「祈り」は、すべての人間のもつ行為と言える。幸福を求める願いの行為とも言いかえられるが、信仰の有無にかかわらない心の働きだと思う。
脳科学者・中野信子氏によると、脳に与える影響という点から、「祈り」には、二種類あり、大きな違いがあると言う。
ポジティブな祈りとネガティブな祈りである。つまり、善意の祈りと悪意の祈りと理解していいだろう。人間の脳には、「社会脳」という善悪を判断する機能が備わっているそうだ。一般に、人間は感情の動物であり、社会的動物であると言われている。
人間には、本然的に善性と悪性が備わっていると、私は考えている。自分の心の中を覗いて見ればわかることだ。凡人であるが故に。固体としては、一人一人違いがあるが、その属性は共通しているのが人間だと思っている。
ポジティブな祈りは、「ベータ-エンドルフィン」「ドーパミン」「オキシトシン」など、「脳内快感物質」と呼ばれる一連の物質が分泌される。
ベータ-エンドルフィンは、快感物質であると同時に、脳を活性化させる働きがあり、体の免疫力を高めてさまざまな病気を予防する。さらに、ベータ-エンドルフィンが分泌されると記憶力が高まり、集中力が増すということも知られているとのことだ。
怒りや妬みや憎しみの感情を持つネガティブな祈りは、「ストレス物質」であるコルチゾールという物質が分泌される。コルチゾールは生体に必須のホルモンだが、脳内で過剰に分泌されると、人間の脳が持つ「記憶」の回路で中心的な役割の「海馬」が委縮するそうだ。
著者は、ポジティブな祈りイコール「よい祈り」とはかぎらないと言う。ポジティブでも攻撃的な祈りは、脳内に分泌される神経伝達物質は、アドレナリン、ノルアドレナリン(強い毒性のある物質)が主となり、「戦う」「敵から逃げる」という反応を引き起こす物質で、「怒りのホルモン」との別名持つ。生物として生きていくためには、ともに必須の物質であるが、出過ぎると危険である。
だが、「ポジティブなよい祈り」と、「ポジティブだが悪い祈り」の違いは、微妙で、紙一重の差と著者は言う。
「よい祈り」とは、自他ともの幸福を願う祈りとのことだが、「言うは易く行うは難し」の格言にあるように、実に難しい行為である。英語で祈るは、prayで、原義は神に祈って救い・慈愛を求める。これは、キリスト教的な考え方である。仏教では、同苦を含む慈悲の概念に通じるように思う。
オキシトシンは、愛おしさの感情を生みだす元になる物質でもあることから「愛情ホルモン」という別名を持っているそうだ。ベータ-エンドルフィンが記憶力や共感力を向上させるように、オキシトシンも、脳の活性化につながる。また、オキシトシンは社会的行動にも密接に関わっていることが示唆され、互いの信頼や団結の度合いを高める物質であると考えられている。
私たちは、誰かを愛おしく思えばこそ、その人の幸福を心から祈ることができる。自分には大切な人、守りたい人がいて、その人にもまたそれぞれ大切な人、守りたい人がいる。この慈悲の連帯で世界中をつなごうと願うとき、それが真の世界平和の祈りになっていくのではないでしょうかと著者は述べている。これは「祈りの理想」だと私は思っている。
脳の持つ「ルーティーン化志向」という性質で、脳というのは、ある意味でたいへん「怠け者」と言える。「考えなくてもできること」をなるべく増やそうとする性質がある。
先日テレビで見たことだが、プロ・アスリートの脳の反応を画像で見ると、普通の人が考えて使うほど、脳を使っていない「省エネ」であることがわかる。プロの直感とはそのような脳の働きなのだろう。無意識で行える習慣化された反応である。
脳は大量のエネルギーを使う臓器なので、体はなるべく、脳に省エネしてもらいたい。
生存本能に直結している性質である。
したがって、祈りという営みについても、ルーティーン化志向は強く作動し、「祈りは惰性になりやすい」となる。
人類は、自然災害、飢えや病気などさまざまな困難に立ち向かってきた。自分自身の力ではどうしょうもない大きな困難の連続であった。これにどう立ち向かうのか。切実な状況の中でも、希望を失わずにいられるように、人類史の途上で「祈る」という行為が自然発生的に成立したと考えられると著者は言う。
神や仏の存在を信じ、祈ることから「宗教」が生まれたと私も考える。
宗教の目的は、幸せになること。そして皆が幸せであることにある。
神経伝達物質のうち、幸福感や快感をもたらす物質をひっくるめて、一般的に「脳内快感物質」と呼び、ドーパミンやベータ-エンドルフィンなどで、人が幸せを感じているときには、脳内でこれらの物質が分泌されている。
人間の脳では、ほめられる、他者からよい評価をされる、などの社会的報酬を得ると、金銭的な報酬を得たときなどと同様に、「線条体」という快感を生みだすのに関わる脳内の回路(報酬系)の一部が活動することがわかった。
では、利他行動をとるとき、誰からほめられなければ、大きな快感を得ることができないのでしょうか?じつは、「他者からのよい評価」は必ずしも必要ではない。
人間には、自分の行動をつぶさに監視する機能を持つ内側前頭前野の働きがある。
誰からほめられなくても、自分の内側前頭前野が自分の行動を「すばらしい!」と評価することにより、非常に大きな快感がもたらされる。これが、「社会脳」と呼ばれる機能のひとつである。
幸福感の源である脳内快感物質だが、同じ刺激をくり返し脳に与えていると、「慣れ」が生じ、その分泌量はみるみる減っていく。
本来、脳には何らかの目標を達成することで大きな喜びを感じる、という性質がそなわっている。
平穏無事な人生より、さまざまな困難が次々と襲ってくる人生のほうが、それを乗り越えるたびに深い幸福感を感じることができる。
脳を育てる刺激にはさまざまあるが、代表的なものとして、たくさんの人に会って対話を交わすことが挙げられる。
脳によい刺激を与えることは、脳の若さを保つためにも大切なこと。
脳を若く保つには、脳に適度な刺激を与えてやること、適度に困難な課題を乗り越えていくことが必須である。
困難な目標を具体化して達成していくことが大切で、その達成感が自信につながる。
学びつづけ、成長しつづけ、達成をくり返すことの中にこそ、脳が感じる幸福はある。脳にとっての幸福とは、変化のダイナミズムの中にある。
人間の共感力の、脳における土台となるのは、「ミラーニューロン」という神経細胞です。
脳にミラーニューロンによる「共感システム」があるからこそ、利他の働きかけをした相手がよい方向に変わったとき、我がことのように喜びと感じられる。
人間は、「個体」というレベルで見れば非力なものです。
非力な人間が唯一、他の動物種と比べて発達しているのが脳です。つまり、互いに助け合う「利他の行動」で快感を覚える脳、率先して「利他の行動」を取らせる脳。これが、人類が種として生き延びてくるための唯一の武器だった。
人間は、「自分は価値のある人間だ」「自分は誰かにとって必要だ」と感じてこそ、自分を肯定できる。そして、自己肯定感・自己評価は、幸福感に直結している。
この世のすべては相互に関わりあって存在しており、単独で存在しているものではない。人は一人で生きているのではなく、他のすべての人と関わりをもち、支え合って生きているという考え方になる。この考え方をつきつめていくならば、自己と他者との間に決まった境界などないことになります。
著者は、脳科学の知見をふまえた「幸福観のとらえ直し」を試み、「利他行動は自分自身も幸福にする」[逆境はあったほうがよい」「逆境の多い人生は、むしろ最高に幸せな人生になり得る」と結論している。
脳科学者・中野信子氏によると、脳に与える影響という点から、「祈り」には、二種類あり、大きな違いがあると言う。
ポジティブな祈りとネガティブな祈りである。つまり、善意の祈りと悪意の祈りと理解していいだろう。人間の脳には、「社会脳」という善悪を判断する機能が備わっているそうだ。一般に、人間は感情の動物であり、社会的動物であると言われている。
人間には、本然的に善性と悪性が備わっていると、私は考えている。自分の心の中を覗いて見ればわかることだ。凡人であるが故に。固体としては、一人一人違いがあるが、その属性は共通しているのが人間だと思っている。
ポジティブな祈りは、「ベータ-エンドルフィン」「ドーパミン」「オキシトシン」など、「脳内快感物質」と呼ばれる一連の物質が分泌される。
ベータ-エンドルフィンは、快感物質であると同時に、脳を活性化させる働きがあり、体の免疫力を高めてさまざまな病気を予防する。さらに、ベータ-エンドルフィンが分泌されると記憶力が高まり、集中力が増すということも知られているとのことだ。
怒りや妬みや憎しみの感情を持つネガティブな祈りは、「ストレス物質」であるコルチゾールという物質が分泌される。コルチゾールは生体に必須のホルモンだが、脳内で過剰に分泌されると、人間の脳が持つ「記憶」の回路で中心的な役割の「海馬」が委縮するそうだ。
著者は、ポジティブな祈りイコール「よい祈り」とはかぎらないと言う。ポジティブでも攻撃的な祈りは、脳内に分泌される神経伝達物質は、アドレナリン、ノルアドレナリン(強い毒性のある物質)が主となり、「戦う」「敵から逃げる」という反応を引き起こす物質で、「怒りのホルモン」との別名持つ。生物として生きていくためには、ともに必須の物質であるが、出過ぎると危険である。
だが、「ポジティブなよい祈り」と、「ポジティブだが悪い祈り」の違いは、微妙で、紙一重の差と著者は言う。
「よい祈り」とは、自他ともの幸福を願う祈りとのことだが、「言うは易く行うは難し」の格言にあるように、実に難しい行為である。英語で祈るは、prayで、原義は神に祈って救い・慈愛を求める。これは、キリスト教的な考え方である。仏教では、同苦を含む慈悲の概念に通じるように思う。
オキシトシンは、愛おしさの感情を生みだす元になる物質でもあることから「愛情ホルモン」という別名を持っているそうだ。ベータ-エンドルフィンが記憶力や共感力を向上させるように、オキシトシンも、脳の活性化につながる。また、オキシトシンは社会的行動にも密接に関わっていることが示唆され、互いの信頼や団結の度合いを高める物質であると考えられている。
私たちは、誰かを愛おしく思えばこそ、その人の幸福を心から祈ることができる。自分には大切な人、守りたい人がいて、その人にもまたそれぞれ大切な人、守りたい人がいる。この慈悲の連帯で世界中をつなごうと願うとき、それが真の世界平和の祈りになっていくのではないでしょうかと著者は述べている。これは「祈りの理想」だと私は思っている。
脳の持つ「ルーティーン化志向」という性質で、脳というのは、ある意味でたいへん「怠け者」と言える。「考えなくてもできること」をなるべく増やそうとする性質がある。
先日テレビで見たことだが、プロ・アスリートの脳の反応を画像で見ると、普通の人が考えて使うほど、脳を使っていない「省エネ」であることがわかる。プロの直感とはそのような脳の働きなのだろう。無意識で行える習慣化された反応である。
脳は大量のエネルギーを使う臓器なので、体はなるべく、脳に省エネしてもらいたい。
生存本能に直結している性質である。
したがって、祈りという営みについても、ルーティーン化志向は強く作動し、「祈りは惰性になりやすい」となる。
人類は、自然災害、飢えや病気などさまざまな困難に立ち向かってきた。自分自身の力ではどうしょうもない大きな困難の連続であった。これにどう立ち向かうのか。切実な状況の中でも、希望を失わずにいられるように、人類史の途上で「祈る」という行為が自然発生的に成立したと考えられると著者は言う。
神や仏の存在を信じ、祈ることから「宗教」が生まれたと私も考える。
宗教の目的は、幸せになること。そして皆が幸せであることにある。
神経伝達物質のうち、幸福感や快感をもたらす物質をひっくるめて、一般的に「脳内快感物質」と呼び、ドーパミンやベータ-エンドルフィンなどで、人が幸せを感じているときには、脳内でこれらの物質が分泌されている。
人間の脳では、ほめられる、他者からよい評価をされる、などの社会的報酬を得ると、金銭的な報酬を得たときなどと同様に、「線条体」という快感を生みだすのに関わる脳内の回路(報酬系)の一部が活動することがわかった。
では、利他行動をとるとき、誰からほめられなければ、大きな快感を得ることができないのでしょうか?じつは、「他者からのよい評価」は必ずしも必要ではない。
人間には、自分の行動をつぶさに監視する機能を持つ内側前頭前野の働きがある。
誰からほめられなくても、自分の内側前頭前野が自分の行動を「すばらしい!」と評価することにより、非常に大きな快感がもたらされる。これが、「社会脳」と呼ばれる機能のひとつである。
幸福感の源である脳内快感物質だが、同じ刺激をくり返し脳に与えていると、「慣れ」が生じ、その分泌量はみるみる減っていく。
本来、脳には何らかの目標を達成することで大きな喜びを感じる、という性質がそなわっている。
平穏無事な人生より、さまざまな困難が次々と襲ってくる人生のほうが、それを乗り越えるたびに深い幸福感を感じることができる。
脳を育てる刺激にはさまざまあるが、代表的なものとして、たくさんの人に会って対話を交わすことが挙げられる。
脳によい刺激を与えることは、脳の若さを保つためにも大切なこと。
脳を若く保つには、脳に適度な刺激を与えてやること、適度に困難な課題を乗り越えていくことが必須である。
困難な目標を具体化して達成していくことが大切で、その達成感が自信につながる。
学びつづけ、成長しつづけ、達成をくり返すことの中にこそ、脳が感じる幸福はある。脳にとっての幸福とは、変化のダイナミズムの中にある。
人間の共感力の、脳における土台となるのは、「ミラーニューロン」という神経細胞です。
脳にミラーニューロンによる「共感システム」があるからこそ、利他の働きかけをした相手がよい方向に変わったとき、我がことのように喜びと感じられる。
人間は、「個体」というレベルで見れば非力なものです。
非力な人間が唯一、他の動物種と比べて発達しているのが脳です。つまり、互いに助け合う「利他の行動」で快感を覚える脳、率先して「利他の行動」を取らせる脳。これが、人類が種として生き延びてくるための唯一の武器だった。
人間は、「自分は価値のある人間だ」「自分は誰かにとって必要だ」と感じてこそ、自分を肯定できる。そして、自己肯定感・自己評価は、幸福感に直結している。
この世のすべては相互に関わりあって存在しており、単独で存在しているものではない。人は一人で生きているのではなく、他のすべての人と関わりをもち、支え合って生きているという考え方になる。この考え方をつきつめていくならば、自己と他者との間に決まった境界などないことになります。
著者は、脳科学の知見をふまえた「幸福観のとらえ直し」を試み、「利他行動は自分自身も幸福にする」[逆境はあったほうがよい」「逆境の多い人生は、むしろ最高に幸せな人生になり得る」と結論している。