、
南海先生は国家百年の大計を議論するのに奇抜な発想などできるはずがない、
と言って頑として譲らない。この三酔人はそれぞれ中江兆民の分身と思われる
のだが、兆民は三人問答の形式を取って議論の向かうべき道を示したといって
よいだろう。
この論議は、今の日本の情勢に似ていなくもない。現代の日本社会は
果たして談論風発といえるだろうか。洋学紳士や豪傑君のように極論する
人はいるが、南海先生のように議論に割って入る人は現れず、互いに
自説を曲げず相手の議論の不備をののしり合うだけのように見える。
実は、京都大学にもこの問答形式を採用して論を展開した先駆者がいる。
霊長類学という新しい学問を創った今西錦司である。1952年に出した
「人間性の進化」という著作に、進化論者、人間、サル、ハチを登場させ、
文化よりもっと広いカルチュアという概念について、それぞれの立場から
論じたのである。本能によって生活している動物は、その行動の目的を
知らないが、カルチュアによって生活している人間は、いちいちその行動
の目的を知っているところに違いがある、と進化論者が問いかける。すると
サルは、「チンパンジーは天井から吊り下げられたバナナを取るために
箱を積み重ねるのだから、目的をわかって行動している」と反論する。
これに対して人間は、「目的ではなく、ゴールに到達しようとして行動
するのが人間だ」と言い返す。ハチは、「カリウドバチが獲物を穴倉の
巣にしまいこんで卵を産み付けるのは、幼虫とその食物の安全さを確保
するために予想して行動したように見えるが、これは本能であってカルチュア
とは言えない」と主張する。
今西は人間を超えた談論風発を演じて、人間中心的な思考を正そうとした
のである。卒業生諸君に私は、複数の人の意見を踏まえ、直面している課題に
最終的に自分の判断を下して立ち向かってほしいと述べた。自分を支持して
くる人の意見ばかりを聞いていれば、やがては裸の王様になって判断は
鈍る。ぜひ、談論風発を駆使して傾聴できる議論を展開してほしいものである。
実に傾聴に値する意見である。今の政治家や知識人と称する人たちに読んで
自らの立場を考えてもらいたいとの感想である。特に安倍総理に問いかけたい
との思いである。