「夢」を語るのは難しくはないが、「夢」に向かって努力し続けることは、
非常に困難である。人間は弱いとも言えるし、強いとも言える。
困難に耐えることができるかどうかである。
私は自分が弱い人間だと自覚している。辛い時、苦しい時に、
気持ちが弱くなってしまう。ネガティブなタイプだ。
2003年に蓄膿症が発覚し、2007年に手術をしたが、
完治せずにずっと苦しんできた。だから実感としてわかるのだ。
心療内科にも3年間通った。医学的治療はないとのことだ。
体調に波があるのは当然であるが、私の場合はそれがひどい。
この12年を振り返ると、正月をまともに迎えられたのは、
2002年、2005年くらいしかない。
状態が良かったのは、2010年の2月、2013年の3月、
2014年の8月、そして今の状態。
その良い状態も3か月が限度であった。
昨年の8月は状態が良かったので、人生の記録、思いの発信を目的として、
ブログを始めたのだ。ブログがどういうものなのかも知らずに、
ともかく文を書いて、発信したいとの気持ちになっていた。
8月15日に、次男の勧めで、アメブロの登録をした。
10月で、「私の人生の記憶」は書き終えた。
息子や、孫に書き残しておきたかったのだ。
また、英語教員の証を残しておきたかった。それが「英文法対話」だ。
今は、英語教育の流れは変わってきている。コミュニケーションを中心と
する英語教育にシフトしている。私の時代にもその考え方はあったのだ。
だが、現実の大学入試の壁が厚かった。今は大学全入の時代だ。
故に、大学の生き残りをかけた競争は激烈だ。国際化、情報化の社会である。
善悪を含めてインターナショナルになっている。
その中での共通言語は、英語しかないと言える。
今の時代は、語学(特に英語)とパソコンを道具として使いこなせる必要がある。
大学では、他教科の英語による講座が増えていると聞いている。
留学生の交流を盛んに行っている大学も増えている。
大学の個性が問われる時代である。自然淘汰されてしまう。
私が経験した大学時代とは全く変わっている。
一流大学、一流会社との安定志向は崩壊している。
もちろん一流大学への競争は激しいが、その一流大学でも、
国際社会での競争にさらされている。実績を上げなければ、
国からの予算は減らされるし、高い能力を持つ学生は集まってこない。
ここに一つの危険が潜んでいるのだが。その端的な例が、小保方問題である。
ともかく、英語教育では、「聞き、話す」教育に重点が置かれるようになった。
その点では、私を含めて反省しなければならないことだ。
はっきり言うと、私が教わり、教えてきた英語教育では、
「聞き、話す」とのコミュニケーションができないことは事実だ。
それなりの時間と、方法論がなかったし、目的が大学入試にあったからだ。
その大学入試は、「読み、書く」ことと英文法の力が問われていた。
英文法に関しては、私が教わった時代より、私が教えた時代のほうが
進化はしていたが。今の英語教員には、私が書いた「英文法対話」は
書けないだろうと思う。
「読み、書く」力をつけるには、英文法の基本は不可欠である。
文科省の役人はわかってはいない。彼らは優秀で、
勉強の苦労をしていない。学校教育以外のところで、
語学力を身につけたのだろう。だがその基本に学校教育があることを
忘れている。学校教育でのマイナスの部分を問題視し過ぎている。
社会的背景ももちろん変化している。
語学は、「聞き、話す」と「読み、書く」ことは一体ではない。
指導要領では、四技能の言語活動を目標に掲げていたが、
現実的には、空論である。適切な教材もなく、私を含めて、
教師の力量が不足している。
最終的には、四技能は一致することだが、プロセスは違う。
プロセスが違うということは、方法が違うということである。
「聞き、話す」から「読み、書く」へとステップアップしていく。
子どもの言語取得過程をみるとわかる。
「聞くという入力から話すという出力」へ、その基礎の上に、
「読むという入力から書くという出力」へと進化するものだ。
高校までの教育は、あらゆる分野の基礎、基本の知識を教えるもの
ではなくてはならない。大学教育は、その基礎知識をもとに、
応用発展させる専門的技術や専門的知識を教え、
学生自身が、自分で物事を考え、創造していく力を養うとともに、
人間として生きていくうえでの教養を教える場所でもある。
池上彰氏は、著書「おとなの教養」で、教養とは「自分を知ること」です。
と書いている。一読を勧める。私は、「人生とは自分を知る旅」であると
考えている。ソクラテスの「汝自らを知れ」との言葉の意味が、
実感としてわかるようになってきている。
ゴールなき課題だと思っている。
最近読み感銘した言葉を紹介する。
「人生は、幸福になるためにある。虚栄をを張ったり、
背伸びをしたりする必要など、全くない。
人間は人間以上には、偉くはなれないのだ。
ありのままに自分らしく。
人のため、社会のため、行動する人生が最も美しい」
「自分の個性を鍛え上げた人は美しい。すぐ消えてしまう”
一時の美”ではなくずっと続く”一生涯の美”である。
その人は他人をうらやまない。他人を妬まない。
その人自身の心が、夏の高原の青空のように晴れ晴れと
している」
「”笑う”という言葉は、古くは”咲う”とも書いたという。
笑顔は、人間が咲かせることのできる花である。
お金があってもなくても。家族にも、友人にも、
惜しみなく贈ることのできる幸せの花が笑顔である」
以上、私の人生論のような書き方になってしまったが、
私は、第三の人生、つまり人生の最終章に生きている
との思いである。
死と向き合って、今を大切に生きるということだ。
そういう年齢になったのだ。
Enjoy my own life !である。
非常に困難である。人間は弱いとも言えるし、強いとも言える。
困難に耐えることができるかどうかである。
私は自分が弱い人間だと自覚している。辛い時、苦しい時に、
気持ちが弱くなってしまう。ネガティブなタイプだ。
2003年に蓄膿症が発覚し、2007年に手術をしたが、
完治せずにずっと苦しんできた。だから実感としてわかるのだ。
心療内科にも3年間通った。医学的治療はないとのことだ。
体調に波があるのは当然であるが、私の場合はそれがひどい。
この12年を振り返ると、正月をまともに迎えられたのは、
2002年、2005年くらいしかない。
状態が良かったのは、2010年の2月、2013年の3月、
2014年の8月、そして今の状態。
その良い状態も3か月が限度であった。
昨年の8月は状態が良かったので、人生の記録、思いの発信を目的として、
ブログを始めたのだ。ブログがどういうものなのかも知らずに、
ともかく文を書いて、発信したいとの気持ちになっていた。
8月15日に、次男の勧めで、アメブロの登録をした。
10月で、「私の人生の記憶」は書き終えた。
息子や、孫に書き残しておきたかったのだ。
また、英語教員の証を残しておきたかった。それが「英文法対話」だ。
今は、英語教育の流れは変わってきている。コミュニケーションを中心と
する英語教育にシフトしている。私の時代にもその考え方はあったのだ。
だが、現実の大学入試の壁が厚かった。今は大学全入の時代だ。
故に、大学の生き残りをかけた競争は激烈だ。国際化、情報化の社会である。
善悪を含めてインターナショナルになっている。
その中での共通言語は、英語しかないと言える。
今の時代は、語学(特に英語)とパソコンを道具として使いこなせる必要がある。
大学では、他教科の英語による講座が増えていると聞いている。
留学生の交流を盛んに行っている大学も増えている。
大学の個性が問われる時代である。自然淘汰されてしまう。
私が経験した大学時代とは全く変わっている。
一流大学、一流会社との安定志向は崩壊している。
もちろん一流大学への競争は激しいが、その一流大学でも、
国際社会での競争にさらされている。実績を上げなければ、
国からの予算は減らされるし、高い能力を持つ学生は集まってこない。
ここに一つの危険が潜んでいるのだが。その端的な例が、小保方問題である。
ともかく、英語教育では、「聞き、話す」教育に重点が置かれるようになった。
その点では、私を含めて反省しなければならないことだ。
はっきり言うと、私が教わり、教えてきた英語教育では、
「聞き、話す」とのコミュニケーションができないことは事実だ。
それなりの時間と、方法論がなかったし、目的が大学入試にあったからだ。
その大学入試は、「読み、書く」ことと英文法の力が問われていた。
英文法に関しては、私が教わった時代より、私が教えた時代のほうが
進化はしていたが。今の英語教員には、私が書いた「英文法対話」は
書けないだろうと思う。
「読み、書く」力をつけるには、英文法の基本は不可欠である。
文科省の役人はわかってはいない。彼らは優秀で、
勉強の苦労をしていない。学校教育以外のところで、
語学力を身につけたのだろう。だがその基本に学校教育があることを
忘れている。学校教育でのマイナスの部分を問題視し過ぎている。
社会的背景ももちろん変化している。
語学は、「聞き、話す」と「読み、書く」ことは一体ではない。
指導要領では、四技能の言語活動を目標に掲げていたが、
現実的には、空論である。適切な教材もなく、私を含めて、
教師の力量が不足している。
最終的には、四技能は一致することだが、プロセスは違う。
プロセスが違うということは、方法が違うということである。
「聞き、話す」から「読み、書く」へとステップアップしていく。
子どもの言語取得過程をみるとわかる。
「聞くという入力から話すという出力」へ、その基礎の上に、
「読むという入力から書くという出力」へと進化するものだ。
高校までの教育は、あらゆる分野の基礎、基本の知識を教えるもの
ではなくてはならない。大学教育は、その基礎知識をもとに、
応用発展させる専門的技術や専門的知識を教え、
学生自身が、自分で物事を考え、創造していく力を養うとともに、
人間として生きていくうえでの教養を教える場所でもある。
池上彰氏は、著書「おとなの教養」で、教養とは「自分を知ること」です。
と書いている。一読を勧める。私は、「人生とは自分を知る旅」であると
考えている。ソクラテスの「汝自らを知れ」との言葉の意味が、
実感としてわかるようになってきている。
ゴールなき課題だと思っている。
最近読み感銘した言葉を紹介する。
「人生は、幸福になるためにある。虚栄をを張ったり、
背伸びをしたりする必要など、全くない。
人間は人間以上には、偉くはなれないのだ。
ありのままに自分らしく。
人のため、社会のため、行動する人生が最も美しい」
「自分の個性を鍛え上げた人は美しい。すぐ消えてしまう”
一時の美”ではなくずっと続く”一生涯の美”である。
その人は他人をうらやまない。他人を妬まない。
その人自身の心が、夏の高原の青空のように晴れ晴れと
している」
「”笑う”という言葉は、古くは”咲う”とも書いたという。
笑顔は、人間が咲かせることのできる花である。
お金があってもなくても。家族にも、友人にも、
惜しみなく贈ることのできる幸せの花が笑顔である」
以上、私の人生論のような書き方になってしまったが、
私は、第三の人生、つまり人生の最終章に生きている
との思いである。
死と向き合って、今を大切に生きるということだ。
そういう年齢になったのだ。
Enjoy my own life !である。