私は、大学時代は、女性のことを取り立てて語れる事はあまりない。異性に時間を割くほどの時間もなかったし、その意思もあまり強くなかった故である。それでもガールフレンド程度の付き合いはした。大学2年の夏休みに、家庭教師として、一月教えたF子さんとの淡い恋心を互いに抱いたことが、強い記憶として残っている。8月に週2回家に行って英語を教えたが、2時間程度教えた後に、雑談している時間のほうが長かった記憶がある。正直に言うと、私が17歳の高校2年生に一目惚れしたということに尽きる。彼女も私に好意を持ってくれたようだ。雑談の時間がお互いに実に楽しかった。8月の終わりごろに、川崎の読売ランドに遊びに行った思い出が残っている。その後だったと記憶しているが、夜のシンフォニックジャズコンサートに連れて行ったことを鮮明に記憶している。楽しい演奏会であった。母親は、少し心配していたようだが。その家は母子家庭で、母と妹の3人家族である。父親を早くに亡くしている。彼女は母親に似ていないので、父親に似ているのではと思っていた。時間は夏休みに戻るが、8月の20日頃と記憶しているが、彼女が高校の友だちと二人で、2泊3日で長野県へ旅行に行きたいと言っていた。母親は、女の子二人での旅行に、不安を感じ心配していた。私も同じように感じていた。ちょうどその頃、私が大学のゼミの合宿で、長野県の山田牧場に行くことになっていた。それで長野への旅行を私のゼミの合宿に合わせるように言った。すると、彼女は友だちと相談してみると言い、その結果、その友だちと渋谷で会うことになり、渋谷で待ち合わせて、喫茶店で会って話しをしたことを記憶している。その結果、二人は私の予定に合わせて、旅行することになった。山田牧場で二人に会う時間はあまり取れなかったが。朝牧場で明るく挨拶をして話しをしたことが思いだされる。この3日間は天気にも恵まれ、高原のすがすがしい空気を味わったことが印象深い。私は、ゼミのことで忙しかったので、あまり相手をしてあげられなかったが、彼女たちは充分に旅行を楽しんだようだ。彼女たちは、もう一泊したいと言ったが、私は、母親が心配しているから駄目だと言って、二人に帰るように言い、バスで白根山の山頂まで送り、二人は草津を経由して帰って行った記憶が鮮明によみがえってきている。とても楽しい思い出である。そのときに、彼女たちに、「11月下旬にある高校の文化祭に来てください」と言われ、最寄りの駅まで迎えに行くからと約束させられた。その約束は守ったが。その前の11月上旬に私の大学の学校祭があった。そのときに、彼女を大学へ連れて行き案内した思い出がある。その下旬に、約束どおりに高校の学園祭に行った時に、彼女たち二人が喜んで出迎えてくれた。そして二人で学校を案内してくれた。彼女とは一緒に帰ることになり、わたしは、帰りのホームルームが終わるのを待った。彼女が戻ってきたときの様子が変わっていた。どうしたのだろうと思いをめぐらせた。一緒に帰っていくとき、電車の中でもほとんど口をきかないままだった。その状態で家までおくることになった。その後彼女は私に会うことを避けるようになった。その理由が分からなくて、私は悩んだ。この年代の女の子の心理を知りたかったが、その方
法がわからなくただ悩んでいたことが、脳裏によみがえってくる。その後、大学4年の正月に、何の用事があったのか忘れたが、一度だけ彼女の家に行って少し話したのが最後である。
大学2年の12月に松坂屋でアルバイトした時に、ヘルプしてくれた女の子がいた。名前も思い出せないが、たしか彼女と大学3年の夏まで、プラトニックな交際をした記憶があるが、月に1回ぐらい、学生部の活動の合間にデートした程度で、深入りは避けた記憶がある。またその年の冬休みに横浜の京浜デパートで、高校時代の友人S君と一緒にアルバイトしたと記憶している。そのときに、知り合った女の子と2・3回デートした記憶があるくらいだ。S君と一緒にアルバイトをするのは2度目であった。ここで思い出したことがある。大学1年の夏休みに、高校時代のそのS君とK君と3人でどこかにでかけようという話しになった時に、S君が箱根の小涌園でアルバイトのために、その計画がとりやめになり、K君が東京のはずれの戸田橋(基点)から長野駅まで(210キロ)、歩いて行こうと私を誘ったけど、いったんは断ると、一人でも行くと言うので、断りきれなくなった。よく覚えているが、真夏の炎天下、寝袋を担いで、まるで登山に行くような格好で、8月1日に二人で出発した。国道をただひたすら歩き、1時間歩くと、10分の休憩で、1日
10時間(40~50キロ)をめどに歩いた。二人で出かけたのに、一緒に歩いた時間は一度もなく、それぞれのペースでひたすら歩く。まるで何かの修行をしているような感じであった。汗をかきながら、炎天下の車の往来の激しい国道を歩き、1時間をめどに、冷房のきいたドライブインに入って休憩する。その時に、少し話しをする程度である。日が暮れ夜になってから、近くの学校を探して、どこでもいいからと言って泊めてもらった。1日目は、深谷女子高校で、当直(この制度は私が教員になって数年でなくなった)の先生に、学生証を提示して、一晩泊めてくださいと頼んで、泊めてもらったのが保健室であった。その当直の先生の関係する人が、私の大学とのかかわりがあるとのことで、快く泊めていただいたことを記憶している。2日目の夜は、軽井沢の手前の峠の釜飯で知られている所で、その近くにある横川小学校の当直室に泊めてもらった。その時に、私は39度を越える熱をだしていた。振るえがでて苦しい思いをした記憶として残っている。当直の先生はとても親切にしてくれ、色々な話しをしてくれた。3日目は国道を離れて山道を軽井沢に向かって、熱が下がらないまま、ひたすら歩き、途中で道に迷っているのではと心配しながら歩いていた。日が暮れるとともに不安と寂しさを感じ、やっと車の音が遠くに聞こえた時に、ほっと安堵したとの思いが強烈に残っている。その夜は、軽井沢のバンガローに泊まった、一夜明けて熱もおさまってきた。途中で何度やめようかと思ったことか。国道を歩いているとき、何回もトラックが止まってくれて、どこへ行くのかと尋ねられ、乗せていくよと言われるのを断ったことを思い出す。今の時代ではとても考えられない。4日目は再び国道に沿って歩いて上田を目指した。やっと‘旅’にでたと実感できる光景が視野に入ってきたとともに、私の体調も回復してきた。やっと体が慣れて、順調に歩け
るようになった。‘旅’の前半はK君がリードし、後半は私がリードする展開になった。4日目の夜は上田城(暗くてわからなかった)の近くの上田高校の体育館に泊めてもらい、初めて寝袋を使ったと記憶している。5日目は、長野駅に向かって、楽な気持ちで歩け、K君をリードして、夕方に長野駅に着いたと記憶している。長野駅から長野電鉄で須坂へ、須坂駅ではK君の幼馴染のガールフレンドが出迎えてくれた。3人で食事をしてから、彼の親戚の旅館のある戸隠の中社へタクシーで行ったと記憶している。その旅館でぐっすり寝てしまった。翌朝起きてから、帰路についた。苦労して歩いたコースを電車でわずか2時間で帰る時に、妙な感覚がしたのを覚えている。昔の人の旅はどんなにか大変だったことだろう。ともかく、この徒歩旅行は、貴重な経験になった。‘旅’の途中で出会った人たちに、親切にしてもらった有り難さをしみじみと感じたことの経験である。また、一人では達成できなかったことも事実だったと思う。歩いたのは別々であったが。今の時代ではありえない経験として強い記憶として残っている。
いつのまにか、女性との交際からそれてしまったが、もとの話しに戻そう。大学4年生のときに付き合った女性がいる。I子さんだ。彼女とは、私が担当した学会の組織で、私は知ったのだが、彼女のほうは前から知っていたことが、後でわかった。同じ中学の同級生だったらしい。私のほうは、彼女のことを知らなかった。同じクラスになったことがないからだ。ともかく、私の親友の岩田君に橋渡しを頼んだ。それは、彼のガールフレンドを通してI子を紹介してもらおうと思ったからだ。そのガールフレンドは、私の高校の後輩で、そのお兄さんのところへと何度も足を運んでいたために、その姉妹ともよく話しをした関係にある。事実を言うと、その彼女が、I子との橋渡しをする前に、私と話しがあるとのことだった。そのために、私の出身地の近くの小さな喫茶店で会うことになった。そのとき、彼女は、I子を紹介する前に、自分の気持ちを伝えておきたいと言った。「私は、相川さんのことが好きです」と。私自身も異性としてではなく好意を抱いていたことも事実で、そのことは言わなかったけれど。彼女は自分の気持ちをストレートに表現できる頭のいい子であったが、そう言われるとは驚きだったと記憶している。学会の組織の中で、私が担当した地域で、私に好意を抱いてくれた女子が数人いたことは、気づいていた。それがわからないほど鈍感ではないと私は思っている。その辺の機微はわかる人間だと思っている。そうでなくては教師の道を歩くことはないだろう。私は人が好きで、人間関係を大切にしてきたつもりだ。しかし、男女の問題は理屈ではない、感情の問題である。その微妙なあやが難しいのだ。彼女にはいやな役目をさせてしまったと思っている。私とI子が交際する前にそのようなことがあった。I子は知らないことだけど。私は何も言わなかったから。
そのI子との交際は、お互いに大学卒業まで続くのだが、その関係は、友だち以上、恋人未満だったと言える。まったく、プラトニックの関係のままだった。彼女とは、さまざまなことを話し合ったと記憶している。彼女のおかげで、大学の単位を取った科目もある。大学は違うが、彼女に協力してもらったことは感謝している。彼女は社会学の専攻である。
社会科学の分野の科目のレポートを書いてもらったと記憶している。お互いに好意を持っていたことは確かだが、男と女の関係にはならなかった。それは彼女の意思だったからだ。
私はその意思を尊重したというときれいだが、非常に複雑な気持ちを抱えていたことは、紛れもない事実だ。普通には考えにくい。彼女は、私のことを「自己顕示欲が強い」とみていた。それは当てはまっているように思うが、私の言葉に変えて言うと、「自己意識が強くプライドが高い」ということである。後に彼女と別れてから、偶然私の妻と付き合っていたときに、駅で出会ったことがあった。私と妻が一緒にいた時に。彼女は私の妻(結婚する前)に、「相川さんは、自分の考えを押し付けるでしょ」と言い、妻は黙って聞いていたことを記憶として残っている。彼女が私をそのように捉えていたとは思っていなかった。そこにずれがあったのだと初めて感じた。妻とのことは、後に詳しく書くことになるが、その一点の捉え方に違いがある。この時点で、簡単に言うと、妻に対してのほうが、自分の考え方を押し付けていたように思う。それを妻は、押し付けとは捉えなかったことに、彼女との大きな違いがある。私と妻とは、時間的には、比較的早く恋人の関係になったように思う。彼女は男女関係には考え方が古いタイプで、私は強引なタイプではなかったことが、男女の関係まで発展しなかった理由だと思う。これはこれでよかったと思っている。彼女と別れるきっかけは何だったかを考えてみることにする。私たちが大学を卒業して、私が静岡県の教員として、下田への赴任が決まり、引越しのとき、私の学生部の組織の仲間が5・6人手伝いに来ていた時に、私の家に来た。そのときに、私は、引越しの準備を仲間にまかせたまま、彼女と二人で近くの多摩川の土手に行って、じっくり話し合った。それはおそらくお互いの将来を見据えて、結婚のことを考えていたように思う。二人ともそのことは、口には出して言ってはいないから、彼女の気持ちは、私の推測に違いないが。
その後、私が下田に赴任した直後に、彼女は女性の消防官になったのだが、おそらく、女性消防官の最初だったと認識している。その彼女が宿泊研修で、下田の手前の蓮台寺に来たときに、下田で会う約束をした。下田駅へ出迎えに行ったときに、私が、彼女を一瞬で認識できなかったと彼女が感じたことを後になって知る。彼女は髪を切ってショートカットにしていた。そのために彼女の言う通りだったのかもしれない。お互いに環境が変わって新しい世界に入った直後ではあったが、それも時間的には、一月ぐらいのことである。その彼女の感覚を後で彼女の手紙で知った。私は彼女に会ったときに、どのように感じたのかはよく覚えていないが、久しぶりに会えてとても嬉しいという感情ではなかったように思う。お互いの気持ちのずれが顕在化したというか、もともと考え方にずれがあったというのかよくわからない。この後会ったのは夏休みの時だ。この時に、どんな話しをしたかは思い出せない。それほど心の距離が開いたということではないか。その次に会ったのが最後になったように記憶している。私が妻と交際し始めたことを彼女に話したのだ。その手紙に、三日間泣いたことが書いてあったことを記憶しているだけである。その手紙が最後である。I子とはそのような関係であった。
法がわからなくただ悩んでいたことが、脳裏によみがえってくる。その後、大学4年の正月に、何の用事があったのか忘れたが、一度だけ彼女の家に行って少し話したのが最後である。
大学2年の12月に松坂屋でアルバイトした時に、ヘルプしてくれた女の子がいた。名前も思い出せないが、たしか彼女と大学3年の夏まで、プラトニックな交際をした記憶があるが、月に1回ぐらい、学生部の活動の合間にデートした程度で、深入りは避けた記憶がある。またその年の冬休みに横浜の京浜デパートで、高校時代の友人S君と一緒にアルバイトしたと記憶している。そのときに、知り合った女の子と2・3回デートした記憶があるくらいだ。S君と一緒にアルバイトをするのは2度目であった。ここで思い出したことがある。大学1年の夏休みに、高校時代のそのS君とK君と3人でどこかにでかけようという話しになった時に、S君が箱根の小涌園でアルバイトのために、その計画がとりやめになり、K君が東京のはずれの戸田橋(基点)から長野駅まで(210キロ)、歩いて行こうと私を誘ったけど、いったんは断ると、一人でも行くと言うので、断りきれなくなった。よく覚えているが、真夏の炎天下、寝袋を担いで、まるで登山に行くような格好で、8月1日に二人で出発した。国道をただひたすら歩き、1時間歩くと、10分の休憩で、1日
10時間(40~50キロ)をめどに歩いた。二人で出かけたのに、一緒に歩いた時間は一度もなく、それぞれのペースでひたすら歩く。まるで何かの修行をしているような感じであった。汗をかきながら、炎天下の車の往来の激しい国道を歩き、1時間をめどに、冷房のきいたドライブインに入って休憩する。その時に、少し話しをする程度である。日が暮れ夜になってから、近くの学校を探して、どこでもいいからと言って泊めてもらった。1日目は、深谷女子高校で、当直(この制度は私が教員になって数年でなくなった)の先生に、学生証を提示して、一晩泊めてくださいと頼んで、泊めてもらったのが保健室であった。その当直の先生の関係する人が、私の大学とのかかわりがあるとのことで、快く泊めていただいたことを記憶している。2日目の夜は、軽井沢の手前の峠の釜飯で知られている所で、その近くにある横川小学校の当直室に泊めてもらった。その時に、私は39度を越える熱をだしていた。振るえがでて苦しい思いをした記憶として残っている。当直の先生はとても親切にしてくれ、色々な話しをしてくれた。3日目は国道を離れて山道を軽井沢に向かって、熱が下がらないまま、ひたすら歩き、途中で道に迷っているのではと心配しながら歩いていた。日が暮れるとともに不安と寂しさを感じ、やっと車の音が遠くに聞こえた時に、ほっと安堵したとの思いが強烈に残っている。その夜は、軽井沢のバンガローに泊まった、一夜明けて熱もおさまってきた。途中で何度やめようかと思ったことか。国道を歩いているとき、何回もトラックが止まってくれて、どこへ行くのかと尋ねられ、乗せていくよと言われるのを断ったことを思い出す。今の時代ではとても考えられない。4日目は再び国道に沿って歩いて上田を目指した。やっと‘旅’にでたと実感できる光景が視野に入ってきたとともに、私の体調も回復してきた。やっと体が慣れて、順調に歩け
るようになった。‘旅’の前半はK君がリードし、後半は私がリードする展開になった。4日目の夜は上田城(暗くてわからなかった)の近くの上田高校の体育館に泊めてもらい、初めて寝袋を使ったと記憶している。5日目は、長野駅に向かって、楽な気持ちで歩け、K君をリードして、夕方に長野駅に着いたと記憶している。長野駅から長野電鉄で須坂へ、須坂駅ではK君の幼馴染のガールフレンドが出迎えてくれた。3人で食事をしてから、彼の親戚の旅館のある戸隠の中社へタクシーで行ったと記憶している。その旅館でぐっすり寝てしまった。翌朝起きてから、帰路についた。苦労して歩いたコースを電車でわずか2時間で帰る時に、妙な感覚がしたのを覚えている。昔の人の旅はどんなにか大変だったことだろう。ともかく、この徒歩旅行は、貴重な経験になった。‘旅’の途中で出会った人たちに、親切にしてもらった有り難さをしみじみと感じたことの経験である。また、一人では達成できなかったことも事実だったと思う。歩いたのは別々であったが。今の時代ではありえない経験として強い記憶として残っている。
いつのまにか、女性との交際からそれてしまったが、もとの話しに戻そう。大学4年生のときに付き合った女性がいる。I子さんだ。彼女とは、私が担当した学会の組織で、私は知ったのだが、彼女のほうは前から知っていたことが、後でわかった。同じ中学の同級生だったらしい。私のほうは、彼女のことを知らなかった。同じクラスになったことがないからだ。ともかく、私の親友の岩田君に橋渡しを頼んだ。それは、彼のガールフレンドを通してI子を紹介してもらおうと思ったからだ。そのガールフレンドは、私の高校の後輩で、そのお兄さんのところへと何度も足を運んでいたために、その姉妹ともよく話しをした関係にある。事実を言うと、その彼女が、I子との橋渡しをする前に、私と話しがあるとのことだった。そのために、私の出身地の近くの小さな喫茶店で会うことになった。そのとき、彼女は、I子を紹介する前に、自分の気持ちを伝えておきたいと言った。「私は、相川さんのことが好きです」と。私自身も異性としてではなく好意を抱いていたことも事実で、そのことは言わなかったけれど。彼女は自分の気持ちをストレートに表現できる頭のいい子であったが、そう言われるとは驚きだったと記憶している。学会の組織の中で、私が担当した地域で、私に好意を抱いてくれた女子が数人いたことは、気づいていた。それがわからないほど鈍感ではないと私は思っている。その辺の機微はわかる人間だと思っている。そうでなくては教師の道を歩くことはないだろう。私は人が好きで、人間関係を大切にしてきたつもりだ。しかし、男女の問題は理屈ではない、感情の問題である。その微妙なあやが難しいのだ。彼女にはいやな役目をさせてしまったと思っている。私とI子が交際する前にそのようなことがあった。I子は知らないことだけど。私は何も言わなかったから。
そのI子との交際は、お互いに大学卒業まで続くのだが、その関係は、友だち以上、恋人未満だったと言える。まったく、プラトニックの関係のままだった。彼女とは、さまざまなことを話し合ったと記憶している。彼女のおかげで、大学の単位を取った科目もある。大学は違うが、彼女に協力してもらったことは感謝している。彼女は社会学の専攻である。
社会科学の分野の科目のレポートを書いてもらったと記憶している。お互いに好意を持っていたことは確かだが、男と女の関係にはならなかった。それは彼女の意思だったからだ。
私はその意思を尊重したというときれいだが、非常に複雑な気持ちを抱えていたことは、紛れもない事実だ。普通には考えにくい。彼女は、私のことを「自己顕示欲が強い」とみていた。それは当てはまっているように思うが、私の言葉に変えて言うと、「自己意識が強くプライドが高い」ということである。後に彼女と別れてから、偶然私の妻と付き合っていたときに、駅で出会ったことがあった。私と妻が一緒にいた時に。彼女は私の妻(結婚する前)に、「相川さんは、自分の考えを押し付けるでしょ」と言い、妻は黙って聞いていたことを記憶として残っている。彼女が私をそのように捉えていたとは思っていなかった。そこにずれがあったのだと初めて感じた。妻とのことは、後に詳しく書くことになるが、その一点の捉え方に違いがある。この時点で、簡単に言うと、妻に対してのほうが、自分の考え方を押し付けていたように思う。それを妻は、押し付けとは捉えなかったことに、彼女との大きな違いがある。私と妻とは、時間的には、比較的早く恋人の関係になったように思う。彼女は男女関係には考え方が古いタイプで、私は強引なタイプではなかったことが、男女の関係まで発展しなかった理由だと思う。これはこれでよかったと思っている。彼女と別れるきっかけは何だったかを考えてみることにする。私たちが大学を卒業して、私が静岡県の教員として、下田への赴任が決まり、引越しのとき、私の学生部の組織の仲間が5・6人手伝いに来ていた時に、私の家に来た。そのときに、私は、引越しの準備を仲間にまかせたまま、彼女と二人で近くの多摩川の土手に行って、じっくり話し合った。それはおそらくお互いの将来を見据えて、結婚のことを考えていたように思う。二人ともそのことは、口には出して言ってはいないから、彼女の気持ちは、私の推測に違いないが。
その後、私が下田に赴任した直後に、彼女は女性の消防官になったのだが、おそらく、女性消防官の最初だったと認識している。その彼女が宿泊研修で、下田の手前の蓮台寺に来たときに、下田で会う約束をした。下田駅へ出迎えに行ったときに、私が、彼女を一瞬で認識できなかったと彼女が感じたことを後になって知る。彼女は髪を切ってショートカットにしていた。そのために彼女の言う通りだったのかもしれない。お互いに環境が変わって新しい世界に入った直後ではあったが、それも時間的には、一月ぐらいのことである。その彼女の感覚を後で彼女の手紙で知った。私は彼女に会ったときに、どのように感じたのかはよく覚えていないが、久しぶりに会えてとても嬉しいという感情ではなかったように思う。お互いの気持ちのずれが顕在化したというか、もともと考え方にずれがあったというのかよくわからない。この後会ったのは夏休みの時だ。この時に、どんな話しをしたかは思い出せない。それほど心の距離が開いたということではないか。その次に会ったのが最後になったように記憶している。私が妻と交際し始めたことを彼女に話したのだ。その手紙に、三日間泣いたことが書いてあったことを記憶しているだけである。その手紙が最後である。I子とはそのような関係であった。