私の3校目は三島南高校である。1982年(昭和57年)から1992年(平成4年)の10年間勤務した。三島では、古い木造の校長住宅に住むことになった。空いていたので、住むように言われたのだが。一軒家の庭付きの住宅である。交通の便もよく、閑静な住宅街の中にあった。子どもたちは、三島南小学校に通うことになった。住宅から徒歩5分の距離であった。1年4ヶ月生活し、裾野市に新築し転居した。現在は、校長住宅も売却され、住宅の北側は田んぼであったが、そこはイトーヨーカドーの駐車場になっている。
日清製粉の跡地にイトーヨーカドーができたためである。
 当時の三島南高校は、伊豆箱根鉄道の二日町の駅のすぐ近くにあった。駅から1分もかからない学校は全国的にもないだろう。立地条件には恵まれていた。普通科男子3クラス、商業科女子(少数の男子を含む)5クラスの併設学校であった。もともとは、商業学校であった。三島・田方地区には、トップ進学高校の韮山高校があり、2番手に、富士東高校と同時に新設された伊豆中央高校があった。普通科の男子は、その次のレベルの生徒がきていたが、進学希望者のほうが多く、商業科の女子は、就職希望者が多かったと記憶している。三島南高校に転勤したのは、34歳の時で、教師生活13年目だった。3年生の普通科の副担任で、3年生の英語の授業を担当した。分掌、部活動は記憶に残っていない。1年目の記憶では、男子だけのクラスの授業は、精神的に楽で、気を使う必要がなかったことである。吉原高校の時は、女子生徒のためにずいぶん気を使ったが、男子だけの生徒は、気を使う必要がないだけ楽だった。この学校は、外部からの評判は良くなかったようだが、内部ではそれ程の感じはしなかった。生徒は、勉強しなかったことは確かだ。2年目に、1年生普通科の担任になり、その生徒たちを3年まで持ち上がり卒業させた。その生徒たちは、勉強はしないが、元気で若さに溢れていた。そのために、生徒指導上問題が生じることがあった。よく記憶に残っているエピソードを書いておく。2年生の修学旅行の時である。事前指導で、クラスの委員長・Kに、「俺の顔をつぶすようなことだけはするなよ」と言っておいた。修学旅行期間中に、福井県の永平寺の近くでの出来事で、他校の生徒と喧嘩になり、乱闘騒ぎになるところだった。私が駆けつけたときには、他校の生徒はいなかった。委員長のKが、他の生徒たちを止めたそうだ。このような生徒との関わりに苦労した記憶がない。「自分らしく、本音で話す」私の指導のやり方は、定着していた。授業の余談には、野球のことを話すことが多かったと記憶している。
 私が転任したときの英語科の教員は、6・7人ですべて男子教員だった。4月の下旬の英語科の歓迎会で、私より2歳若い教員を含めて、みんなが持ち家だった。そのことに驚くと共に刺激を受けた。二人の教員が何とかやっていけるものだとのアドバイスをしてくれた。その後、5月に土地探しを始めることになった。広告のちらしを見ては、日曜日に、沼津の東原、修善寺の牧の郷、三島の富士見台、函南、裾野へと車で見て回った。その結果、現在住む土地を、共済からお金を借りて購入した。その際に、英語科の松島さんにはお世話になった。2区画の土地を選ぶ時に、一緒に来てくれて、アドバイスしてくれた。その松島さんとは長い付き合いになったが、3年前に、亡くなった。松島さんの関係の人たちともよく麻雀をした。松島さんが大仁高校に転勤するまで、三島南高校での人間関係の中心になっていて、他の学校の先輩教員とも知り合いにさせて頂いた。私は他の先輩たちと同じように、「松ちゃん」と呼ぶようになり、とても親しみを感じる英語科の先輩教員だった。松島さんは、御酒と麻雀をこよなく愛するとても人間味のある人だった。私の家で麻雀をやった時に、食事時に、お茶の代わりにビールを出してあげた時の嬉しそうな表情が印象的だと妻が言っている程だった、年齢差は10歳ぐらいだと思うが、お世話になった人である。彼は、愛知県蒲郡の出身で、函南町に新築し居住した。何回もお宅にもお邪魔している。おかっぱ頭で、私の長男の亮は「ET先生」と呼んでいたくらいだ。非常に個性的で、味のある人だと私は思っている。こういう教員もいないタイプである。私の教員生活で、小林先生に次いでお世話になり、印象深い人である。亡くなったことを後から知ったので、葬儀にも参列できず大変失礼したと思っている。一度はお宅に伺ってご焼香とは思ったまま時が過ぎてしまった。
 5年目は、男子の普通科を卒業させた後なので、商業化の副担任としてスタートした。
英語科に新任の女子教員が入ってき、英語科の主任の私が指導担当になった。私も中堅教員としての役割がでてきた時期でもある。彼女を含め3人の女性が新任として来たのだ。私も教員生活17年目で38歳になっていた。英語科全体のことを考えるようになったと言える。この時の英語科のメンバーが私の教員生活を通じて一番良かったとの記憶である。
人間的にいい先輩教員たちがいたと思う。中でも一番おしゃべりで、ストレスをためないTさんや、温厚な性格でおとなしいIさん、柔らかい性格で俳句をたしなむNさん、バリバリで力のあるKさんと中堅からベテランまでのバランスがとれていたことも確かだ。しかし、この頃から普通科男子クラスの指導が大変になっていったと感じている。新任の女子に普通科の男子1クラスの授業を担当させた。授業は大変だったと思う。男子生徒の好奇心の目にさらされていたのではないか。私は、男子の2クラスと商業科の女子1クラスの授業持ってスタートした学年である。しかし、商業科の担任をしていた体育の教員のMさんが突然亡くなった。3年間担任をして、卒業生とともに定年退職する考えと聞いていた。私も教員生活の最後を担任でと、可能ならばそうありたいと思ったが、実現できずに定年を迎えた。そのMさんが亡くなったのが5月と記憶しているが、学年がスタートしてまもない。通常はこのような場合、副担任が担任になるのだが、新任のためにそれができなかったようで、教頭は頭を悩まし、何人かの教員に打診したようだが、全て断られたようだ。困って私に担任の依頼をしてきた。私も簡単には引き受けることはできなかった。理由は、そのクラスの授業を担当していなかったからだ。私の担任としての指導方法は、授業と一体だったからだ。誰も引き受ける教員がいないからどうにか頼むというので、担当クラスの授業を変えることを条件に引き受けることになった。授業を担当していたある生徒は「先生の授業に慣れてきて、ノートの取り方をわかってきたのに」と言われたことは忘れていない。そんなわけでMさんのクラスの授業を持ち、担任をすることになった。生徒には、戸惑いがあったようだ。Mさんは体育の教員らしく、挨拶の仕方まできちんと躾を行っていたようだ。私は、それを壊してしまった。私のやり方とは違うからである。私は形式的なことは重視しない。私のやり方で生徒との関わりを持った。一番戸惑っていたのは、新任の副担任ではないか。あまりにも違い過ぎたようだ。このような経緯で、3年間商業科の担任をして、この学年の生徒を卒業させることになった。本校で、普通科と商業科の担任をしたのは私だけである。英語科の新任のKさん(私はMちゃんと呼んでいたが)も、2年、3年と担任になり、この学年の生徒を卒業させたのだ。担任として卒業させるまでは様々なことを経験しなければならず、平坦な道ではない。それゆえに、教師としての成長があるのだが。苦労した分だけ人は成長すると私は信じている。彼女にとっても貴重な3年間だったと思う。Kさんは翌年1年の担任をして、4年間勤務して、転勤したのである。最初の赴任校での経験がその後の教員生活に基盤に成っていくものである。この学年では、2年生を持ったクラスでの授業やクラスでの指導で、苦労したことを記憶している。生徒との信頼関係の問題に影響したこと(上級生からの噂が原因で)があったからだが。詳しいことは省く。
 平成2年からは、また普通科男子の授業を持つようになり、副担任の立場にあった。この学年は、男子クラス最後の学年になるが、この学年の指導は、私の教員経験で最も困難な3年間だったと思う。ともかくエネルギーをもてあまし、器物破損や、生徒指導の問題が多発した時期である。この経験で、困難校の指導の大変さを知るようになったと言える。この学年では、教師という肩書は通用しなかった。教師の力量が試されたとも言える。商業科の教員は、試験の監督することさえ拒否したのである。授業を成立させることのできる教員はごくわずかだった。私個人はそれほど大変だったとは思ってはいなかったが。担任は、他の教員からの苦情にも対応しなければならない状態で、喫煙、暴力、器物破損の生徒指導で追われ、毎日のように生徒指導の会議が行われていた。私は進路課に所属していたので、生徒課の会議には出る必要がなかったが、職員会議も当然多くなっていた。職員会議では、担任の主張を支持してきた。そのおかげで退学しないですんだ生徒もいる。教科の単位認定でも担任の要望は受け入れた。そのおかげで進級できた生徒もいる。この学年が3年になる前の3月に私の同僚のTさんが体調を悪くして、3年生の担任ができないので、私に担任をやってほしいとの要請をした。私以外に担任ができる教員はいなかったので、その要請を受け3年生の担任をすることになった。そのTさんとは、私の麻雀仲間でもあったのだが。3年になってまもなく、生徒指導で、番長のKが生徒指導問題として上がってきた。この生徒とは、一触即発の状態を授業で経験している。その様子を取り巻き連中が注目していた。私も腹を据えて、この生徒と取り組んだ過去のある生徒である。この生徒が男子クラスに影響力を持ち、悪の元凶であることを知っていた。普通は、生徒指導の問題を起こした生徒を弁護しかばうのが担任の情である。そうでなければ、担任は務まらない。もちろん学年として対応するものだが、学年によって指導の方針が違い、他の学年との対立も生じることがある。また生徒課の指導方針もある。過去に私はある生徒課長と対立した経験もある。私が最初に持った男子クラスの時である。私のクラスに、長男と小学校が同級生の生徒がいた。その生徒は体育の教師である生徒課長にことごとく逆らっていた。そのために生徒指導の対象にされやすかった。少しでも問題があると、生徒指導を受けることになった。私もその生徒課長とは対立関係にあった。彼は依枯贔屓の強い教員で、私はそういう教員を嫌っていた。生徒も同じである。教員相互の人間関係が生徒指導にも影響を及ぼす例であった。話しを戻すと、Kに対する評価は教員の中でも悪かった。裏で他の生徒をそそのかしていた。自分は表に出ないように立ちまわっていたのだ。そのことはわかっていたが、表面上は問題を起こさなかったのである。頭のいい生徒で、悪知恵が働くのだ。そのKが生徒指導に上がったのを機会に、何度も家庭訪問をして、方向転換を勧めた。実質的退学勧告である。私はこの生徒の擁護はしなかった。私の担任経験で、定時制以来2度目のことである。一人の悪を取り除き他の生徒を守るために取った非常手段である。この生徒は退学し、風の噂で大学検定試験に受かったと聞いている。それ程の生徒であるが、私の指導が及ばない生徒であった。他の生徒への悪影響を与えていなければ、私は守ったのだが。この出来事が、クラスの生徒、特に取り巻き連中(7・8人)がどう反応するか注目していた。結果的には、私を支持してくれた。それ以来私を「ボス」と呼び私には逆らわないと言った。でも他の教員の言うことは全く聞かなかった。他の教員の授業は、授業になっていなかった。トランプをやったり、話しをするは、物は投げる始末である。教員は黙って黒板に向かって、生徒に背を向けて板書をしていて、注意もできないのだ。生徒指導担当の教頭もそうである。その教頭は転任(昇格)して来た時に、「私は、生徒課長をやり、いささか生徒指導には自信がある」と言ったのを忘れてはいない。所詮進学校(富士高校)の生徒課長である。馬鹿な見栄を張ったと思っていたが、どんな気持ちで授業をしていたのか想像ができない。この生徒たちは、立場や、建前論では通用しないのであった。この生徒たちにホームルームでは「お前たちの態度も度が過ぎていると何度も言ったが、その効果はなかった。この生徒たちを私は卒業させた。他の教員たちからどれほど苦情を言われたことか。その教員たちは自分では指導できなかったのが事実である。この生徒たちの卒業した年(平成4年)に転勤するのだが。その離任式に7・8人の男子生徒が花束を持ってきてくれたのだ。「お互いに似合わないな」と私は感謝の表現をそんな言葉で表して笑っていた。この出来事も生涯忘れられない。
 次に職員との人間関係に触れておく。基本的には、麻雀に関わる関係が一番強い。転任して来た頃から亡くなるしばらく前までの松島さんとそのグループとの関係、また、6人で遊ぶ会で「六遊会」と称し、年に1回年度末に宿泊することがほぼ20年続いた。その第1回が平成2年で、私が転勤するつもりで宿泊提案をし、先程書いたTさんが命名した名前で「りくゆうかい」と読むのである。そのこだわりは、国語の教員故である。「六遊会」の中心のTさんを含む4人の付き合いは、昭和59年以来現在に至るまで続くのだが、私の体調が悪くなり、数年前に宿泊の会は消滅したが、年に数回は麻雀をやってきた。私の体調を見ながらだが。今は年長のTさんの体調でドクターストップがかかったので、今年の夏の予定がキャンセルになり、私ももう麻雀をすることはないと思っている。かつては三島の雀荘で行っていたが、そこが無くなってからは、年長のTさんのお宅にお邪魔していた。このTさんのお宅で麻雀をした人の数はかなり多い。Tさんの前任校の沼津商業からの記録が残っているからわかるのだが。この学校には、10年間いただけに、多くの人とコーヒーを飲みながら、空き時間に雑談したり、図書館司書のOさんともよく話しをした。教頭のAさんとも野球の話しをしたし、その後の教頭のYさんともよく話しをした。教頭で転任してくる前から、Yさんとは、親友の松島さんの関係で知り合い、よく麻雀をやった人である。教頭という管理職になってからは麻雀をする機会はたまにこっそりとする程度になった。私が転勤してからもその関係は続いていたが、この7・8年前からは途絶えている。
 次に私生活の面を書いておく。最大の出来事は、昭和58年に裾野市に家を新築したことである。その新築と同時に川崎にいた両親と同居するようになった。8月に引っ越したので、長男・亮が10歳で4年生、次男・誠が8歳で2年生の2学期に、裾野西小学校に転入学した。同居から父親が亡くなる平成2年までの約7年間は本当に大変だった。親子といっても、10年の生活の習慣の違いによる溝は埋めることはできないことだった。父親が私の妻に求めることと妻の言い分はかみ合わなかった。私はその間にあって、どちらの肩を持つこともできずに悩んだ期間であった。父親の無理にも私は口を出せなかった。子どもたちにも辛い思いをさせた。一度長男が怒って父親に向かって行こうとしたことがあった。その時は、長男を怒って止めるしかなかった。事の非は父親にあることを知りながら。後で、私は長男に謝ったことは忘れてはいない。そんなわけで、子どもたちは、祖父母から可愛がられた記憶はないはずだ。母親は父親に一言も文句は言えなかった。月に1度の割合で、川崎に住む義理の娘(私と血筋はない)の家に行き、その子どもの言うことは聞いていたようだ。父親が亡くなってからわかったのだが。川崎に行って帰って来た時にもめることがよくあった。両親の不満に同意し、さらに煽るようなことを言ったとしか理解できなかった。父親は何度も家を出たいと言い、アパート探しに付き合わされた。しかし、年寄り二人に貸してくれるような物件は見つからなかった。こんなことを書くこと自体辛いことであり、辛いことを思い起こすことになるが、事実は残して置きたい。今の時代も同居は難しいと思う。お互いに離れていれば見なくてすむことが、一緒に暮らすとそうはいかない。お互いに感情の動物である。気になることは気になるのだ。その心の動きを抑えることはできない。理屈ではないのである。どうしても自分の方を基準にしてしまうのだ。お互いに余分な気遣いをしないですむならそれにこしたことはない。相手の立場で思いやることが大切なのだが、感情の部分はどうすることもできない。現在、私たち夫婦と長男とは同居はしていない。隣にあった私の駐車場に狭いながら、3階建の家を新築して近くのアパートから引っ越して来たのが平成23年の4月26日だった。二人の孫(翔と煌)には、隣にも居場所があり、行ったり来たりしている。亮の妻の久美の実家も市内にあるので、孫たちにはそこにも居場所がある。翔(男)は12月6日に7歳になる。煌(女)は来年(平成27年)2月22日に5歳になる。二人とも元気で育っている。同居よりもこの形態の方がいいとお互いに思っている。
 もう一つ加えておかなければならない。昭和59年の4月に生まれて、5月の中頃の家に来た犬のことである。名前はバロン(男爵の意)で私がつけた名前ではない。血統書からの名前で、犬種はシェルティーで、この頃に流行して犬のようだ。犬の流行には関心がない。同僚が紹介してくれたブリーダーから直接分けてもらった犬である。私の掌に載せて連れてきた。とてもかわいい犬だった。犬を飼ったのは、父親の要望だった。狭い庭に
に犬小屋を置いた。そこがバロンの居場所だったが、父親がかわいがり、躾はほとんどされなかった。いつのまにか家の中にいる方が多くなっていった、バロンは、容姿が良く、賢かった。だが実に繊細で、感情表現が豊かと言えた。父親には食べ物をよくねだっていたようだ。それが原因で太りぎみになっていた。でも元気に飛び回り、私の車の後を追いかけたりしていた。もともと羊を追いかけて檻の中に誘導するような先祖を持つ犬だったので、その血は流れているのだろう。性格は臆病で寂しがりであった。頑固な性格でもあった。私たちが買い物に出かけた時に、残されるがいやだったようだ。出かける前から落ち着かない様子だった。車に乗るのはあまり好きではないようだった。車の中からいつも頭を出していた。バロンは家族と一緒にいたいというよりも、自分も同じ家族だと思っていた。私の家では、私に対しては絶対服従で、私以外には結構わがままをとおしたようだ。子どもたちの言うことは聞かなく、自分の方が立場が上だと思っているようだった。バロンは私の妻が一番好きだだったように思う。一番世話をしてくれたからだろう。妻が言うには、バロンは鳥のからあげが大好きで、臭いがするとそばに寄って来て離れなかったそうだ。色んな意味で私の家の中心者は妻だったと言える。バロンはそのことを理解していた。バロンに対して不思議に感じていたことが一つある。車のエンジン音に敏感に反応することだ。東側が以前は菜園になっていて、その奥に隣の家があり、その車のエンジン音に異常な反応を示した。隣のおじさんが車に乗る前から、大騒ぎしていた、この時は、私が怒っても聞かなかった。そうかと言って隣のおじさんを嫌っていたわけではない。隣で植木いじりをしていても吠えることはなかった。だが車で出かけると狂ったように吠えって追い回すのだった。エンジン音には、もう一つ面白いエピソードがある。その頃、バロンの寝る場所は玄関だった。車の点検などで代車に乗って深夜に帰って来た時に、玄関を開ける前に吠えかかっていた。私が玄関を開けた瞬間にまずいと気が付き、「馬鹿野郎」と怒られた時の表情が忘れられない。私が自分の車で深夜に帰って来た時は、ひょこっと顔をあげてちらっと私を見るくらいであった。バロンの嫌いなことは、お風呂に入れられることだった。だいたいが水に濡れることを嫌っていた。妻がお風呂に入れようとバロンに近づいただけで、頑として動こうとしなかったようだ。無理やりお風呂に入れて洗っていたと聞いている。頑固な父親を筆頭に、わが家の住人はバロンを含め頑固な面を持っていた。頑固さの点では、バロンは父親に劣らなかったように思う。父親が、バロンを子犬の時から甘やかしていたことにも原因があると思うが、バロンの性格から来ているのだろう。バロンは私の居住地区では有名だったようだ。私の父親は「バロンちゃんのお爺さん」と呼ばれていたようだ。このバロンは平成5年に亡くなった。9年半の命だった。
 再度学校の話しに戻すことにする。私が、ワープロをいじくるようになったのは、この学校にいる時で、英語科の主任で、私が英語科専用のワープロの導入したのがきっかけであった。職員室に置いたのだが、英語科には使う教員がいなかった。だから私が使わないと格好がつかなかった。とはいえ私は全くの機械音痴である。どうしていいかわからなかったが、説明書を読むのも嫌いであった。数学のNさんが進路課長を務めていて、私も進路課に所属していたので、このNさんに最初から教わったのだ。彼はワープロを使ってはいなかったが、パソコンを使っていた。原理は同じだと言って、教えてくれた。そのおかげで、1週間、空き時間にはワープロに向かっていた。それで何とかプリントや試験問題の作成ができるようになったように思う。進路課と言えば、この学校の進路課長の仕事は大変だったように思う。進学と就職の両方の指導責任を担っていたからだ。それぞれの出張も多かったようだ。私もこの学校にいる時が最も出張が多かったと記憶している。教科での出張も含めての話しだが。東京に行ったこともあるし、名古屋にも行ったこともある。静岡市内への出張も多かったと記憶している。私はここで思いだしたことがある。3年の男子クラスを持っていた時に、保護者の父親に教育委員会に訴えられたことがある。教育委員会から校長に問い合わせがあり、校長室に呼び出され、事情聴取を受けたのである。その出来事を簡単に書いておくと、生徒の希望先の会社の校内選考で落ちたのである。だが、その父親が、コネでその会社の人事担当に採用依頼をしていた。その人事担当は学校から推薦があれば、採用すると答えていたようだが、学校には特別推薦枠を設けては来なかったのが真実である。私が推薦しないが故にその会社に入れなかったと誤解したようだが、その父親は事実を知らないので、私が校内選考で入らなかったことをいくら説明しても納得してもらえなかった。父親は自分のコネが効くと信じていたようだ。人事担当者にも確認したが、特別推薦枠を設けてはいないとのことだった。この頃からモンスターペアレントの言葉がマスコミに取り上げられるようになったと記憶している。
 私はこの学校の終盤の頃は、教務課に所属した。その中の研修担当になり、初任者の研修指導担当になった。そこで英語科の2人の初任者の指導を担当した。正式に初任者研修が始まる予備段階で会った。年間60時間の研修で、30時間が教科研修であった。A教頭は授業外の30時間を担当した。その60時間の記録は女子のMさんが細かくノートに記録を取っていたので、ずいぶん真面目に研修をしたなと今でも思っているくらいだ。これほど真面目な研修を行った例は県下でも珍しかったようだ。この研修担当の仕事が、現在の研修課の始まりでもある。私は8年が終わった時点で転勤を考えていた。英語科でのリーダーシップが取れる教員がいなかった。校長には、私の後任になる教員が必要だと要望した。初任者研修の加配措置で英語科教員が増員されたと同時にUさんが転任して来た。私より2歳若かった。彼は、教頭になり、校長になって定年を迎えた教員である。私はUさんが来てくれたので、転勤できる条件が整ったが、平成3年には転勤の話しが具体化した。その時に、北駿の普通高校との話しがあり、それは理由をつけて断った。そのために、その年の転勤は無くなった。翌年に御殿場高校への転勤が決まった。今度は引越しの必要はなかった。ともかく34歳から44歳までの10年間この学校でお世話になったのだ。その間、公私ともに大変な時期を過ごしたと思っている。父親は平成2年3月に亡くなった。私の父親に対する長男の役割を終えたのである。この葬儀では、父親のことを触れた挨拶ができなかったことを覚えている。頭の中が真っ白になって何も浮かんでこなかった。色々な意味で、思いで深い10年間だったと記憶している。