下田は、私が教員のスタートを切った地である。1970年4月から1975年3月の5年間だ。非常に懐かしく、思い出が深い。この地で、結婚(1972年4月)のスタートも切り、翌年の4月に、長男(亮)が誕生した地である。第二の故郷と言ってもさしつかえない。下田は、観光地である。海に面した自然の美しい地である。この下田は、学生時代に立ち寄ったことがある。大学3年の時に、ゼミの旅行で、修善寺からバスで松崎に、そこから雲見に行って民宿に泊まった。翌日、雲見の小さな山の上にある浅間神社まで登って行き、上から見た海の色がとてもきれいだった。何色もの色だった。その美しさは、私の言葉では表現できない。その海の色に感動した記憶が思い出される。その帰りに、バスで、南伊豆を経由して、下田に着き、下田から電車で帰宅した。下田の観光はしていない。まさか、この地に、教員として赴任するとは、想像もできないことだった。
 私の赴任した下田南高校は、下田駅からと徒歩10分ぐらいで、小さな市街地のはずれに位置していた。(現在は、下田北高校と統合し、下田高校となり、跡地は病院になっている)この学校には、全日制と定時制があった。全日制は、女子の普通科と、共学の商業科が併設されていた。この学校の定時制は、単学級で、1年生から4年生まで、120人くらいの規模の学校だった。
(私が転任する頃は100人程度に減っていった)私が赴任した当時は、昼間、働き、夜、学校にくる生徒たちの集まりであった。中学を卒業し、就職して、同時に定時制に入学した生徒である。中には、働いている途中で、勉強したくて通っている年長の生徒もいた。私と同じ年のN君である。実に真面目な生徒であった。下田には、観光産業以外に、これといった産業はなく、唯一下田ドックという船の製造・修理をする会社があった。その会社で働く生徒や食堂・観光店で働く生徒である。そのほかには、国立湊病院で働く準看護婦の生徒がいた。生徒は、経済的理由、及び家庭事情で、昼間の高校に通うことができなく、向学心は持っていた生徒。また学力的には劣る生徒も多く、その幅が広かったと記憶している。いい生徒たちばかりではなく、社会の底辺に置かれ、屈折している生徒もいた。どの生徒も、社会環境に恵まれてはいなかった。働きながら、学校に通うのは、大変なことだ。その辺のところが、私には実感としてわからなかった。私も経済的に恵まれた環境で育ったわけではないが、あまりにも生徒とのギャップが大きかったことは確かだ。
 先生と呼ばれるには未熟な人間であった。ただ若いことだけが、とりえであったかもしれない。その私が、街で「先生」と初めて、声をかけられた時に、誰のことかと思ったと記憶している。
私は、自分なりに充実した学生時代を過ごした人間だが、社会的経験には乏しかった。アルバイトで経験したことしかない。但し、学生にしては、年上の人と話しをした経験はあったように思う。それが活かせるかどうかであった。生徒は、私よりも社会経験が豊富で、私よりもずっと大人であった。特に、上級生はそうであった。そのような生徒たちと接し、教壇で教えることになり、教える技術もノウハウも知らない私にとって大きな壁となった。この壁を乗り越えるのに多くの時間を費やしたことは言うまでもない。教員人生の試金石になったと言えるだろう。とにかく、全てが「試行錯誤」だった。教科では、1年生から4年生までのそれぞれの教科書を引き継いだだけで、前任者からは、特別のアドバイスもなく自由にやればいいと言われただけであった。前任者がどのような授業をしていたのかも全く知らされなかった。全てが白紙の状態であった。そんな状況の中で、私の教師生活がスタートした。教師は教科を軸に、校務分掌の仕事がある。学年、分掌、部活動等の教育活動である。私は、新卒で2年生の担任になった。新卒での担任は通常行なわれないことである。後で知ったことだが、この学年の元担任が残っている状態で、担任を新卒の教師に代えることは異例のことである。元担任と生徒の関係がうまくいっていないために、新卒にやらしてみようということが、真相のようだった。私にとっては実に迷惑なことだった。分掌は生徒課に所属し、主に生徒会活動が中心の業務になった。部活動は卓球部の顧問になった。もちろん授業に対する悩みは大きかったが、それ以上に、担任としての生徒との関わりに悩み抜いたと言える。5月頃には、ノイローゼ状態になりかかっていると感じる程になっていた。生徒との関わりを求めて、この世界に入ってきた私だが、自分の想像と現実の大きな違いのギャップに悩み苦しんだ。あまりにも生徒とのギャップが大きかった。私は、生徒のことを知ると共に、私のことを生徒に知ってもらうことに力を注いだ。ホームルーム及び授業で、「本音で正直に自分らしく」話すことだけを心がけて実践した。後は、時間をかけて信頼を得ることだった。生徒との個人面接も大切にしたつもりでいる。生徒との相互理解には、個人面接は不可欠である。面接の時に、話しをしてくれる生徒もいれば、ほとんど何も話さない生徒もいた。ともかく時間をかけて信頼関係を築くしか方法はなかった。時間に関して、結論すると、2年間かかったように思う。その間に、残念ながら定時制を去る生徒もいたことも事実である。定時制は、ともかく卒業するまで頑張ることが大変なことだ。全日制では当然のことになっていることだが。ここに、全日制と定時制の根本的な違いが表れているように思う。定時制の生徒が卒業したときの喜びを理解できる人は少ないと思う。私自身は、生徒を通じて感じたことである。この経験は、その後の教師生活で感じたことはない。私は、現在の定時制のことはよくわからないが、私の接してきた生徒たちは、卒業まで困難な道を歩いたことは確かである。
 私の授業について触れておくことにする。私は、大学時代に、教育について勉強してこなかったので、基本的な知識は全くなかったと言える。教員採用試験の勉強さえしなかった程である。恥ずかしい話しではあるが、事実である。大学後の進路について、自分自身に問いかけ、自己の適性を考えていく過程で、消去方で選んだのが教師の道である。積極的な面では、話しができる人との関わりを持ちたいとの想いであった。これは学会活動の中で、自分で学んだことである。
授業の方法さえ知らない者が教師になったのだから、教えることに悩むのは当然なことで、ゼロからのスタートである。ともかく授業はどうしていいかわからなかった。自分が過去に教わった経験からスタートするしかなかった。とは言っても、進学のための授業しか経験していなかった。まさかそういう授業をするわけにはいかなかった。定時制の英語のテキストは易しめのものを使っていた。私が教わってきた旧来の文法訳読式の授業しかできなかった。指導主事の参観授業でも、その点を指摘されたことは忘れない。と同時に旧来の授業としては、成功だが新しい授業への試みが必要だと言われた。しかし、「君の英語の発音と板書はどこにいっても通用する」と言われたことは、強く記憶に残っている。とにかく生徒がわかる授業にしたいとの思いが強かったことは確かだ。上級生のなかには、私の授業を新鮮に受け取る生徒もいたが、最初は、どうもわかりにくい授業だったようだ。受験勉強の弊害だったように思う。大学でも、教科教育法でも、まともな授業はなかったように記憶している。どんな講義が行われていたかまったく覚えていない。教員養成の大学ではなかったから無理もないことかもしれない。教育学部のある学校では違っていたのだろうと想像している。唯一の経験は、教育実習である。それもわずか2週間であった。大学の紹介で、川崎の駅北にある中学校で実習を行ったが、どんな授業をしたのか覚えていない。
生徒と触れ合う楽しさを感じた記憶が残っている。授業に関して、特別なアドバイスをしてもらった記憶もない。一人で考えた授業をしたとの記憶だ。ここで思い出したことは、中学には英語の先生がそろっているわけではなかった。体育の先生が英語を教えたりしていた。自分ではいっさい発音しないで、テープを使っていた。これでは問題だと感じたことである。語学は、先生の肉声が不可欠である。生徒は真似をするのだから。「学ぶはまねぶ」である。私も、中学1年生の時は、若い国語の先生に教わった記憶がある。先生の影響は大きい。
 私の授業と生徒とのギャップを痛感させられ、生徒の実態に合っていないことを知ったのが、最初の中間試験の結果である。平均点が20~30点の間と記憶している。私自身も愕然とし、反省する自己評価をしたことを覚えている。定期試験は生徒の評価だけではなく、教師自身の評価にもなる。反省の結果としての結論は、「わかる授業」のために、教材を研究する努力をするということに尽きる。私が心がけたことは、授業プリントを作成し、板書の仕方を工夫し、分かりやすく説明することだった。この方法は、私の生涯の授業の基本になった。
私は、授業の中で、余談・雑談を交えた。余談・雑談だけで45分(定時制)の授業を終えることもあった。善悪はともかく、私のことを知ってもらうために、自分の経験や考え方をよく話しをした。私は、おしゃべりではないが、話し好きなタイプの人間である。本音で正直に話すのである。残念ながら、教師の中には、建前で話し指導するタイプが実に多いと感じている。立場を重んじているのだ。教師社会に限らず、一般社会も同じだと思うが、人間の一般的傾向と言える。例えば、教師の中で、生徒に話しかける時に、「先生は~だと思う」と、先生の言葉を頭に使う人がいる。個人的に、私は、このような話し方を嫌っている。子どもを対象にしている場合には、問題ないと思うが、高校生は子どもではないとの見方を私はしているからである。生徒に対して目線が上にあり、立場や建前で話す傾向が強いと私は感じている。教師と生徒は、同じ人間で対等であって、上下関係にはないのである。ここを理解していない教師が少なからずいるのが現実である。教師と生徒は信頼関係が基本である。信頼なくして教育は成り立たない。私は、教えていく過程で、生徒から学んだことである。私が、正直に本音で話していることを徐々に生徒は理解してくれたように感じる。そして、私の話しを好意的に耳を傾ける生徒が増えていくと共に、生徒との溝が少しずつ埋まっていくように感じた。ある生徒は、私に、「先生は、先生らしくない」言った。私は、その言葉を好意的に受けとめている。私自身、一般的な教師タイプに見られることを嫌うと共に、私の個性と自負している。
 私の記憶に強く残っていることとして、人事異動希望の件がある。私自身、早く定時制から転勤したいとの想いが強かったことを認めなければならない。生徒が抱いているコンプレックスと同じような意識がスタートから持ち続けていたことも事実である。人事異動希望調査と管理職との面接が、毎年12月に行なわれる。2年目に、人事異動希望を出すことに悩んだことを鮮明に記憶している。人事異動希望を出しても転勤はないことはわかっていたが、要は気持ちの問題である。気持ちの揺れが実に大きかったと言える。私自身の心の葛藤である。生徒を見捨てて、自分の希望を求めるのか否かであった。一ヶ月ぐらい気持ちが揺れていたように思う。それが、1月中頃に気持ちの整理がついた。人事異動希望を出さなくてよかったと感じられる自分になった。嬉しいと感じた。私は、「今のクラスの生徒を卒業させたい」との気持ちが強くなり、そういう人間になれたとの想いであり、現実逃避を乗り越えた喜びである。気持ちが楽になり、「生徒のため
に」との気持ちが強まった。同時に、定時制で教えることで、自己の成長があったと素直に思えるようになった。ここまでくるのに、約2年かかったが、3年目からは、精神的には何の負荷もなく楽しく生徒と関わり、クラスの生徒を卒業させることができた。喜びの涙が溢れる卒業式を迎えることができた。私も感動し、定時制の生徒を教えることができてよかったと心から思えた。
卒業の時に、ある生徒は、「先生がいなかったら、卒業までこられなかった」との感謝の言葉をくれた。また、ある生徒は、3年間で初めて口を開いた。「先生は、えこひいきをしなかった」と。
担任として最初の卒業生を出して、転勤希望を出してもよかったが、結果として、5年間定時制にお世話になった。定時制での教師生活は、その後の長い教師生活の原点となり、基盤となった。
教師は、担任を持ちその生徒たちを卒業させることの大事さと授業が命であることを身をもって学んだのが私の定時制での教師生活であった。
 次に、生活面について触れることにする。私は大学時代、家から通学していたために、家を出てからの生活をしたことがない。初任教員として赴任した下田では、独身寮に入り、2年間、そこで生活した。独身寮には、全日制と定時制の教員が入り、食事の世話をしてくれる寮母さんの家族がいた。そのために、食事の心配はしなくてもよかったが、全日制の人たちを中心にしていたので、定時制の人たちが帰ってくるときには、充分な食事が残っていないのが、通例になっていた。定時制での勤務は、午後3時の打ち合わせで始まり、授業が5時半から9時半、部活動が、1時間程度で、帰宅が11時頃になるのが通例で、学校から寮までは、徒歩10分くらいの距離であった。打ち合わせは、1時間以上に及んだ。当時の定時制の責任者であったI主事の炉辺談話と称する教育雑談が大部分を占めていた。定時制では、I天皇と呼ばれるほど絶対的な力を持っていた先生である。I主事は、(主事は現在の教頭)若手の教員育成を使命と考え、さまざまな教育界の情報を提供し、私たちを指導していた。定時制専任教員は5人で、事務の女子職員とI主事を含め、7人の少人数の構成であった。全日制の教員が講師で、いくつかの教科を担当していた。昔は、専任教員は配置されずに、全日制の教員が交代で授業していたとのことだった。I主事はその頃からずっと定時制の責任者だったようだ、I先生は、「この定時制で通用すれば、どこでも通用する」とよく言っていたことを記憶している。私は、昼間はよくボーリング場に行っていた。夜帰ると、全日制の先輩教員が、私と定時制1年先輩のSさんを麻雀に誘うことがしばしばあった。私は、大学時代にほとんど麻雀をしたことがなかったので、多少知っている程度だった。ずいぶん先輩たちに、鴨にされたとの印象が残っている。また寮の食事が合わなくて、帰りに、寿司屋によく立ち寄ったことが懐かしい。私は、酒が飲めないので、他に行く場所がなかったためなのだが。たまには、事務の女の子に付き合ってもらうこともあったが、一人で行くのが通例になっていた。寮では、1年先輩のSさんと同居生活(1階がSさん、2階が私)で、わたしはテレビを持っていなかったために、下で一緒にテレビを見たり、よく話しをしたが、ことさら書くほどの独身生活ではなかったと言える。生活の中心軸は、現実の教員としての仕事の世界にあったからだと思う。
 3年目の4月の末に結婚し、独身寮から近くにある家族集合住宅に移った。この住宅には、下田南高と北高の教員12所帯の家族が入っていた。私にとっては、妻との新婚生活のスタートであり、懐かしく思い起こされる所である。妻は、初めての慣れない所からの生活である。その生活も、夜間定時制という通常ではない生活スタイルである。朝は遅く、夜の食事は、11時過ぎてからの日々の生活である。妻は、「夜は私が帰るまでとても寂しかった」と後になってから、私
に言ったことである。妻にとって、1年目はさぞ大変だったのだろうと今にして思い返される。
その頃の私は、自分勝手の生活をしていたように思う。土曜日には、真夜中に、独身の同僚を家に呼んで、朝まで麻雀をよくしていた。麻雀は、私にとって、同僚との人間関係における潤滑油の働きをすることになっていた。その潤滑油との考え方は、その後の教員生活でも同じである。同僚との人間関係を結ぶには、何か共有するものが必要だと考え、その手段が、私にとっては、麻雀だったのである。妻は、私のそのような生活を強いられたが、私に何の苦情も言わなかった。俗に言う甘い新婚生活とは違っていたように思う。結婚して2年目の4月に長男(亮)が生まれた。それからは、妻は、子育てと家事に忙しい日々になった。私は、家のことは、妻任せで、子育ても同じだった。今の人たちには、考えられないことだろう。亮はとてもかわいい赤ん坊だった。よく女の子と間違えられたと妻から聞いていた。亮は、逆子で生まれ、斜頸になる心配をし、病院で見てもらったり、枕に砂を入れて、首をまっすぐにするようにして寝かしたりした。妻は、お風呂の後に、亮の首のしこりを丁寧にマッサージする日々が続いた。幸いなことに、1年後には、完全にしこりがとれて直ったので、安心したことを記憶している。亮のことで、私がいまだに鮮明に記憶として残っていることがある。1歳くらいの頃、歩き始めるようになり、住宅の前の坂道をヨチヨチ歩く姿の光景である。とてもかわいい光景であった。また、この頃に伊豆に大地震起こった。日にちは忘れたが、朝の8時半ごろで、全日制では、朝のホームルームの時間だった。私たち夫婦は、亮を抱きかかえたままじっとしているしかなかった。揺れは1分くらいだったが、とても長く感じた。その時の地震は、体感で今でもよく覚えている。その後の地震の尺度となった。この直下型地震で、南伊豆で山が崩落して、死者が出る程だった。下田市内でも、家屋の被害が出て、記憶に残る大地震だった。
そんな経験をしながら、3年間教員住宅で過ごし、転勤で、富士市の吉原に移動することになった。初めての転勤で、希望と不安が入り混じっていた。県東部にある全日制普通高校の希望であった。一番の不安は授業にあった。定時制では、高校としては、易しい教科書を使っていて、5年間の間に慣れてしまっていたからだ。定時制で行なっていた授業で、全日制で通用するのかどうかであった。実は、この不安は定時制にいる間ずっと抱えていたことだ。生徒との人間関係については、何の不安もなかった。定時制で身につけたことで、充分やっていけるとの確信があったからだ。しかし、転勤先は女子高校なので、何の知識も経験もない学校であった。女子高はどんな学校なのか想像もできなかった。「女の園」とのイメージしかなかった。私にしても、まだ27歳の若さであった。教師として、女子生徒だけの学校でやっていけるかどうかという不安は感じていた。私の友人は、女子高ということだけで、うらやましいと言っていた。男にとって、女子だけの世界は、興味があるようだ。私には、そのような興味・関心はなかったように思う。また、新たなるスタートとの気持ちであった。定時制の職員の年度末の打ち上げの会が、土肥の近くで行なわれ、その翌日の朝、フェリーで土肥から田子の浦へ行き、そこから吉原高校までタクシーで行き、新年度に向けた最初の会議に出席したと記憶している。3月の下旬であった。
転勤に関して付記しておくと、実は前年に移動の話しがあった。一つは、隣の下田北高校からの誘いであった。この学校には3年目に、臨時講師として1カ月ほど教えたことがあった。その2年生の中には、私が個人的に教えていたS子ちゃんがいたのであるが、彼女は心配そうな表情をしていたことが思い出される。彼女は近所に住むお母さんから個人教授の依頼を受け、最初の1年は御宅で教え、私が結婚してからは、私の家で教えていた。麻雀の後では、私が途中で居眠りしたりしていたが、その間は自分で勉強していたようだ。その子には色々な話しをしたように思う。もちろん内容は忘れているが、定時制の生徒に話したことと変わらないと思う。私の基本姿勢は変わらない故である。その子(今ではいいおばさんではあるが)とは年賀状のやりとりはずっと続いている。この1,2年は手紙のやりとりもしている。彼女も苦労の人生を送ってきたようだ。人生の道は一人一人違う。それぞれの人生に価値があるように思う。人は苦労した分だけ幸せになる権利があるのだ。苦労こそ人間の内面を磨くのであると、私は信じている。私も苦しんだ分だけ成長し、人の気持ちがわかるようになったと思っているのだが。もう一つは、転任した校長と同じ学校(熱海高校)のようだったが、二つとも伊豆からは出たいことを伝えて、事前に断った経緯があるのである。一度断るとその年の人事異動は無くなるのが常で、更に1年定時制に残ることになった。私は定時制を出たかったのではない、教員生活の将来を考えると、転勤しなければならないのである。転勤も教員としての研修である。その後、初任から10年で3校を経験する原則ができたのである。私の時代も初任校は3、4年が普通であった。転勤が1年延びたので、1年生の担任をすることになった。その学年の卒業次(卒業式には参列した)の担任が、私が御殿場南高校で定年になり、その後退職する沼津城北高校で、再任用教員と校長として再会する不思議な縁があった。
ともかく、私にとっても、私の妻にとっても思いで深い地が下田である、昨年下田セントラルホテルに宿泊する機会があったので、帰りに、私たちが住んでいた学校住宅を訪れたのである。
また勤務先の学校の跡地を確認し、病院に変わっていることを知った。記念に両方とも写真に収めている。そして市内を一回りして下田を後にしたのだ。昨年の5月の始めのことだ。その後私の体調が悪化していくことになる。それから今年の8月まで続いた。8月に入ってから長いトンネルからやっと抜けだしたのが事実である。二度とトンネルには入りたくはないが、自分ではコントロールがつかないのもまた事実である。3年以上にわたる診療内科の治療は今年の3月で、医師と相談してやめたことを記しておく。