これから書く内容の概略は、私が勤務したすべての学校で、多くの生徒に、授業の中で、話したことで、その生徒たちの記憶に残っていることだろうと信じる。ここでは、詳細を書く。
この出会いには、私の大学時代からの親友である大泉とのかかわり抜きでは語れないことである。彼との付き合いは長い。彼の家には何度もお邪魔して、ご両親、妹さんとも親しくしてもらい、とてもお世話になった。結婚のときには、ご両親に仲人をしていただいた。その彼の結婚披露宴で、悦子を見かけた。着物姿で、感じのよさそうな娘(こ)との印象を持った。その二次会で、悦子とは知り合った。ここでは、名前の悦子として書くことにする。その二次会は、大泉の新居になるアパートで行われた。実に古いアパートだった。そこに、大学の友人、後輩が集まり、結婚を祝う会として、盛り上がったのだ。そのときに、どういうわけか、大泉の関係者以外の中に、悦子がいたのだ。私の右隣りにすわっていたこと、左隣りには、妹の秀子ちゃんがすわっていたこと。いわゆる両手に花だ。そのときの情景は。今でも目に浮かぶ。みんなが酒を飲みよくしゃべっていた。翌日の明け方近くまで。もちろん明け方近くまで騒いでいたのは男だけだが。狭いところに10人ほどで。途中夜中に、女性5人は、前もって借りていた空き室へと移っていった。よく悦子は、大泉の奥さん(道子さん)しか知らないところにいられたと思う。誰一人として知人がいなかったのだから。私はお酒が飲めないし、初対面の人とうまく会話をするのは苦手のほうだ。悦子も同じだったと思う。そんな二人が隣あわせていても、あまり話すことがなかった。たまに日本酒のお酌をしてくれる。それを飲んで、私は顔を赤くしていた。私は、酒席は嫌いではないが、お酒は体質に合わない、飲むと頭が痛くなるのだ。それでも、このときは少しだが口にしていた。二人にとってどんな空間だったのだろう。私は、妹の秀子ちゃんとよくしゃべっていた。彼女とは大泉の家で何回も会っていたので、楽に話すことができたのは確かだ。悦子はどんな気持ちで、その場にいたのだろう。でも、私は、悦子のことを意識していたことも確かだ。悦子はどうだったのだろう。私に分かるはずがない。
翌日、私は友人たちとボーリングに出かけた。そのとき、悦子は残って、大泉の奥さんと話しをしていたようだ。悦子は道子さんとの関係で結婚式に来たのだ。ボーリングから帰ってきて、私は学校(定時制)に行かなければならないので、みんなより先に帰ることにした。帰る時に、道子さんに悦ちゃんを呼んでほしいと言った。そこで悦子に「僕とつきあってほしい」と言い、悦子はためらっていた。悦子は「違いすぎるから」と言った。私はその違いを否定して、いろいろ彼女を説得する話しをした。1時間ぐらい話したと記憶している。その結果、10日後の秋分の日に、横浜で待ち合わせて会う約束をした。そして帰っていくときに、狭い道から、広い通りに出るまで、じっと立って見送ってくれたことは、実に印象深く脳裏にやきついている。
10日後、横浜で会い、喫茶店に入った。その喫茶店の2階が同伴席(今の人にはわからないだろう)になっていて、そこへ入ってしまい、とまどいながら、話しをしたことを覚えている。その後、映画を見に行った。その映画のことは覚えてない。その夜、中華街で、食事をし、その後、夜の山下公園(デートスポット)でいろいろな話しをし、軽いキスをしたことを鮮明に覚えている。その後、私の卒業した大学のある金沢八景駅まで電車で行き、家の近くまで送ってから川崎の自宅に帰った。その翌日も悦子に会ったと記憶している。
 その当事はまだ車社会になってもいなく、もちろん携帯電話もなく、固定電話で連絡を取るしかなかった。私は、下田の独身寮に住んでいて、個人の電話などなかった。伊東に住んでいた大泉から学校に電話がきた。悦子に結婚の話がでているとの連絡だった。悦子が家に帰ってから(最
初のデートの前)両親に結婚式の様子を話し、私のことを話したらしい。それで父親が、Kさん
(私は知らない)から、父親に結婚を申しこみ、父親が悦子に言ったらしい。もちろん、このことは、あとから知ったことだけど。そのために私とのつき合いに反対だったのだ。どこの誰だかわからない男が突然現れたのだから。父親は、昔かたぎの職人気質の人である。9月23日の秋分の日のデートはしょうがないが、あとは許さないとのことのようだった。その様子を道子さんの実家を通して、大泉が私に伝えてきたのだ。「お前どうするのだ」と言われても、悦子とは一度デートしただけである。そこで、悦子の家に、学校の電話機を使って、電話をしたところ、父親が電話にでて、私が何回も頼んだが、悦子を電話に出してくれなかった。そのため、私は腹が立って、言った。「親だからといって、成人した娘をとめる権利はない」と。その言葉が父親をさらに怒らせてしまった。悦子とは、電話で話すことはできなかった。その後、大泉から電話があった。今度のことで、母親の具合が悪くなったこと、そして私の決断を促した。私は、悦子につきあいたいと言って一度デートしただけで、結婚のことは考えていなかった。もちろん無責任につきあってほしいと言ったわけではないが。ただ悦子の気持ちは知りたかった。私に好意を抱いたことは間違いないと思っていた。私も悦子に好意を抱いていたことは事実である。お互いの第一印象がそうだったように思う。悦子がそのKさんと結婚を望むならそれでいい、直接その気持ちを聞きたかった。私は、相当迷ったように記憶している。私は、結婚すると決めたら、プロポーズをし、それから家に行って親に会い、娘さんを下さいと言う考え方をしている人間である。その私が、二者択一の判断をせまれたのである。母親のお見舞いに、悦子の家に行くかどうか。私は親友の金成(東京に住む)にも相談した。彼は、もし家に行くなら、その前に会おうと。この期間は、わずか10日である。私は家に行く決断を下した。おそらく10月の初めだろう。ある朝、下田から伊豆急行に乗り、熱海で東海道線に乗り換え、横浜に向かい、横浜で金成と会って話しをした。その金成が、公衆電話で、伊東の大泉に電話をかけた。すると悦子が、伊東の大泉の家に来ているとのことであった。東海道線ですれ違っていたのだ。そこで急いで伊東に引き返すことにした。私たちが出会った古いアパートに行ったときは、ざんざんぶりの雨だった。アパートの玄関をノックしても誰も出てこなかった。しかたなく雨にぬれながら、裏にまわった。すると部屋の中に、一人ぽつんと寂しそうにしていた。鍵を開けるように言って部屋に入った。悦子をただ抱きしめるしかなかった。そして話しをした。本当の気持ちを知りたかった。私は、悦子に「今、結婚のことは考えられない。ただ付き合いたい気持ちだ。時間が必要だ」と言ったと記憶している。悦子は、「先のことはともかく、私の負担にならなければ、私についていきたい」と言ったと記憶している。この状況は鮮明によみがえってくる。このときに、結婚が決まったようなものだと、今は思っている。
この後、母親のお見舞いに家に行くことになる。家に行って両親・姉妹・弟に会った。母親の第一印象が強く残っている。この母親の娘なら大丈夫だと感じた。母親もこの人ならと感じたようだ。もちろん父親とも話した。その父親は人がよさそうで、職人気質の感じがして、私の父親とは、まったく違うタイプの人だった。状況は、私が結婚を申し込みに行ったようになっていった。「父親はこの件を知っているのか、またどう考えているのか」と聞いてきた。私の父親と私は違うし、私が決めたことに対して、反対はしないと言っても、信じてもらえなかった。私はこの辺に戸惑いを感じた。しかしどうしても私の父親に会いたいと言って退かなかった。その夜川崎に帰って、私の父親にあらましを話し、横浜の家に行ってほしいと頼んだ。父親は了解してくれた。次の休みの時に、二人で横浜へ行った。そのときの状況は、悦子の父親のペースで話しが進んでいまい、結婚の話しになってしまった。よく私の父親は黙って我慢してくれたと思う。家に帰ってから、父親に礼の言葉を言ったことを記憶している。私の父親は、明治時代の最後の生まれで、一度言い出したら、絶対にあとに退かない頑固で、短気な性格である。父親は、「息子のお前が何も言わないのに、親の俺が言うわけにはいかない」と言ってくれたことに感謝している。ずっとあとの話だが、父親の死に際して、葬儀参列者への挨拶で、私は、頭が真っ白で、どんな父親だったかを何も言えず、まともな挨拶ができなかったことが思い出される。そのときに、悦子の父親がよくしてくれたことは忘れない。世話好きな面倒見のいい父親であった。話題がそれたが、流れは結婚へと進んでいったのだ。ここまでの話は、悦子と出会ってから一月しか経っていない。この時点(1970年)では、私が教師になって半年ぐらいのことである。実際に結婚するまでに、約1年半の時間をかけた。お互いのことをよく知るための時間が必要だった。とはいえ、横浜と下田の遠距離の付き合いだ。会えるのは月に一度か二度である。会うたびに、私の生き方や考え方の話しをしていたように思う。そこに違和感が生じるようでは結婚できないと思っていた。大学時代の交際のところでも書いたが、I子とでは、結婚までいかなかった理由は、お互いの微妙なずれにあった。私は、「結婚とは、夫婦が無理なく、自然で楽な心で、仲良く同じ道を歩いていく」ことだと考えている。その考え方はずうっと変わらない。私は、生徒にも、「結婚と恋愛は別だよ」と言ったことがある。特に女子生徒に。「恋愛と結婚がつながれば望ましいけど」とも言った。今でもそう思っている。異性を好きになることは幅が広い。しかし、結婚は、現実に一緒に人生を過ごすパートナーとの共同である。その幅は狭いのである。勢いだけでは駄目だ。それで失敗している例はたくさんある。また、赤い糸で結ばれているというような甘い考えでは駄目だ。お互いに何かぴんと感じることは充分あると思う。ともかく、生育過程、お互いの文化(家庭)が異なる者が一緒に生活する現実の生活は厳しい、その現実生活の中で、二人で同じ方向を向いて、同じ道を歩くのである。お互いを思いやる心が大切なことは言うまでもない。共に努力することである。その努力が苦にならないこと、つまり自然で無理なくということだ。私の結婚観になってしまったが。したがって、私たちは甘い恋愛をしてきたわけではない。甘い部分を書くと、二人で、結婚前に宿泊旅行したのは、2回ある。1971年の夏休みに、二人で高山へ行く予定の旅行は、悦子が親をうまくごまかせなくて中止になった。この頃は、女の子を持つ親の目が厳しく、今の親ほど、宿泊旅行に寛容的ではなかったことは、確かである。悦子の父親は、昔かたぎのため、正直に言えば駄目にきまっていた。それを悦子は言ってしまったらしい。そんなわけで、私一人で旅行に出かけることになった。高山から宇奈月に行って泊まり、翌日、黒部ダムに行き、その後、金沢に立ち寄り、たまたま知り合った女の子と夜の電車で京都に行き、朝すぐに帰ってきた記憶がある。一人旅は、生涯その1回だけである。悦子との2回は、大泉の奥さんの道子さんの協力で、群馬の水上温泉に行ったときと、伊豆の河津に行ったときである。そのときに、夕方、湯ヶ島のところで、私のクラスの生徒に偶然出会ってしまったのだが。その日は湯ヶ島の旅館に泊まった。その翌日の帰りに、伊東の大泉宅により、泊めてもらった記憶がある。結婚する前の3月の春休みのことである。また、もう一つ記憶に残っているのは、1972年1月に高熱を出した時に、母と一緒に下田の私の独身寮に来てくれて看病してくれたことである。要するに、出会ったのは、昭和45年(1970年)9月で、結婚は、昭和47年(1972年)4月29日。昭和天皇の誕生日であり、現在の昭和の日である。結婚して40年の歳月が過ぎたのだ。金婚式まで残り8年である。お互いに健康であることを願いつつ。