平成11年(1999年)4月に御殿場南高校に赴任し、平成20年(2008年)3月に、定年を迎えた学校である。創立は昭和38年(1963年)で、私の母校・神奈川県立新城高校と設立が同じである。母校に近い思い入れがある学校である。裾野に居住してからは、赴任を希望していた学校である。最後にその願いが叶ったのである。沼駿地区北部の普通科進学校である。沼駿地区の中心進学校は、沼津東高校であるが、その学校に次ぐ位置にある学校である。近年は、女子高の沼津西高校が、男女共学になり、女子高校の三島北高校も男女共学になり、静岡県に女子高校が無くなるとともに、中学生の進路希望が変化し、御殿場南高校の生徒の質の変化をもたらすのである。生徒の質の変化する前の生徒を教えたのだ。定年までの9年間は、授業と生徒との関わりと私の病気との戦いの時期である。
最初の3年間は、副担任であるが、1年、2年、3年と持ち上がり、授業方法を工夫改善した時期である。この時期は、教員になってから一番勉強したかもしれない。前任校では、ゆったりした時間を過ごしたために、勉強がおろそかになっていた。そのために勉強し教えることで忙しい日々を送ったとの記憶が強い。この学校では、三島南高校までの同僚との麻雀の人間関係はほとんどない。前任の御殿場高校の最初の2・3年ぐらいで最後になったとの記憶があるくらいだ。教員を取り巻く社会状況も変化し、横のつながりはどんどん希薄になって行ったように思う。この学校でのプライベートな付き合いは、転任してから2・3回、英語科のTさんの関係で誘われて遊んだ記憶がある程度だ。英語科の研究室では、同世代のAさんや女子教員のTさん、私の息子の世代の、F君やM子さんとはよく話しをしたと記憶しているが、他の教科の人とはあまり話しをしていない。私は、職員室にはほとんどいたことがない、図書課長をしている時でも、図書室にいることはほとんどなかったくらいだ。空き時間は、英語科のパソコンでプリントを作っていたとの記憶だ。一台は、私専用のパソコンになっていた。
私の授業で工夫したことは、私の英文法対話の中の英文の読み方で書いたフレーズリーディングを導入したことだ。英語をフレーズ(語句のまとまり)ごとに読み下す方法で、生徒に斜線を入れるように指示してその読み方に慣らせる方法を取った。またそのフレーズごとに意味を捉え、音読することを重視した。プリントを作って分かりやすい授業を心がけたつもりだ。教科書及び教材のレベルが高くなっているので、自分が消化していないと教えることはできない。私は教師用のマニュアルは、参考程度に見ることはあっても、利用することはなかった。定期試験の問題作りで、応用長文は内容のあるものを選んで出題した。生徒は敏感で、その長文問題を楽しみにしている生徒もいたくらいだ。また、2年目になって初めてブロック体で板書するようになった。それまでの教師生活はすべて筆記体での板書だった。ブロック体への要望があったことは知っていたが変えることはなかった。その変化も生徒は見ているようだった。「先生のブロック体は筆記体に近い」と言っていたけれども、「先生も努力しているんだ」とも言っていた。生徒とともに勉強しながら教えて、進学校の授業指導を確立したのが最初の3年間だと言えると思う。
4年目(2002年)は、1年生の授業を持つ予定でいたが、2学年所属になった。この学年は、英語科のAさんが学年主任だった。私が教科・英語の責任を持つことになった。この学校の英語では、シラバスの言葉を使って、2年、3年で希望による習熟度別授業を行っていた。文系3クラスを4集団、理系3クラスを4集団にして、シラバス1が上位者向き、シラバス2(2クラス)で普通レベル向き、シラバス3が基礎向きに分けて希望を取って、授業集団を作って授業を行い、シラバス1にはプラス教材を与えていた。定期試験は、シラバス3の進度に合わせた。私は文系シラバス1と理系シラバス3の授業を担当し、Aさんには理系シラバス1と文系シラバス3を担当してもらい、シラバス2は、他学年の教員に担当してもらった。私は、この学年の文系シラバス1の2年間の英語の授業が印象深い。3人の優秀な男子生徒がいた。彼らは、御殿場南中学の出身で、沼津東高校に入れた生徒である。Yは努力家で学習時間が長く、睡眠時間を減らして勉強するような生徒であった。Oは頭が良いが、努力に不足していた。Nは目立つタイプの印象はないが努力家である。三者三様で個性的であった。彼らが中心になって集団の雰囲気を作っていた。私は、余談・雑談を入れながら、前の学年で使った、フレーズリーディングの方法と、音読を重視した授業を行った。この集団にはレベルの高い余談を入れたとの印象が残っている。もちろん教材と関連した余談であったが、特に、人生、言語、文化、教育、社会に関しては、私の物の見方や、考え方を話したと思う。自然科学系の文章への余談をすることはできなかったのが事実である。他のクラス集団の生徒が教室に戻ってきた時に、入りにくい雰囲気を感じたと私に言った生徒がいるが、その言葉が的を射ている表現である。なかなか緊張感のある楽しい授業であった。
シラバスの授業反省記録(2003年度)が残っているので、記しておく。
<文系シラバス1>
「生徒は、意欲的に授業に取り組み、授業態度・反応もよく、多少緊張感を伴う楽しくわかりやすい授業がほぼ達成できたと評価している。この点で、生徒との温度差は少ないとアンケートの結果から感じている。満足できない点は、このレベルの生徒でも家庭での学習が不足していることである。前期は教科書を中心に速く正確に読むことを目標に、文章の概要を段落ごとに把握することに力点を置き授業を進めた。そのための補助としてプリントを作成し予習に活用させた。授業では、語彙・構文・語法・文法などを必要に応じて説明し、仕上げに音読をした。楽しく授業ができたとの印象が強い。後期はセンター対策の授業が中心になったと言える。そのため予習を前提とした授業スタイルも変化し、演習的な授業になった。テーマによっては余談として個人的な持論も伝えた。生徒は時には真剣に耳を傾けてくれ、話しやすい雰囲気であったことに感謝している。」
<理系シラバス3>
「生徒は、家庭学習が不十分で、意欲的に授業に取り組んだとは評価できない。授業態度・反応はアンケートの結果とほぼ一致していてプラスの評価60%は妥当と評価している。しかし、75%以上の生徒が授業を受けるのが楽しく、授業速度や質問にていねいに答えてくれるとの評価をしてくれている。前期は教科書の精読に力点を置き、基礎・基本を大事にわかりやすい授業を心がけた。生徒は余談として話したことを好意的に受け止めて、授業を受けるのが楽しいとの評価は嬉しいが、学力向上に結びついていないのが残念である。後期はセンター対策の授業が中心になったのは文系シラバス1と同じである。使用テキストのレベルの差はつけている。」
この学年を教えていた2003年の2月に副鼻空炎を発症して、長泉町に開院直後の静岡がんセンターの脳神経外科に行ってわかったことだが、その後地元の耳鼻科に通院し、長泉町の耳鼻科に変えて通院が続くことになった。2007年の10月に順天堂大学病院で手術をし、1週間入院した。その翌年の2008年3月が定年であった。病気と気力で戦った期間に、教師としての“醍醐味”を味わった。“天職”と感じた程である。その意味でこの学年の2年間と次の2004年に入学し、2007年に卒業した生徒には感謝の気持ちである。2004年に入学した生徒を1年、2年、3年と授業を持った生徒がゆとり教育を受けてきた学年である。この2004年の7月に毎日新聞に投稿し、掲載された文章を参考に載せる。
「今年度初めて、新教育課程で高校に入学してきた生徒を教えている。現在、私が勤務している高校は、進学校と呼ばれている2番手の学校で、『学校5日制』・『ゆとり教育』の中で、教育を受けてきた生徒たちである。よく言われていることだが、『学力の低下』は否めないとの実感を受けた。基礎・基本の理解及びその習得が不十分である。
私が教えている教科は英語だが、一例をあげると、基本動詞の活用が不正確で、そのこと自体何も感じていないようだ。オーラルコミュニケーションを重視する授業が中学でなされているようだが、そのことを否定するつもりはないが、中途半端になっているように感じる。単語にせよ、短文にせよ、書かせてみると、基礎力が定着していないことが歴然としている。だが、私の教えている生徒たちは、姿勢は受身だが、素直でまじめな性格のよい生徒たちである。生徒との触れ合いがとても楽しい。生徒の潜在能力は低下していない。教育は『人を育てる』のが目的である。一面的な視点ではなく、全体的な視点で、子どもたちの成長を育むのが教育の使命であると私は思う。」
この生徒たちを3年間教えたのだ。3年間の教材選定から、補習計画、シラバスの指導等英語科の責任担当が私である。同学年で英語を担当したのが、OさんとTさんである。3人とも50代であった。私にとって持ち上がって教えた最後の学年の生徒だけに思い出が深いのである。1年の夏休みには、シラバスの中核を育てる意味で、10段階の成績で8以上の生徒を指定し募集して夏季補習を行ったのである。一部の保護者から上位の生徒だけを補習したとの苦情があったことを聞いたが、それは誤解である。その生徒以外の補習も行ったのである。担当者が私ではなかったということである。この学年が2年の時に、私は、文系シラバス1と理系シラバス3の授業を担当し、3年次も引き続き同じシラバスを担当した。この文系シラバス1は、2002年に持ったシラバス1とは雰囲気が全く違うものだった。中心が女子生徒だったのが特徴であった。挨拶の号令をかけたり、教科係を自主的に勤めた3人の生徒の印象が強く残っているのだ。A子と2人のY子である。このシラバス1の生徒たちが卒業次にくれた色紙は、パソコンに打ち込み印刷して保存してある。この3人の生徒は、1年後の私の定年の時に来てくれた。またシラバス3の男子も2人来てくれた。有り難く思っている。付記しておくと、この学年の生徒が、私のことを「相ちゃん」と呼んでいたのは、私の教員生活で、最初で最後の経験でもある。生徒が親しみを込めて呼んでいたので、暗黙の了解をしていた。またこの時期も、私の体調も決して良くはなかったのも事実である。しかし、私の教師生活で、体調が充分ではないけれども、気持ちにゆとりがあり、最も楽しかった3年間であることも事実である。2006年度の反省記録を記しておく。
<文系シラバス1>
「生徒は、意欲的に授業に取り組み、授業態度・反応もよく、英語Ⅱと2名を除いて継続
した結果、やや緊張感に欠けるが、楽しくわかりやすい授業がほぼ達成できたと評価して
いる。この点で、生徒との温度差は少ないとアンケートの結果から感じている。満足でき
ない点は、このレベルの生徒でも家庭での学習が不足していることである。前期は教科書
を中心に速く正確に読むことを目標に、文章の概要を段落ごとに把握することに力点を置
きフレーズリーディングの授業を進めた。そのための補助としてプリントを作成し予習に
活用させた。授業では、語彙・構文・語法・文法などを必要に応じて説明し、仕上げに音
読をした。楽しく授業ができたとの印象が強い。後期はセンター対策の授業が中心になっ
たと言える。そのため、演習的な授業が中心になった。テーマによっては余談として個人
的な持論も伝えた。生徒は時には真剣に耳を傾けてくれ、授業が楽しかったとの感想が多
かった。」
<理系シラバス3>
「生徒は、家庭学習が不十分で、意欲的に授業に取り組んだとは言えないが、比較的真面目に授業を受けてくれたと感じている。授業態度・反応はアンケートの結果とほぼ一致していて、プラスの評価約65%は妥当と評価している。しかし、80%弱の生徒が授業を受けるのが楽しく、85%を超える生徒が質問できることや質問にていねいに答えてくれるとの評価をしてくれている。前期は教科書の精読に力点を置き、基礎・基本を大事にわかりやすい授業を心がけた。生徒は余談として話したことを好意的に受け止めて、授業を受けるのが楽しいとの評価は嬉しいが、学力向上に結びついていないのが残念である。後期はセンター対策の授業が中心になったのは文系シラバス1と同じである。」
2004年に英文法対話をまとめることになった。そのことを当時の研究紀要に載せた一部を記しておく。
「私は長い間、『対話型の授業』を理想としてきた。実際の授業では、それを実現できないまま、今まで30年以上授業をやってきた。1クラス40人では、物理的には不可能だが、気持だけは、そのような授業展開をすべく努力してきたと思っている。現在、英語教師としての総仕上げとして、『対話形式による英文法解説』に取り組んでいる。完成するまでには、時間が相当かかると、覚悟はしているが、是非完成するまで続けたいと思っている。この研究紀要では、その一部を紹介しようと思う。まず初めに、高校英語への導入部分となる「英語の基礎・英語のしくみ」についてである。次に、生徒が苦手とし、教え、定着させることが難しい文法項目である「準動詞」についてである。私は、長年この分野を生徒にいかにわかりやすく教え、解説するかを一つのテーマにしてきた。この私案がこの「英文法対話」である。不定詞・動名詞・分詞について、高校生が習得すべき事柄のエッセンスを解説したものである。もちろん、生徒のために書いているので、生徒にはプリントとして配布し、教えることを目的にしているものである。最近の若い先生の中には、文法を教えるのを苦手にしている傾向が見られる。そのような先生にも少しでも参考になれば、私は嬉しい。」
私の授業リーディングの特徴であるフレーズリーディングの参考例を一つ記しておく。
「言語と思考」がテーマの英文を読んだ時のものである。
言語と思考との関係は/多くの思索家に関心をもたせてきた/長い間。
一般的には一致している/言語は私たちの考えを反映していることが。すなわち/私たちが生活の中で何かをとても大切だと考える時/私たちはよく言語における細かい区別をする。この区別で最もよく知られている例の一つが/アラビア語に見られる/そのアラビア語には「ラクダ」を意味する多くの単語がある。この観点からすれば/驚くことではない/日本語にお米を表すいろいろな単語があることは/例えばコメ、イネ、モミ、ゴハンやライスのような。
しかし/あなたは信じますか/言語は私たちの思考を支配したり、決定できることを。この考え方は提唱された/二人の有名な言語学者ベンジャミンリーウォーフジュニアとエドワードサピアによって。二人は提案した/言語は使われているのではない/ただ報告したり、話すためにだけ。二人の説によれば/言語は私たちの思考を限定する。言い換えると/言語はコミュニケーションの手段や文化の反映だけではなくて/思考の道具である。
この言語観は/サピア=ウォーフ仮説と呼ばれていて/よくたとえられる/一個の色眼鏡に。眼鏡が赤ければ/人が見るものすべてが/かなり赤く思える。このある出来事の視覚が/違ってくる/人の視覚とは/青の眼鏡や他の色の眼鏡をかけている。
この仮説によれば/日本語を話す人と英語を話す人が/同じ出来事を見れば/彼らはそれについて別々に考えるでしょう。例えば/あなたならどのように次の文を日本語に訳しますか。My sister went to Tokyo. たぶんあなたはつぎのようなことを考えついたでしょう/「妹は東京へ行きました」。大切なことは単語です/あなたがmy sisterを訳すために使った。あなたは妹か姉のどちらを使いましたか。
サピア=ウォーフ仮説を支持する人なら言うでしょう/この例は思考様式の違いをあらわしていると/英語と日本語における。英語を話す人は兄弟・姉妹を分類する/男か女であるとして/しかもそれだけである。もう一方/日本語を話す人は/兄弟・姉妹を男であるか女であるかを分類するだけではなく/歳が下であるか上であるかを分ける。このことは表している/年齢の上下の違いは重要ではない/英語においてほとんどの場合/そしてこの特色が影響を与えている/英語を話す人の現実への考え方や見方に。
驚きではありませんか/人々は言語の違いで考え方が違うならば。あなたはこの理論を事実だと思いますか。他の例を考えてみましょう。(次が和訳文である。)
多くの思索家は、長い間、言語と思考との関係に関心をもってきた。言語が私たちの考えを反映していることは、一般的には一致している。すなわち、私たちが生活の中で、何かをとても大切だと考える時、私たちはよく言語において細かい区別をする。
この区別で最もよく知られている例の一つが、アラビア語に見られ、そのアラビア語には「ラクダ」を意味する多くの単語がある。この観点からすれば、日本語にお米を表すいろいろな単語、例えばコメ、イネ、モミ、ゴハンやライスのような単語があることは驚くことではない。
しかし、言語は、私たちの思考を支配し、決定できることを信じますか。この考え方は、二人の有名な言語学者ベンジャミンリーウォーフジュニアとエドワードサピアによって提唱された。二人の学者は、言語はただ報告し、話すためにだけ使われているのではないことを提唱した。二人の説によれば、言語は私たちの思考を限定する。言い換えると、言語は、コミュニケーションの手段や文化の反映だけではなくて、思考の道具である。
この言語観は、サピア=ウォーフ仮説と呼ばれていて、一個の色眼鏡によくたとえられる。眼鏡が赤ければ、人が見るものすべてが、かなり赤く思える。このある出来事の視覚は、青の眼鏡や他の色の眼鏡をかけている人の視覚とは違ってくる。
この仮説によれば、日本語を話す人と英語を話す人が、同じ出来事を見ても、別々に考えるでしょう。例えば、あなたなら、どのように次の文を日本語に訳しますか。My sister went to Tokyo. たぶん、あなたはつぎのようなことを考えついたでしょう:「妹は東京へ行きました」。大切なことは、あなたがmy sisterを訳すために使った単語です。あなたは妹か姉のどちらを使いましたか。
サピア=ウォーフ仮説を支持する人なら、この例は、英語と日本語における思考様式の違いを表していると言うでしょう。英語を話す人は、兄弟・姉妹を男か女として分類する。しかもそれだけである。もう一方、日本語を話す人は、兄弟・姉妹を男であるか女であるかを分類するだけではなく、歳が下であるか上であるかを分ける。このことは、英語においてほとんどの場合、年齢の上下の違いは重要ではないことを表している。そして、この特色が、英語を話す人の現実への考え方や見方に影響を与えている。
人々は言語の違いで考え方が違うとすれば、驚きではありませんか。あなたはこの理論
を事実だと思いますか。他の例を考えてみましょう。(日本語訳:相川)
この学校でも図書課長として、学校運営に関わり、必要な意見は主張して来たつもりだ。
学校の前期・後期の2期生(この頃のはやりのようなもので、現在は3学期制に戻っている方が多い)の議論もした。学校の在り方の提案も行った。学校の変革期にさしかかっていただけに色々意見を求められたと記憶している。図書課でもパソコン管理の提案も行ってきた。今では全ての学校で行われていることだが、パソコン管理が行われるようになったのは、私がこの学校を再任用で転出してからだと思うが、はっきりとした記憶ではない。時代がパソコンにシフトして行くのである。私は最後の学年の生徒に授業の中で、「これからのグローバルな情報時代は、パソコンと英語が道具として使われる時代になる」と言った記憶がある。教育の世界も遅ればせながらパソコンによる情報管理と報告書類が多くなり、教員が多忙化して行ったことは皮肉な結果だと思っている。便利な道具が、事務の合理化だけではなく、それを扱う人間を多忙にしたのである。ここでも図書課長の時に書いた文章の一部を載せる。
「私は、長い間『自分らしく』をテーマに、教師である前に、一人の人間として、生徒と接してきたつもりである。私は、生来不器用な人間なので、自分に正直に、自分らしく生きることを信条として、『信頼』をキーワードに、30年を越える教師生活を送ってきた。この道を歩いてきたことに後悔はない。私は人間が好きで、生徒との人間同志の触れ合いを求めて、教師の世界に入った。その他の点では、ネガティブな理由で、職業の選択をしたと言える。具体的に言えば、利益を追求し、立身出世を競う実業社会には向かない。生産・販売・営業の仕事には向かない。デスクワークの事務的な仕事や、役所の仕事には向かない。研究者・専門職としての能力がない。創造的な仕事をする才能がない等である。他の職業についていたら、どうなったであろうか。だが、そんなことは一度も考えたこともない。どこの世界でも、自分の思うようにはいかないし、それなりの困難や苦労がある。喜びもあれば、悲しみもある。自分の前にも、自分自身の中にも、乗り越え難い壁がある。その壁に挑戦する勇気を心の中に持ち続け、日々努力する人間でありたいと思う。私は、生徒の笑顔・真剣な眼差しを心の支えに、私を必要としてくれる生徒がいると固く信じて、今までやってきた。『自分らしく』やってこられたことに、私のプライドと喜びがある。自分らしくは、自分勝手であってはならない。あくまでも、自分を信じて、自分の長所を伸ばすことである。そのためにも、良い本を読み、物の見方・考え方を『自分なりに』身につける必要があると思う。読書は「思考の世界」だと、私は思っている。良書は自分の思考を映し出し、促す鏡と言える。良書は人生の友である。」
最後に部活の囲碁について触れておく、私の趣味の囲碁で3年間教えた男子生徒がいる。
その生徒たちが、富士宮西高校で行われた地区の予選会に出たことが一番の思い出になっている。その後3年間女子生徒が3人入部してくれて、私が定年まで囲碁・将棋部の顧問をすることができた。その中で、K子は、私が定年の年に英語を教えた最後の生徒である。その生徒たちも地区大会に出させたかったが、それは果たせなかった。顧問の記録として、図書課長として書いた文章を載せておく。
「ヒカルの碁」の世界 図書課長 相川 隆(2003年)
私は, 趣味で囲碁を楽しんでいる。昨年,1年生(現在2年)が4人, 囲碁・将棋部に入ってきた。私は生徒に囲碁を教えたいと思っていたので, その生徒たちに囲碁を覚える気があるかどうかと聞いたら, 覚えたいとの返事があった。それで私は囲碁の簡単なルールと石の取り方から教えることにした。生徒たちも平日の放課後毎日熱心に努力し, 今年の5月には, 全国高校囲碁選手権大会の東部地区予選会に, 団体戦・個人戦の両方に初出場を果たした。結果は団体戦・個人戦共に1回戦で敗退したが, 生徒にはとてもいい経験になったと思っている。漫画「ヒカルの碁」が子どもたちに人気があって, 中には囲碁を学ぶ子どもが出ているということを耳にして, なぜかとの疑問を抱いた。囲碁のルールは簡単だけれども, ゲームはなかなか難しいので, なじみにくい特性がある。しかし, いったん覚えてしまえば, 感性豊かで知的なとても楽しいゲームだとわかる。コンピュータが人間に勝つことができないゲームである。その疑問を解決するために, 生徒に尋ねたところ, 1人の生徒が漫画「ヒカルの碁」を貸してくれた。私は漫画に対しては否定的なタイプにもかかわらず, この漫画を読み始めた。読んでみると, 実におもしろく引き込まれてしまった。
簡単に「ヒカルの碁」のストーリーを紹介する。囲碁は, 平安時代に中国から伝わったと言われている。枕の草子の作者で有名な清少納言も碁を打っていたそうだ。その平安時代に, 宮廷で碁の師範をしていた天才棋士・藤原佐為の霊が, ヒカルのおじいさんの家の蔵のなかにあった古い碁盤に宿っていた。ヒカルがその碁盤を手にした瞬間, 佐為の霊がヒカルの意識の中に入り込んだ。碁を心から愛する佐為と出会うところから物語が始まる。ヒカルは最初, 碁に対する興味は全くなかったが, 佐為に引っ張られるようにして碁の世界へと入っていく。そこで生涯のライバルとなる, 名人を父に持つ天才少年・塔矢アキラと出会う。二人はお互いを意識し, 良きライバルとして切磋琢磨しながら成長していく過程が実によく描かれている。この物語は人が成長していく過程で大切なものは何かを考えさせてくれると思う。人は一人では成長することはできない。人と人との関わりの中でこそ人は成長するものだと私は考えている。このような精神性を感じ取れるストーリー展開である。ヒカルを碁の世界へと導く友やその周囲の人たちに励まされ後押しされて, ヒカルはプロの世界へと入っていくのである。プロの世界は勝負の世界である。勝負は競り合ってこそおもしろい。人はよきライバルがいてこそ光り輝いてくる。ヒカルとアキラは相手に負けたくないとの思い抱きながら, お互いに相手の才能を認め合い・刺激を与え合い・高め合いながら,頂点に向かって努力精進していくのである。この精神性がこの物語の中心をなしているのである。単純なストーリーではあるが, 夢があり希望があり, なによりも向上心がある。向上していく過程で立ちふさがる厚い壁に挑戦し乗り越えようとする勇気が感じ取れるのである。囲碁を知らない人にとっては, 読んで理解しにくい言葉が出ていると思うが, 楽しく元気の出る物語である。この漫画は実際に多くのプロの棋士も読んでいるようです。美人のプロの女流棋士が監修しており, 碁に関する内容は事実に基づいている。私はこの漫画を通して, 現時点での囲碁の世界的状況(特に韓国と中国)を知ることができ, インターネットで碁が打てることを知ったのです。私の友人にインターネットのサポートをしてもらい、私は、現在ネット碁を楽しんでいる。
以上書いてきたことが私の定年までの記録である。定年後は再任用教諭として週20時間勤務を御殿場南高校で1年、沼津城北高校で3年教壇に立っていた事実があるだけだ。4年間の再任用は、実質的には非常勤講師と変わらないものだった。平成24年(2012年)に退職し教壇を降りた。
私の趣味について触れると、50歳前後から御殿場南高校在籍の期間は、ボーリングが最大の趣味と言えるだろう。授業でボーリングの話しをして、1時間の授業を使ってしまったことがある。生徒に仕向けられたのだが、それに乗じてボーリングとはどんなスポーツなのかを、アマチュアボーラーとしての視点から話しをしたことを記憶している。その時に、一人の真面目な男子生徒が、授業の進度が心配であるようなことを言っていた。その辺の進度調節はうまくやっていたと思うが、そのことが分かる生徒もいた。私はよくボーリング場主催の夜の大会に出ていた。御殿場と裾野のボーリング場で、時には柿田川のボーリング場にも出かけて行った。また県の大会で、浜松や静岡へ行ったこともある。私の大会でのアベレージは、180点台であった。プロとの3ゲーム戦では、勝ったこともある。3ゲームの最高得点は、705点で、アベレージが235点を記録したことがある。2008年の定年の頃は、W君とペアでダブルスリーグに参加していた程度になった。2009年の入院を境に大会から引退した。
私の生活面でのことでは、副鼻空炎の発症(2003年)から手術(2007年)まで及びその後の経過の状況があまりよくなくて苦しんだこと。2007年の12月に初孫の
翔が生まれたこと。2009年の5月に前立腺炎から敗血症になり入院したこと。2010年の2月に2人目の孫・煌が生まれ、最初の女の子になったことが印象深い出来事である。2010年の1月に最初の人生の記憶を高校まで書いて生徒に配布した。この反響は大きくこの生徒たちに伝えられたただ一つのことだと思っている。2009年からの沼津城北高校では、何とか再任用が終了するまで、教壇に立って頑張ったことしか記憶に残っていないのが事実である。この3年間も体調が良くなかった。前述したが、平成24年(2012年)3月に退職した。私は自分の教員人生には満足している。「試行錯誤」の繰り返しの中で、自分で考え、自分で判断し行動した教員生活であった。生徒が成長して行く過程で、触れ合う時間を共有でき、何らかの思い出を刻む一助になればとの思いで、生徒との触れ合いを求めたのが私の教員人生である。
最初の3年間は、副担任であるが、1年、2年、3年と持ち上がり、授業方法を工夫改善した時期である。この時期は、教員になってから一番勉強したかもしれない。前任校では、ゆったりした時間を過ごしたために、勉強がおろそかになっていた。そのために勉強し教えることで忙しい日々を送ったとの記憶が強い。この学校では、三島南高校までの同僚との麻雀の人間関係はほとんどない。前任の御殿場高校の最初の2・3年ぐらいで最後になったとの記憶があるくらいだ。教員を取り巻く社会状況も変化し、横のつながりはどんどん希薄になって行ったように思う。この学校でのプライベートな付き合いは、転任してから2・3回、英語科のTさんの関係で誘われて遊んだ記憶がある程度だ。英語科の研究室では、同世代のAさんや女子教員のTさん、私の息子の世代の、F君やM子さんとはよく話しをしたと記憶しているが、他の教科の人とはあまり話しをしていない。私は、職員室にはほとんどいたことがない、図書課長をしている時でも、図書室にいることはほとんどなかったくらいだ。空き時間は、英語科のパソコンでプリントを作っていたとの記憶だ。一台は、私専用のパソコンになっていた。
私の授業で工夫したことは、私の英文法対話の中の英文の読み方で書いたフレーズリーディングを導入したことだ。英語をフレーズ(語句のまとまり)ごとに読み下す方法で、生徒に斜線を入れるように指示してその読み方に慣らせる方法を取った。またそのフレーズごとに意味を捉え、音読することを重視した。プリントを作って分かりやすい授業を心がけたつもりだ。教科書及び教材のレベルが高くなっているので、自分が消化していないと教えることはできない。私は教師用のマニュアルは、参考程度に見ることはあっても、利用することはなかった。定期試験の問題作りで、応用長文は内容のあるものを選んで出題した。生徒は敏感で、その長文問題を楽しみにしている生徒もいたくらいだ。また、2年目になって初めてブロック体で板書するようになった。それまでの教師生活はすべて筆記体での板書だった。ブロック体への要望があったことは知っていたが変えることはなかった。その変化も生徒は見ているようだった。「先生のブロック体は筆記体に近い」と言っていたけれども、「先生も努力しているんだ」とも言っていた。生徒とともに勉強しながら教えて、進学校の授業指導を確立したのが最初の3年間だと言えると思う。
4年目(2002年)は、1年生の授業を持つ予定でいたが、2学年所属になった。この学年は、英語科のAさんが学年主任だった。私が教科・英語の責任を持つことになった。この学校の英語では、シラバスの言葉を使って、2年、3年で希望による習熟度別授業を行っていた。文系3クラスを4集団、理系3クラスを4集団にして、シラバス1が上位者向き、シラバス2(2クラス)で普通レベル向き、シラバス3が基礎向きに分けて希望を取って、授業集団を作って授業を行い、シラバス1にはプラス教材を与えていた。定期試験は、シラバス3の進度に合わせた。私は文系シラバス1と理系シラバス3の授業を担当し、Aさんには理系シラバス1と文系シラバス3を担当してもらい、シラバス2は、他学年の教員に担当してもらった。私は、この学年の文系シラバス1の2年間の英語の授業が印象深い。3人の優秀な男子生徒がいた。彼らは、御殿場南中学の出身で、沼津東高校に入れた生徒である。Yは努力家で学習時間が長く、睡眠時間を減らして勉強するような生徒であった。Oは頭が良いが、努力に不足していた。Nは目立つタイプの印象はないが努力家である。三者三様で個性的であった。彼らが中心になって集団の雰囲気を作っていた。私は、余談・雑談を入れながら、前の学年で使った、フレーズリーディングの方法と、音読を重視した授業を行った。この集団にはレベルの高い余談を入れたとの印象が残っている。もちろん教材と関連した余談であったが、特に、人生、言語、文化、教育、社会に関しては、私の物の見方や、考え方を話したと思う。自然科学系の文章への余談をすることはできなかったのが事実である。他のクラス集団の生徒が教室に戻ってきた時に、入りにくい雰囲気を感じたと私に言った生徒がいるが、その言葉が的を射ている表現である。なかなか緊張感のある楽しい授業であった。
シラバスの授業反省記録(2003年度)が残っているので、記しておく。
<文系シラバス1>
「生徒は、意欲的に授業に取り組み、授業態度・反応もよく、多少緊張感を伴う楽しくわかりやすい授業がほぼ達成できたと評価している。この点で、生徒との温度差は少ないとアンケートの結果から感じている。満足できない点は、このレベルの生徒でも家庭での学習が不足していることである。前期は教科書を中心に速く正確に読むことを目標に、文章の概要を段落ごとに把握することに力点を置き授業を進めた。そのための補助としてプリントを作成し予習に活用させた。授業では、語彙・構文・語法・文法などを必要に応じて説明し、仕上げに音読をした。楽しく授業ができたとの印象が強い。後期はセンター対策の授業が中心になったと言える。そのため予習を前提とした授業スタイルも変化し、演習的な授業になった。テーマによっては余談として個人的な持論も伝えた。生徒は時には真剣に耳を傾けてくれ、話しやすい雰囲気であったことに感謝している。」
<理系シラバス3>
「生徒は、家庭学習が不十分で、意欲的に授業に取り組んだとは評価できない。授業態度・反応はアンケートの結果とほぼ一致していてプラスの評価60%は妥当と評価している。しかし、75%以上の生徒が授業を受けるのが楽しく、授業速度や質問にていねいに答えてくれるとの評価をしてくれている。前期は教科書の精読に力点を置き、基礎・基本を大事にわかりやすい授業を心がけた。生徒は余談として話したことを好意的に受け止めて、授業を受けるのが楽しいとの評価は嬉しいが、学力向上に結びついていないのが残念である。後期はセンター対策の授業が中心になったのは文系シラバス1と同じである。使用テキストのレベルの差はつけている。」
この学年を教えていた2003年の2月に副鼻空炎を発症して、長泉町に開院直後の静岡がんセンターの脳神経外科に行ってわかったことだが、その後地元の耳鼻科に通院し、長泉町の耳鼻科に変えて通院が続くことになった。2007年の10月に順天堂大学病院で手術をし、1週間入院した。その翌年の2008年3月が定年であった。病気と気力で戦った期間に、教師としての“醍醐味”を味わった。“天職”と感じた程である。その意味でこの学年の2年間と次の2004年に入学し、2007年に卒業した生徒には感謝の気持ちである。2004年に入学した生徒を1年、2年、3年と授業を持った生徒がゆとり教育を受けてきた学年である。この2004年の7月に毎日新聞に投稿し、掲載された文章を参考に載せる。
「今年度初めて、新教育課程で高校に入学してきた生徒を教えている。現在、私が勤務している高校は、進学校と呼ばれている2番手の学校で、『学校5日制』・『ゆとり教育』の中で、教育を受けてきた生徒たちである。よく言われていることだが、『学力の低下』は否めないとの実感を受けた。基礎・基本の理解及びその習得が不十分である。
私が教えている教科は英語だが、一例をあげると、基本動詞の活用が不正確で、そのこと自体何も感じていないようだ。オーラルコミュニケーションを重視する授業が中学でなされているようだが、そのことを否定するつもりはないが、中途半端になっているように感じる。単語にせよ、短文にせよ、書かせてみると、基礎力が定着していないことが歴然としている。だが、私の教えている生徒たちは、姿勢は受身だが、素直でまじめな性格のよい生徒たちである。生徒との触れ合いがとても楽しい。生徒の潜在能力は低下していない。教育は『人を育てる』のが目的である。一面的な視点ではなく、全体的な視点で、子どもたちの成長を育むのが教育の使命であると私は思う。」
この生徒たちを3年間教えたのだ。3年間の教材選定から、補習計画、シラバスの指導等英語科の責任担当が私である。同学年で英語を担当したのが、OさんとTさんである。3人とも50代であった。私にとって持ち上がって教えた最後の学年の生徒だけに思い出が深いのである。1年の夏休みには、シラバスの中核を育てる意味で、10段階の成績で8以上の生徒を指定し募集して夏季補習を行ったのである。一部の保護者から上位の生徒だけを補習したとの苦情があったことを聞いたが、それは誤解である。その生徒以外の補習も行ったのである。担当者が私ではなかったということである。この学年が2年の時に、私は、文系シラバス1と理系シラバス3の授業を担当し、3年次も引き続き同じシラバスを担当した。この文系シラバス1は、2002年に持ったシラバス1とは雰囲気が全く違うものだった。中心が女子生徒だったのが特徴であった。挨拶の号令をかけたり、教科係を自主的に勤めた3人の生徒の印象が強く残っているのだ。A子と2人のY子である。このシラバス1の生徒たちが卒業次にくれた色紙は、パソコンに打ち込み印刷して保存してある。この3人の生徒は、1年後の私の定年の時に来てくれた。またシラバス3の男子も2人来てくれた。有り難く思っている。付記しておくと、この学年の生徒が、私のことを「相ちゃん」と呼んでいたのは、私の教員生活で、最初で最後の経験でもある。生徒が親しみを込めて呼んでいたので、暗黙の了解をしていた。またこの時期も、私の体調も決して良くはなかったのも事実である。しかし、私の教師生活で、体調が充分ではないけれども、気持ちにゆとりがあり、最も楽しかった3年間であることも事実である。2006年度の反省記録を記しておく。
<文系シラバス1>
「生徒は、意欲的に授業に取り組み、授業態度・反応もよく、英語Ⅱと2名を除いて継続
した結果、やや緊張感に欠けるが、楽しくわかりやすい授業がほぼ達成できたと評価して
いる。この点で、生徒との温度差は少ないとアンケートの結果から感じている。満足でき
ない点は、このレベルの生徒でも家庭での学習が不足していることである。前期は教科書
を中心に速く正確に読むことを目標に、文章の概要を段落ごとに把握することに力点を置
きフレーズリーディングの授業を進めた。そのための補助としてプリントを作成し予習に
活用させた。授業では、語彙・構文・語法・文法などを必要に応じて説明し、仕上げに音
読をした。楽しく授業ができたとの印象が強い。後期はセンター対策の授業が中心になっ
たと言える。そのため、演習的な授業が中心になった。テーマによっては余談として個人
的な持論も伝えた。生徒は時には真剣に耳を傾けてくれ、授業が楽しかったとの感想が多
かった。」
<理系シラバス3>
「生徒は、家庭学習が不十分で、意欲的に授業に取り組んだとは言えないが、比較的真面目に授業を受けてくれたと感じている。授業態度・反応はアンケートの結果とほぼ一致していて、プラスの評価約65%は妥当と評価している。しかし、80%弱の生徒が授業を受けるのが楽しく、85%を超える生徒が質問できることや質問にていねいに答えてくれるとの評価をしてくれている。前期は教科書の精読に力点を置き、基礎・基本を大事にわかりやすい授業を心がけた。生徒は余談として話したことを好意的に受け止めて、授業を受けるのが楽しいとの評価は嬉しいが、学力向上に結びついていないのが残念である。後期はセンター対策の授業が中心になったのは文系シラバス1と同じである。」
2004年に英文法対話をまとめることになった。そのことを当時の研究紀要に載せた一部を記しておく。
「私は長い間、『対話型の授業』を理想としてきた。実際の授業では、それを実現できないまま、今まで30年以上授業をやってきた。1クラス40人では、物理的には不可能だが、気持だけは、そのような授業展開をすべく努力してきたと思っている。現在、英語教師としての総仕上げとして、『対話形式による英文法解説』に取り組んでいる。完成するまでには、時間が相当かかると、覚悟はしているが、是非完成するまで続けたいと思っている。この研究紀要では、その一部を紹介しようと思う。まず初めに、高校英語への導入部分となる「英語の基礎・英語のしくみ」についてである。次に、生徒が苦手とし、教え、定着させることが難しい文法項目である「準動詞」についてである。私は、長年この分野を生徒にいかにわかりやすく教え、解説するかを一つのテーマにしてきた。この私案がこの「英文法対話」である。不定詞・動名詞・分詞について、高校生が習得すべき事柄のエッセンスを解説したものである。もちろん、生徒のために書いているので、生徒にはプリントとして配布し、教えることを目的にしているものである。最近の若い先生の中には、文法を教えるのを苦手にしている傾向が見られる。そのような先生にも少しでも参考になれば、私は嬉しい。」
私の授業リーディングの特徴であるフレーズリーディングの参考例を一つ記しておく。
「言語と思考」がテーマの英文を読んだ時のものである。
言語と思考との関係は/多くの思索家に関心をもたせてきた/長い間。
一般的には一致している/言語は私たちの考えを反映していることが。すなわち/私たちが生活の中で何かをとても大切だと考える時/私たちはよく言語における細かい区別をする。この区別で最もよく知られている例の一つが/アラビア語に見られる/そのアラビア語には「ラクダ」を意味する多くの単語がある。この観点からすれば/驚くことではない/日本語にお米を表すいろいろな単語があることは/例えばコメ、イネ、モミ、ゴハンやライスのような。
しかし/あなたは信じますか/言語は私たちの思考を支配したり、決定できることを。この考え方は提唱された/二人の有名な言語学者ベンジャミンリーウォーフジュニアとエドワードサピアによって。二人は提案した/言語は使われているのではない/ただ報告したり、話すためにだけ。二人の説によれば/言語は私たちの思考を限定する。言い換えると/言語はコミュニケーションの手段や文化の反映だけではなくて/思考の道具である。
この言語観は/サピア=ウォーフ仮説と呼ばれていて/よくたとえられる/一個の色眼鏡に。眼鏡が赤ければ/人が見るものすべてが/かなり赤く思える。このある出来事の視覚が/違ってくる/人の視覚とは/青の眼鏡や他の色の眼鏡をかけている。
この仮説によれば/日本語を話す人と英語を話す人が/同じ出来事を見れば/彼らはそれについて別々に考えるでしょう。例えば/あなたならどのように次の文を日本語に訳しますか。My sister went to Tokyo. たぶんあなたはつぎのようなことを考えついたでしょう/「妹は東京へ行きました」。大切なことは単語です/あなたがmy sisterを訳すために使った。あなたは妹か姉のどちらを使いましたか。
サピア=ウォーフ仮説を支持する人なら言うでしょう/この例は思考様式の違いをあらわしていると/英語と日本語における。英語を話す人は兄弟・姉妹を分類する/男か女であるとして/しかもそれだけである。もう一方/日本語を話す人は/兄弟・姉妹を男であるか女であるかを分類するだけではなく/歳が下であるか上であるかを分ける。このことは表している/年齢の上下の違いは重要ではない/英語においてほとんどの場合/そしてこの特色が影響を与えている/英語を話す人の現実への考え方や見方に。
驚きではありませんか/人々は言語の違いで考え方が違うならば。あなたはこの理論を事実だと思いますか。他の例を考えてみましょう。(次が和訳文である。)
多くの思索家は、長い間、言語と思考との関係に関心をもってきた。言語が私たちの考えを反映していることは、一般的には一致している。すなわち、私たちが生活の中で、何かをとても大切だと考える時、私たちはよく言語において細かい区別をする。
この区別で最もよく知られている例の一つが、アラビア語に見られ、そのアラビア語には「ラクダ」を意味する多くの単語がある。この観点からすれば、日本語にお米を表すいろいろな単語、例えばコメ、イネ、モミ、ゴハンやライスのような単語があることは驚くことではない。
しかし、言語は、私たちの思考を支配し、決定できることを信じますか。この考え方は、二人の有名な言語学者ベンジャミンリーウォーフジュニアとエドワードサピアによって提唱された。二人の学者は、言語はただ報告し、話すためにだけ使われているのではないことを提唱した。二人の説によれば、言語は私たちの思考を限定する。言い換えると、言語は、コミュニケーションの手段や文化の反映だけではなくて、思考の道具である。
この言語観は、サピア=ウォーフ仮説と呼ばれていて、一個の色眼鏡によくたとえられる。眼鏡が赤ければ、人が見るものすべてが、かなり赤く思える。このある出来事の視覚は、青の眼鏡や他の色の眼鏡をかけている人の視覚とは違ってくる。
この仮説によれば、日本語を話す人と英語を話す人が、同じ出来事を見ても、別々に考えるでしょう。例えば、あなたなら、どのように次の文を日本語に訳しますか。My sister went to Tokyo. たぶん、あなたはつぎのようなことを考えついたでしょう:「妹は東京へ行きました」。大切なことは、あなたがmy sisterを訳すために使った単語です。あなたは妹か姉のどちらを使いましたか。
サピア=ウォーフ仮説を支持する人なら、この例は、英語と日本語における思考様式の違いを表していると言うでしょう。英語を話す人は、兄弟・姉妹を男か女として分類する。しかもそれだけである。もう一方、日本語を話す人は、兄弟・姉妹を男であるか女であるかを分類するだけではなく、歳が下であるか上であるかを分ける。このことは、英語においてほとんどの場合、年齢の上下の違いは重要ではないことを表している。そして、この特色が、英語を話す人の現実への考え方や見方に影響を与えている。
人々は言語の違いで考え方が違うとすれば、驚きではありませんか。あなたはこの理論
を事実だと思いますか。他の例を考えてみましょう。(日本語訳:相川)
この学校でも図書課長として、学校運営に関わり、必要な意見は主張して来たつもりだ。
学校の前期・後期の2期生(この頃のはやりのようなもので、現在は3学期制に戻っている方が多い)の議論もした。学校の在り方の提案も行った。学校の変革期にさしかかっていただけに色々意見を求められたと記憶している。図書課でもパソコン管理の提案も行ってきた。今では全ての学校で行われていることだが、パソコン管理が行われるようになったのは、私がこの学校を再任用で転出してからだと思うが、はっきりとした記憶ではない。時代がパソコンにシフトして行くのである。私は最後の学年の生徒に授業の中で、「これからのグローバルな情報時代は、パソコンと英語が道具として使われる時代になる」と言った記憶がある。教育の世界も遅ればせながらパソコンによる情報管理と報告書類が多くなり、教員が多忙化して行ったことは皮肉な結果だと思っている。便利な道具が、事務の合理化だけではなく、それを扱う人間を多忙にしたのである。ここでも図書課長の時に書いた文章の一部を載せる。
「私は、長い間『自分らしく』をテーマに、教師である前に、一人の人間として、生徒と接してきたつもりである。私は、生来不器用な人間なので、自分に正直に、自分らしく生きることを信条として、『信頼』をキーワードに、30年を越える教師生活を送ってきた。この道を歩いてきたことに後悔はない。私は人間が好きで、生徒との人間同志の触れ合いを求めて、教師の世界に入った。その他の点では、ネガティブな理由で、職業の選択をしたと言える。具体的に言えば、利益を追求し、立身出世を競う実業社会には向かない。生産・販売・営業の仕事には向かない。デスクワークの事務的な仕事や、役所の仕事には向かない。研究者・専門職としての能力がない。創造的な仕事をする才能がない等である。他の職業についていたら、どうなったであろうか。だが、そんなことは一度も考えたこともない。どこの世界でも、自分の思うようにはいかないし、それなりの困難や苦労がある。喜びもあれば、悲しみもある。自分の前にも、自分自身の中にも、乗り越え難い壁がある。その壁に挑戦する勇気を心の中に持ち続け、日々努力する人間でありたいと思う。私は、生徒の笑顔・真剣な眼差しを心の支えに、私を必要としてくれる生徒がいると固く信じて、今までやってきた。『自分らしく』やってこられたことに、私のプライドと喜びがある。自分らしくは、自分勝手であってはならない。あくまでも、自分を信じて、自分の長所を伸ばすことである。そのためにも、良い本を読み、物の見方・考え方を『自分なりに』身につける必要があると思う。読書は「思考の世界」だと、私は思っている。良書は自分の思考を映し出し、促す鏡と言える。良書は人生の友である。」
最後に部活の囲碁について触れておく、私の趣味の囲碁で3年間教えた男子生徒がいる。
その生徒たちが、富士宮西高校で行われた地区の予選会に出たことが一番の思い出になっている。その後3年間女子生徒が3人入部してくれて、私が定年まで囲碁・将棋部の顧問をすることができた。その中で、K子は、私が定年の年に英語を教えた最後の生徒である。その生徒たちも地区大会に出させたかったが、それは果たせなかった。顧問の記録として、図書課長として書いた文章を載せておく。
「ヒカルの碁」の世界 図書課長 相川 隆(2003年)
私は, 趣味で囲碁を楽しんでいる。昨年,1年生(現在2年)が4人, 囲碁・将棋部に入ってきた。私は生徒に囲碁を教えたいと思っていたので, その生徒たちに囲碁を覚える気があるかどうかと聞いたら, 覚えたいとの返事があった。それで私は囲碁の簡単なルールと石の取り方から教えることにした。生徒たちも平日の放課後毎日熱心に努力し, 今年の5月には, 全国高校囲碁選手権大会の東部地区予選会に, 団体戦・個人戦の両方に初出場を果たした。結果は団体戦・個人戦共に1回戦で敗退したが, 生徒にはとてもいい経験になったと思っている。漫画「ヒカルの碁」が子どもたちに人気があって, 中には囲碁を学ぶ子どもが出ているということを耳にして, なぜかとの疑問を抱いた。囲碁のルールは簡単だけれども, ゲームはなかなか難しいので, なじみにくい特性がある。しかし, いったん覚えてしまえば, 感性豊かで知的なとても楽しいゲームだとわかる。コンピュータが人間に勝つことができないゲームである。その疑問を解決するために, 生徒に尋ねたところ, 1人の生徒が漫画「ヒカルの碁」を貸してくれた。私は漫画に対しては否定的なタイプにもかかわらず, この漫画を読み始めた。読んでみると, 実におもしろく引き込まれてしまった。
簡単に「ヒカルの碁」のストーリーを紹介する。囲碁は, 平安時代に中国から伝わったと言われている。枕の草子の作者で有名な清少納言も碁を打っていたそうだ。その平安時代に, 宮廷で碁の師範をしていた天才棋士・藤原佐為の霊が, ヒカルのおじいさんの家の蔵のなかにあった古い碁盤に宿っていた。ヒカルがその碁盤を手にした瞬間, 佐為の霊がヒカルの意識の中に入り込んだ。碁を心から愛する佐為と出会うところから物語が始まる。ヒカルは最初, 碁に対する興味は全くなかったが, 佐為に引っ張られるようにして碁の世界へと入っていく。そこで生涯のライバルとなる, 名人を父に持つ天才少年・塔矢アキラと出会う。二人はお互いを意識し, 良きライバルとして切磋琢磨しながら成長していく過程が実によく描かれている。この物語は人が成長していく過程で大切なものは何かを考えさせてくれると思う。人は一人では成長することはできない。人と人との関わりの中でこそ人は成長するものだと私は考えている。このような精神性を感じ取れるストーリー展開である。ヒカルを碁の世界へと導く友やその周囲の人たちに励まされ後押しされて, ヒカルはプロの世界へと入っていくのである。プロの世界は勝負の世界である。勝負は競り合ってこそおもしろい。人はよきライバルがいてこそ光り輝いてくる。ヒカルとアキラは相手に負けたくないとの思い抱きながら, お互いに相手の才能を認め合い・刺激を与え合い・高め合いながら,頂点に向かって努力精進していくのである。この精神性がこの物語の中心をなしているのである。単純なストーリーではあるが, 夢があり希望があり, なによりも向上心がある。向上していく過程で立ちふさがる厚い壁に挑戦し乗り越えようとする勇気が感じ取れるのである。囲碁を知らない人にとっては, 読んで理解しにくい言葉が出ていると思うが, 楽しく元気の出る物語である。この漫画は実際に多くのプロの棋士も読んでいるようです。美人のプロの女流棋士が監修しており, 碁に関する内容は事実に基づいている。私はこの漫画を通して, 現時点での囲碁の世界的状況(特に韓国と中国)を知ることができ, インターネットで碁が打てることを知ったのです。私の友人にインターネットのサポートをしてもらい、私は、現在ネット碁を楽しんでいる。
以上書いてきたことが私の定年までの記録である。定年後は再任用教諭として週20時間勤務を御殿場南高校で1年、沼津城北高校で3年教壇に立っていた事実があるだけだ。4年間の再任用は、実質的には非常勤講師と変わらないものだった。平成24年(2012年)に退職し教壇を降りた。
私の趣味について触れると、50歳前後から御殿場南高校在籍の期間は、ボーリングが最大の趣味と言えるだろう。授業でボーリングの話しをして、1時間の授業を使ってしまったことがある。生徒に仕向けられたのだが、それに乗じてボーリングとはどんなスポーツなのかを、アマチュアボーラーとしての視点から話しをしたことを記憶している。その時に、一人の真面目な男子生徒が、授業の進度が心配であるようなことを言っていた。その辺の進度調節はうまくやっていたと思うが、そのことが分かる生徒もいた。私はよくボーリング場主催の夜の大会に出ていた。御殿場と裾野のボーリング場で、時には柿田川のボーリング場にも出かけて行った。また県の大会で、浜松や静岡へ行ったこともある。私の大会でのアベレージは、180点台であった。プロとの3ゲーム戦では、勝ったこともある。3ゲームの最高得点は、705点で、アベレージが235点を記録したことがある。2008年の定年の頃は、W君とペアでダブルスリーグに参加していた程度になった。2009年の入院を境に大会から引退した。
私の生活面でのことでは、副鼻空炎の発症(2003年)から手術(2007年)まで及びその後の経過の状況があまりよくなくて苦しんだこと。2007年の12月に初孫の
翔が生まれたこと。2009年の5月に前立腺炎から敗血症になり入院したこと。2010年の2月に2人目の孫・煌が生まれ、最初の女の子になったことが印象深い出来事である。2010年の1月に最初の人生の記憶を高校まで書いて生徒に配布した。この反響は大きくこの生徒たちに伝えられたただ一つのことだと思っている。2009年からの沼津城北高校では、何とか再任用が終了するまで、教壇に立って頑張ったことしか記憶に残っていないのが事実である。この3年間も体調が良くなかった。前述したが、平成24年(2012年)3月に退職した。私は自分の教員人生には満足している。「試行錯誤」の繰り返しの中で、自分で考え、自分で判断し行動した教員生活であった。生徒が成長して行く過程で、触れ合う時間を共有でき、何らかの思い出を刻む一助になればとの思いで、生徒との触れ合いを求めたのが私の教員人生である。