昭和50年(1975年)の4月の始めに、下田から吉原へと引っ越した。転勤先では、車が必要になると思い、同僚で後輩のF君に誘われ、自動車学校に通い、50年の1月に免許を取得した。引越しの直前に、定時制の教え子(私のクラスの卒業生)が勤めている会社から、中古車を購入した。その車に、妻と亮を乗せた初めてのドライブになった。引越しの際に、私の教え子たちが手伝ってくれて、吉原まで来てくれたと記憶している。私は、初めて天城峠を越えたことが、印象に残っている。吉原でも学校住宅に住むことになった。古い木造の一戸建てで、敷地に4件が鍵型になって建っていた。駐車は、縦列に4台並べなければならなくて、お互いに出入りに気を使って大変だった。妻が言うには、私たちが入った家には、庭がないために、日当たりが悪く、洗濯ものを干すのに苦労したとのことだった。この住宅で7年間暮らした。住宅から学校までは2km程度の距離で、通勤は楽だった。次男が生まれ、長男が小学生になった地である。
 4月の始めに、新任歓迎会があった。私を含めて転任者が4人で、新卒者が1人だった。どういうわけか、お互いの事前情報から、4人は、麻雀をすることを知っていて、歓迎会が終わると同時に、近くの雀荘を聞いて、麻雀をしたことが印象深い。このような例はないと思う。初対面の4人で卓を囲んだのである。その後、1年間は、おなじメンバーでよく麻雀をやった。その中の2人が、後に校長になった。その頃、3人とも30代の後半で、私だけが20代の後半であった。1年後には同じメンバーで麻雀をやることがなくなった、当然理由のあることだ。
 学校が始まり、分掌は3年部、総務課、部活はバスケット部の顧問としてスタートとしたが、学年以外の分掌の記憶は薄い。ともかく、私にとって、大切なのは、授業であった。3年生の副担任で、就職・専門学校希望者の多いクラスで、このようなクラスが3クラスあって、その授業を担当することになった。英語の時間が週に6時間なので、合計18時間を持った。女子高校のもつ独特の雰囲気を感じたが、生徒の学力が全く想像もつかなかったので、教科書で推測して、教材の研究することから始めるしかなかった。最初の授業は、緊張していたことは確かだ。教室に入って、簡単な自己紹介をしてから授業に入る予定にしていたが、最初の時間は、教科書に触れることはなかった。生徒の関心は、まず私が、独身であるかどうかだった。「先生は、独身ですか」が第一の質問であった。私は外見からみると、独身で通用する感じだったが、すべて正直に話しをした。妻と2歳の男の子がいて、6月に二人目が生まれる予定だと言った、その二人目は、次男で6月に生まれ、「誠」と名前をつけた。誠実な人間に育ってほしいとの願いでつけた名前である。女子高校の生徒は若い独身の先生を期待している。高校生が異性に関心をもつことは、自然なことであるが、その対象が教員しかいないことが異常であると思う。女子高校の生徒は、男の先生への関心・期待が強いようだ。ある生徒が、「先生、女子高に長くいたら駄目だよ。3年で転勤したほうがいいよ」と言った言葉が、忘れられない。3年生と私との年齢差は10歳であった。私の印象では、大人びていて生意気な感じがする生徒が少なくないとの記憶が残っている。性格のよい生徒だと感じる女子も多かったが。ともかく授業が勝負であった。最初は、吉原高校の生徒のレベルを知り、慣れることだった。それに対応した授業するように努めた。当時の吉原高校は、富士地区のトップ高校・富士高校の女子生徒に次ぐ女子が集まってきていた。その中には、富士高校に入れる女子も一部いたようだ。私が担当したクラスには、そのレベルの生徒はいなかったが、優秀な生徒はいた。しかし学習面で努力している生徒は少なかった。受験というモチベーションがなかったからである。授業は真面目に受けていたと言える。私は、授業で、余談・雑談を交えるスタイルをとった。一番反応が大きかったことは、私の恋愛観や妻との出会いと結婚の話しだったと思う。私の妻との出会いと結婚の話しは、教員生活の中で、私が教えたすべてのクラスで話しをしたことだ。このことはすでに書いてある。定時制での経験から、生徒との関わりで、本音で正直に話すことは、生徒に受けいれられると感じたからである。生徒の学力レベルを知ったのは、定時制の時と同じように、中間試験の結果である。全日制の普通科では、学年で共通試験を行って評価することが一般的である。吉原高校には、英語科の教員が7~8人いて、3年生の担当は3人で、交代に試験問題を作成していた。中間試験の時に、英作文の問題を作成した。難しめに作った記憶があるが、その結果はひどかった。平均点で30点台と記憶している。生徒の学習と学力に対する認識が甘かったことと、授業内容の反省をしなければならないと感じた。やはり、定期試験は自己評価の材料になった。吉原高校の頃は、授業プリントを家でよく作っていた。これは、妻のよく知ることである。この学年で特に印象に残っている生徒がいる。ある一人の生徒は、朝私が車を降りて、学校に入って行くときに、2階から、「相川先生、おはようございます」と明るく声を掛けてくれた生徒である。もう一人は、私のタイプだと感じた生徒がいる。そのように感じた生徒は、教員生活でただ一人である。もちろん私の心の中だけの話しである。この学年の生徒を通じて、女子高の吉原高校を学習したと言ってもいいだろう。
 ここで一つのエピソードを書いておく。女子高ならではの出来事だからである。私と一緒に着任した新卒のY君の話しである。担当した学年が違うので、間接的に知ったことではある。彼は若く独身であるだけで、生徒の間で、大評判になり、アイドル的存在になった。男の私から見ると、その理由がまったく理解できなかった。魅力的には見えなかったからである。しかし、生徒の間では、大変な評判のようであった。学年を越えて伝わってきた程だった。その評判も1学期で終わったのである。バブルと消えたと言ってもいい。生徒は、国語の授業を受けて行く過程で、何がきっかけで、生徒の心がさめたのかはわからないが、失望感を抱いたようだ。その空気が広がり、その先生から目をそむける態度をみんなが取るようになったと聞いた。180度の転換である。2学期以降は、授業は大変だったと想像される。目をそむけ、話しを聞かない生徒を相手にしているのだ。Y君は1年でやめて東京に帰って行った。離任の時に、その先生に、生徒が謝ったとの話しを聞いている。これが女子高である。私の苦い経験は後で触れる。
 2年目に、1年部に所属して担任になった。分掌は生徒課に変わった。部活のことは忘れている。担任になって、クラス運営が大事な仕事になった。クラス運営と授業は車の両輪の関係だと思っている。両方が一体となって動いていくものである。まず生徒に伝えたことは、私の基本的な考え方である。「自分らしく、本音で、正直に」である。基本的には、教師の立場の目線から話しをしないということである。すでに書いたように、「先生は~と思う」という言い方は嫌うし、そういう言い方をする教員を信用しない。私は、「僕は~と思う」という言い方をした。生徒指導に関しても、校則だから守らなければならないとの指導の仕方はしなかった。なぜ守らなければいけないのかを私の考え方で説明した。ある生徒が言っていたことだが、「私は、僕は、俺は」の使い分け方がおもしろいと。生徒はよく聞いているなと思った。確かに、「私は」との言い方は、あらたまったときにしか使っていない。ここに書いている文章では、すべて「私は」である。
普段一番よく使ったのは「僕は」である。くだけていうときに、「俺は」と使っていた。「先生は」
はもちろん一度も使ったことはない。ここに、私らしさがでているのである。あくまでも自分らしく、生徒と同じ目線で話すということである。決して上から目線で話しては、生徒の心に響かないのである。このような考え方をする教員は少ない。普通の教員には、私の考え方や指導方(上意下達はしない)が理解できないのである。同時に着任し、卓を囲み、後に、校長になったKさんは、私に、「相川さんのクラスは生徒指導の生徒が不思議とでないね」と言ったことを記憶している。Kさんは、吉原高校で、学年主任、生徒課長を務めて、教頭になって転任した教員である。また、あるときに、「相川さん、麻雀をやっていたら偉くなれないよ」との言葉も忘れられない。麻雀が好きな人にもかかわらず。彼は2年目から麻雀をやめたのだ。要は、教員としての価値観に違いがあるのだ。教員は管理職になることが偉いとは、私は考えていないのである。この考え方の違いがKさんと離れた理由である。後日談を書くと、Kさんは、校長で退職し、私立の校長も経験した。他界される前に、富士宮の御宅で、数十年ぶりに麻雀をやったと記憶している。
 2年目に担任になった。最初にしなければならないことは、生徒の名前を覚えることであった。生徒のことを少しでも知るために、個人面接をするのである。授業を担当しているだけで、個人面接をすることはない。個人面接は、すべての担任がやっていることで、要は面接の仕方、内容である。その中に、教員の個性がでるのである。結論すると、どうやって信頼関係を築くかである。その鍵は、もちろん授業にあるが、生徒を信頼できなくて、信頼されるはずがない。人間は感情の動物でもある。好き、嫌いの感情はどうすることもできない。相性の問題もある。英語では、相性がいいことを、good chemistry と言い、化学反応である。信頼関係は感情を越えると私は考えている。好き、嫌いでは、嫌われないことである。嫌われたら、女子高では務まらない。(実感だ)女子の持つ特性からきているものだ。女子高の怖さは、それが集団化されるのである。影響力のある生徒が、「あの先生は嫌いとか駄目」と言うと、全体がそういう雰囲気になるのである。前述したY君のケースがそうである。授業を通じて、生徒をひきつけ、信頼を得られるかどうかである。そのためには、教材を研究して、わかりやすい授業をすることだと私は考えた。その努力をした自負はある。ただ若いがゆえに、精神的なゆとりはなかったと思う。少しゆとりを感じるようになったのは、この学年の生徒を3年間担任として卒業させてからである。継続して教え、指導することが大切である。担任として生徒を入学から卒業まで面倒をみることに尽きると思う。この学年を担当した経験からである。この3年間担当した生徒は、個性的な生徒がいたとの印象が強い。賢い生徒も多かった。有る生徒が、「先生とはもっと話したかった」との言葉は特に印象に残っている。御殿場の青年の家での研修の時だと記憶しているが。
 少し具体的な話しを書いておくことにする。女子生徒は、男の先生に関心があることはすでに書いたが、実際にどこを見ているかというと、やはり外見である。頭髪・服装である。教員も生徒に対してそうである。生徒指導の中心になっている。人は、外見で人を判断する傾向は、教育の世界でも同じである。私が床屋で髪を切った翌日に、教室に入っただけで反応がある。くすくす笑っていて、授業に入りにくい経験は常であった。定時制の時には経験したことがないことだ、
服装に関して言うと、私はおしゃれな方で、自身も関心が高い。生徒の目を常に意識していた。30歳くらいの時が、一番派手だったかもしれない。教員になりたての定時制の頃のほうが地味だったように思う。派手な代表的な服装は、ライトグレーの三つ揃いのスーツに、赤のネクタイをして学校に着て行った時期である。妻も首をかしげていたようだ。本人も度が過ぎているかなと感じていた。当然生徒の反応は大きい。キザと感じた生徒が多かったと思う。その服装は別にしても、教師臭い服装はしたことがない。外見的にも教師には見られなかった。本人が承知してやっていることだった。「相川先生は、先生に見えない」との見方が一般的であった。教員生活の
間、ずっとそういう見かたをされていたと言える。外見、考え方の両面から教師らしくない。それが私の個性だったと自負しているくらいである。とにかく、俗に言う教師にはなりたくないとの想いが正直な気持ちである。「教師らしくない教師」を志向していた。この傾向が強く出たのが吉原高校の頃だと思う。女子の目の意識が強かったのだろう。私が、アスコットタイをするようになったのもこの頃からである。生徒は、スカーフをしていると思ったようだ。そんな教員を目にしたことがないのだ。私のネクタイにも注目していたようだ。少なくとも1週間以上同じ服装をしたことがなかった。ネクタイだけでも50本以上持っていた。ネクタイを選ぶのに苦労したくらいだ。実際に使うのは10本もいかない。生徒の私の服装に対する見方は、「キザ」「ダンディ」に分かれていた。好意的に見るか否かであった。
 私は、授業の中で、私の物の見方・考え方を教材に応じて、生徒に話しをした。すでに書いたが。恋愛についてことや妻のことの話しには、特に関心を示していた。妻との出会いと結婚については、すでに文章に書いてあることだから、覚えているのは、当然だが、授業で話しをした内容は覚えていない。各学期の最初の授業や定期試験のテスト返却の授業で、教科書を使った記憶がないくらいである。普通、教員はプライベートに関することを話したがらない。私が普通ではなかった。生徒に話すべきではないこと以外は何でも話しをした。こういうこと自体も教師らしくないことだった。私が、3年の担任をしたクラスの生徒に言われて反省したことがある。この生徒(S)は、運動能力に優れていて、影響力があり、多くの教員が知っている生徒の言葉である。「先生は、奥さんのことを良く言っていない。その点の評判は良くない。他のことでは、先生が一番人気があるのに」と。私は、妻のことを悪く言ったつもりはないが、謙遜した言い方をしたと思う。それが良く言っていないと受け止めたのだと思う。女子生徒は、率直な言い方で話した方がいいと感じると共に、言葉の使い方に神経を使うことを再認識した。
 この学年の生徒の担任をして、楽なおもいをしたのが、2年生の時だと記憶している。優秀で個性的な生徒が集まったクラスである。委員長と副委員長に対する私の信頼が強かった。帰りのホームルームの前に、職員室にいる私のところに来るように指示してあった。この学校では、各クラスの役割分担として、教科委員が決まっていた。教科委員は授業担当の先生のところへ、授業前に御用聞きに行って先生の指示を受けなければならなかった。定時制ではなかったことである。私は、教科委員と同じような役割を委員長と副委員長に求めた。その時に、伝達事項をクラスに伝えるように指示して、帰りのホームルームに行かない日があったことが何回もあったと記憶している。週一回のロングホームルームでも同じようなやり方をしていたことがしばしばであった。今ではとても考えられないやり方である。ある種の手抜きと思われてもしょうがないことである。実際手抜きとの見方に反論するつもりもない。このやり方に対する生徒の捉え方は私の耳に届いてはいないが、のびのびとした自由なクラスの雰囲気だったように記憶している。書きながら思い出したことだが、同時に着任した英語のTさんは、教科委員が御用聞きに来なかったために、一か月以上そのクラスの授業に行かなかった。生徒がどんなに謝ってもがんとして受けつけなかった。今では、問題になって、懲戒処分の対象になっていたかもしれないようなことである。時代が違うということだ。この出来事で。私が感心したことは、生徒に対してである。授業に担当の先生に来てもらえなくて困った生徒たちは、その時間自分たちで学習し、他のクラスの授業のノートを借りたりし、協力して定期試験に備えたのだ。その結果、他のクラスよりも平均点が高かったと聞いた。それ程の質の高い生徒たちだった。
 私の4年目は、3年生の文系3クラスの1つのクラスの担任をすることになった。1年目に、副担任で3年生を担当したクラスとは、集団の質が違う。受験して進学を目指すクラス集団だった。私にとって、このような集団を担任するのは、初めての経験となった。進学指導であり、授業はそれに対応したものである。いわゆる受験教育であった。私は、この経験を通して進学指導の方法を見につけた。文系の多くの生徒は短大進学を希望していた。東京への希望が多かったように記憶している。人気のある短大は、青山学院女子短大(通称青短)と学習院女子短大(通称学短)であった。難関の短大だった。この時代の女子生徒は短大志向が強かったように記憶している。したがって、一部の短大は難易度が高かった。国立及び4年生志望の生徒のクラスは2クラスあった。私は、この学校で、この2クラスの授業を担当することはなかった。成績が上位の生徒たちが集まっていたことは確かだ。この学校の伝統的なシステムでもあった。担任としては、クラスの生徒との個人面接から始まって、夏休みに入ってからの親を交えた3者面談、冬休みの3者面談、2月の試験前後の面接を行うのが通例であった。個人的な相談及び指導は別である。簡単に言うと、各生徒の進路希望、勉強の状況、親の考え方、成績、模擬試験の結果等を考慮して、受験校を決めていく指導方法である。一番困ったことは、親子の進路に対する考え方の違いである。このケースの指導が難しい。私たち教師は、助言はできても、立ち入ることはできない。責任は親にあるからだ。ある親は、日曜日に、私の家に相談に来たことがある。担任には、親(通常母親)との関わりがある。親からの信頼を得られるかどうかも大切なことだった。入学や卒業の時には、生徒だけでなく、親の前で話しをしなければならなかった。その内容は教師によって違うことは当然である。教師の個性、人間性が表れるものだ。私とこの学年の生徒との年齢差は13歳であった。当然親は私より年上で40台の年齢だったので、10歳以上の開きがあった。
私は、3年間担任を持ち、全日制で初めて卒業生を送り出した。その経験が、教師としての私を一歩成長させた。女子高での生徒との関わり方、授業方法を身につけ、精神的な余裕がでてきたように感じている。学年での役割の仕事や、部活動での生徒との関わりは、記憶に残っていない。あるバレーボール部の生徒が、「先生、たまには来てね」と言った言葉は忘れていない。とても聡明な良い生徒であった。
 昭和54年(1979年]、教員生活10年目、吉高5年目、31歳の私は、何の不安もなく、二度目の1年生の担任を持った。しかし、学校を取り巻く環境が大きく変化した。同じ市内に、共学の普通高校の富士東高校が新設され、スタートしたのである。吉高の生徒の質の変化がもたらされた。当時の中学生の学校意識が変わったのである。以前の上位の女子生徒が、富士東高校に進学した。その影響をもろに受けたのが吉原高校であった。また、学校でも、校舎の改築が始まったのである。木造校舎を解体し、新校舎の建設が始まった。新校舎が完成した時には、私は吉高を転勤になった後であった。私がいた最後の頃に、校舎の半分ができた。私は、担任を持ったクラスとあと2クラスの英語の授業を担当した。その1クラスの授業は、プレハブだった。忘れられない。またこのクラスで、女子高の怖さを経験した。そのクラスで、K子は中間試験のできが悪かった。私は、そのような生徒たちを集めて、放課後に補習をした。その補習で、私に対する印象がまったく変わったそうだ。「先生の最初の印象は怖い先生」と、入学時からあったそうだ。確かに、「先生はとっつきにくく、怖そう」との声は、私の耳に入っていた。これは、私の外見、顔つき、態度の印象からきているようだ。実際、最初から好印象を持たれることは少なかった。K子は、補習後、私に好意を持ち、親しみを感じるようになったようだ。そのため、放課後、頻繁に職員室に来ては、私の話しを喜んで聞いていた。女子生徒は一人ではこない。仲のよい友だちを連れて一緒にきていた。その生徒はほとんど黙っていた。K子は、吉高で、一番話しをした生徒である。2年生の時は、自発的に英語の教科委員になった。彼女を通じて、多くの生徒情報を得た。3年生の時は、彼女のクラスを担当していなかったが、話しをしによく来ていた。女子高の怖さを知った出来事は、この生徒と関係している。私の記憶では、彼女が1年生の2学期の始めの土曜日の放課後に、職員室で話している場面を見た同じクラスの生徒A子がいた。A子はクラスでの影響力のある生徒だった。授業で教室に入ったとき、いつもと雰囲気が違っていた。後ろの黒板には、「泥棒猫」と書いてあった。それからの授業はやりにくくてたまらなかった。平然として授業を進めるしかなかったが、内心の動揺は大きく、辛抱の一字だった。K子とA子のグループの対立は、クラスを巻き込み。女性の担任を悩ませた。この出来事は忘れられない記憶である。学年が変わるまで、針の蓆であった辛い記憶である。
 この学年では、分掌で進路を担当した。この年度から進路課に所属した。このときの進路課長が、前述した小林数樹先生であった。私もクラスだけでなく、学年全体のことを考える立場になっていた。学年の進路のことは、私に任されるようになり、生徒に対しても、学年集会等で、進路に関する話しをするようになった。1年、2年と継続していく過程で、担任をしているクラス生徒だけでなく、授業に行っていないクラスの生徒でも、「進路の先生」のイメージが定着したように記憶している。「進路を考えることは、自分の将来の生き方を考えるのが基本」との持論を持っていた。進路は文字通りこれからの進む道のことだが、高校では、進学か就職かの選択だ。教員の世界では、年度末の3月の中頃に、新年度の校内人事のための分掌希望調査が行われる。若い頃は希望がなかなか通らない。昔は担任希望さえ通らなかったと聞いている。学校によって、担任をやりたくてもなかなかさせてもらえない。トップの進学校での話しではあったが。私は、3年生担任で、進路課、英語部を希望した。教頭から、生徒課で、就職・専門学校志望のクラスの担任をやってもらいたい、と内示を受けた。どうしても納得できなかった。教育は、継続して指導するのが基本との考え方であった。そのことを小林先生に話しをした。黙って聞いてくれた。小林先生は、寡黙なタイプの人で、論理的思考力に優れた頭のいい先生で、誠実な人柄であった。私が尊敬していた先生である。私は、教員生活の中で、同僚に対して、「~さん」、時に後輩に対しては「~君」と呼んでいた。小林先生に対しては、「小林さん」と呼んだことはない。プライベートのつきあいでも、常に小林先生と呼んでいた。小林先生は、約20歳年下の私にさえ、「相川先生」と言う人だった。この小林先生が、校内人事を検討・承認する運営委員会で、私の人事に関して、頑として、認めなかった。そのために、その後の職員会議が大幅に遅れた。運営委員会がどういう会議かを知るのは、私が、後の御殿場高校で、図書課長になってからである。意見を出すことはできるが、校長が認めた教頭の人事案を覆すことはできない。小林先生は、それをやったのである。職員会議にでてきた人事案は、私は、進路課で、文系進学クラスの担任になっていた。私は先生にお願いしたわけではない。先生の判断でおこなったことではあるが、先生の気持ちは、生涯忘れることはない。この人事に関しては、K子の情報では、国立・4年生大学志望クラスの担任と生徒は予想していたようだ。私も内心はその希望を持っていた。人事は、人のやることで、人事を担当する人(教頭)の見方で決まってしまう。最終的には校長が決める。
 その3年次のクラスのことを書いておく。以前に持った文系のクラスとは、明らかに雰囲気が違っていた。性格の良い子がたくさんいたとの印象だ。学力的には以前のクラスより劣ることは否定できない。生徒は伸び伸びしていたように思う。私自身怒ったことは一度もないと記憶しているが。真面目で手がかからない生徒たちであった。学習面では物足りなく感じたことも確かである。受験意識が実に希薄であった。結果的には30人以上が推薦で短大に進学した。推薦書の文を書くのに苦労した記憶が強い。この生徒たちは地元志向の方が多かった。この点でも以前のクラスとは違う。私自身も特に緊張感もなく楽しく生徒との触れ合いができた時期だと思っている。クラスのリーダーはE子であった。生徒も私も楽しい時間を共有したとの思いである。その証拠として、この生徒たちの「クラス会(同窓会)」は5年に1度開催され、現在まで続いている。昨年夏のクラス会には私は出席できなかった。体調が悪かった故である。本当に申し訳なかったと今でも思っている。毎回の出席者は10人台であるが、これほど続いているのは珍しいのではないか。このクラス会で、私にとって印象深いのは、私が50歳になった夏のことである。その時の2人の幹事の配慮に感謝している。HAPPY BIRTHDAY 50(吉原高校33HR同窓生)の色紙をもらったのだ。今でも私の手元に大切にある。一人一人のメッセージが懐かしく私の心に届いてくるのである。30人以上が書いてくれている。この生徒たちも、今では50歳を超えたのだ。年齢差が16歳である。どんな人生を送ったのだろうか。これからの人生も長い。振り返った時に、良い人生であったと思えるように祈っている。
 次に、吉高教員の生活面のことを書いておく。吉高教員の間で、一番盛んだったのは、囲碁である。放課後になると、あちこちで、くず箱の上に碁盤を並べて、多くの教員が囲碁をやっていた。その数は、毎日10人以上で、囲碁人口は最大で、20人近くいたらしい。組合員の人たちが、特に多かったようだ。私は、囲碁を知らなかったので、何が面白くてやっているのか、理解できなかったし、関心もなかった。私が囲碁を覚えたいと思ったのは、ずっと後のことだった。30歳を超えて、5年目頃だったと記憶している。その動機は前述した小林先生にあった。先生は、囲碁の中心的存在で、一番上にいたようだ。小林先生と親しくさせてもらったのは、どの時期の頃からは、覚えていないが、吉高生活の後半で、一緒に麻雀をやるようになってからとの記憶である。先生は麻雀も強かった。私は、職員会議で、学校運営に批判的なことも発言した。そのせいか、教員の間で孤立感をあじあう時期があった。同時に着任したKさんたちは、管理職に協力する側にいた。私の発言は、組合の人たちに近い発言になっていた。私は組合に入っていないし、組合に対しても批判的な意見を持っていた。前任校の下田南高校の全日制の組合員の言動には問題を感じていた経緯があったからだが。教育の基本である政治的中立に疑問を感じさせる発言を耳にしていたからだ。吉高に転勤してから、それを感じたことはない。学校によって違うのか、人によって違うのかはわからなかったが。一般的には、組合は、学校運営には野党的なスタンスを取っていた。学校によっては、職員間の対立を生じ、生徒に悪影響を与えているように聞いていた。小林先生も組合員だった。孤立感をあじわっていた時期に精神的に支えてもらったと記憶している。私が囲碁を覚えたいと思ったのは、麻雀以外にも小林先生と共有することを持ちたいとの動機であった。囲碁を覚える環境は整っていた。3歳年上のTさんが、囲碁を覚え始めてまもないことも幸いした。二人で本を読んで学習しながら、碁を打つようになった。囲碁ができるようになるのに、1年間くらい時間がかかったと思う。その間に何人かの同僚に相手をしてもらった。先に始めていた2・3人の同僚よりも上達したようだ。次の赴任校でも囲碁の相手はいた。今は、囲碁が私の最大の趣味で、インターネットで碁をやっている。吉高に転勤してから、年齢が近い教員の中で、よく麻雀をやった。当時は、定期試験の前日は半日で授業が終わった。その日の午後や、土曜日の午後、定期試験中の午後に麻雀をやっていた。私にとって、最大の娯楽であった。また、戦後生まれの若手の教員が、6・7人いて、戦後会を作って、何回かドライブに出かけたりした。スキーを覚えたのも吉高の時である。同僚の教員とその子どもを連れて、野沢温泉の上の平に行ったことを記憶している。この時に、亮は小学生になっていたので、連れて行った。誠は置いていかれて怒っていたと妻が言っていた。誠には悪いことをしたなと記憶している。また、当時の吉高で盛んに行われていたのは、硬式テニスである。数人の教員が、授業の合間に、テニスコートに行っていた。放課後は部活動があるので、もちろんコートを使うことができない。私は中学時代に軟式テニスの経験があるが、私が硬式テニスをやったのは、3年生を持った4年目の2月である。3年生は家庭学習に入ったので、授業がなくなって、時間ができたからである。何人の教員がやっていたか覚えていないが、盛んだったと記憶している。授業の合間での教員のテニスは、職員会議で議論になったようだが、記憶に残っていない。とにかく、吉高生活では、教員で一緒に遊ぶ機会が多かったことは、確かだ。私の場合は、麻雀であった。それで人間関係ができていたように思う。
お世話になった小林先生のことをもう少し付けくわえておきたい。先生は東京の出身で、開成中学、海軍兵学校、戦後東京教育大学出身のエリートとも言える人である。教師としての最初の赴任校は、滋賀県の彦根で、その後静岡県に来て、磐田南高校、韮山高校を経て吉原高校に飛ばされたと伺った。吉原高校での小林先生との出会いは私の教員生活の中で、最大のものとなった。
出合った時の先生の年齢は、47歳くらいと記憶しているが、前述したように、寡黙な紳士のイメージですぐに親しくして頂いたわけではない。私が吉原高校に転勤した最初の学年の主任だったと記憶しているが、この頃にお話した記憶はない。私が進路課に所属し、進路課長が小林先生であった。この頃からの公私にわたりお付き合いして頂いたように記憶している。思い出としては、何人かと信州松本へ蕎麦を食べに行ったり、越前にカニを食べに行ったりしたこと。二人で信州に旅行し、開田高原で先生がスケッチされていた情景が思い出される。岐阜高山から下呂温泉に宿泊したこと。私の転任後に理科の教員と一緒に鳥取の砂丘、伊勢志摩半島へのドライブ旅
行等に声をかけて頂いてご一緒できた思いでは深い。2005年に他界されるまで、30年ほどの長きにわたり御世話になったことに感謝の意は尽くしきれない。
 吉原高校でもう一つ記しておくことは、吉原高校OB囲碁会である。この囲碁会も、毎年6月の第4土曜日に芝川で開催され、現在もなお続いている。16人ほどの会であったが、この10年で5人の方が他界された。ここにも高齢化が進んでいるが、今年は10人の出席者だった。
 吉原で担任として2度目の卒業生を出す前の年に転勤希望を出した。その時点では、長男は伝法小学校に通っていて、次男が幼稚園の年長のクラスで翌年小学校への入学の時期だった。1981年の12月のことである。次の転勤先で定住地を決めようと思って、転勤希望をだした。静岡県の東部を希望していたが、特にこだわっていたわけではないが、移動の経過の中で、転勤はないと言われていたので、3月中頃の内示の時は、放課後のんびりと職員室内の休養室で碁をしていた。その時に教頭に呼ばれて、校長室へ行くようにとのことだった。校長は私に転勤の内示をし、三島南高校だと言われた。すぐに小林先生はじめ何人かの同僚に話し、家に電話をかけた。妻は幼稚園で「先生の転勤はありますか」と聞かれ、「今年はないそうです」と話しをして家に帰った直後のことのようであった。妻も驚いていた。同僚から、大変な学校に転勤だねと言われ、当時の三島南高校はそれ程評判が悪かった学校である。息子の転校、入学の手続き、引越しの準備に追われる年度末との記憶が残っている。年度初めに、三島へ引っ越して行くことになる。1982年のことである。