私は、高校時代に具体的に将来のことを考えていたわけではない。高校時代のところで、書いたことだが、3年生の担任との面接で、石井先生(生徒の立場になってくれる良い先生で、英語を教わり印象に深く残っている)から、「君は先生になる気はないか」「学芸大学を受けてみないか」と言われた。なぜそう言ったのか、理由はわからなかった。先生もそのことには触れていなかったように記憶している。私は、「教師になるつもりはありません。受験する学校は自分で探します」と答えた記憶が懐かしい。教員なってからも、あの時、石井先生は、どうして教員の道を勧めてくれたのかと考えたことか、しばしばだった。一度先生のお宅に伺って、その真意を聞きたいとずっと思っていた。それが実現しないまま、先生は他界された。毎年の年賀状に、一言コメントを添えていた程度で、他に連絡をとっていなかった。教員になってから、一度だけ母校を訪れたことがある。石井先生を含めて、お世話になった先生にお会いしたくて。3人の先生(高校時代の記憶に書いた)は、転勤なさっていて、お会いすることができなかった。そのときに会った国語の女のK先生に、「神奈川に戻ってこない?」「1次試験さえ受かれば、あとのことはまかせなさい。母校の卒業生がほしいのよ」と言われたことは、記憶に残っている。その時代は、コネがものをいい、1次試験さえ受かれば、コネで2次試験はパスし、教員に採用されるとのことだった。すでに教員になっていたので、わかるのだが。私が、静岡県に行くにあたって、父親との約束があった。「3年したら帰ってくる」と。その間に結婚したのだ。妻も横浜なので、神奈川に帰ることを望んでいたかもしれない。私が帰ることに踏み切れなかったのは、自宅がなかったことが最大の理由である。市営住宅だったので、親の家ではなかった。このことが静岡県にとどまった理由である。将来、川崎では、家を持つことは不可能だと考え、静岡県なら可能かもしれないと考えていたようだ。長男のため、父との約束を忘れていたわけでない。実は、一度だけ、教員になって2年目に、神奈川の採用試験を受けた。その結果は、不合格になったのである。現役の教員として落ちたので、恥ずかしくて、人に話したことはない。初めて告白することである。
 もう一つ書いておくことがある。私は大学のときに教員の道を目指した(すでに書いてある)が、その採用試験のための勉強はまったくしなかった。意地を張っていたとしか言いようがないが。受験のための勉強に懲りていたのだ。高校受験、大学受験と競争を余儀なくされていた時代である。
今の時代は、日本の経済がはっきりとしていない。アベノミクスによってデフレ脱却へと進んでいるようだが、急激な円安のために、輸入産業関連は相変わらず厳しい状況は変わらない。原油価格の高騰のため、電気料金等が上がっている。求人倍率は回復しているようだが、若者の就業定着率は悪い。異常だったのは、バブルの時だった。その時代は、若者は浮かれていて、「努力する」ことを馬鹿にする風潮すらあった。人間の驕りである。就職も引く手あまたで、一人で複数の会社に受かり、会社も学生を獲得するのに躍起になり、特別なサービスをする会社も少なくなかった。学生にとって、売り手市場だった。所詮バブルであわと消えたのである。バブル崩壊後の日本経済は、長く不況に入り、デフレ時代になるのである。国境を越えて、国際競争の時代である。多くの企業も生き残りをかけて、合併・統合し、巨大企業になっている。一方で、地方の商店街は、シャッターが下り、閑散とした状況になっている。中小企業は、常に厳しい状況にある。二極化が進んだのである。デフレ下で成長した企業の代表として、ユニクロがある。今、隆盛を誇っているのは、情報産業である。楽天やソフトバンク等である。そのソフトバンクにしても、携帯からスマートホンでの激しい国際競争に追われているのである。アナログからデジタルの時代に、社会が転換したのだ。大変革期を迎えている。若者が夢を持ちにくい社会になっている。それとともに、人間性を失い。人間の尊厳が問われる時代・社会になっていると私は考える。経済の問題だけでなく、東日本大震災からの復興、原子力発電所の問題、領土問題・沖縄を含め日本の安全保障の問題、TPP(環太平洋パートナーシップ協定)交渉の問題、憲法改正、体罰・いじめ、ドメスティックバイオレンスの問題等課題が山積みになっている。日本経済に関しては、安倍内閣の主要政策である、デフレ脱却のためのアベノミクスが動き出しているが、景気回復には至っていない。金融緩和政策への期待感が高まり、市場が動き出し、円安・株高の流れがでてきて、輸出産業を中心とする大企業が利益を増加させているが、エネルギーをはじめとして輸入産業は大変である。物価が上昇している。消費増税で8%になり、来年10月には、10%に引き上げられる予定だ。国民への負担増になっていることに変わりはない。ますます経済格差が広がる懸念さえある。
 話しを戻すと、団塊の世代は競争の中で生きてきたと言える。私は静岡の教員採用試験は、知らずにいて、学内紛争の最中に、たまたま学生課に行って知った。その場で願書を取り寄せる手続きをして、やっと書類が締め切りに間に合ったと記憶している。試験は、7月末の2日間だった。当事は、中学と高校の採用試験が別々で、2日連続して行われた。最初の日が高校、次の日が中学だった。私は静岡に縁がなかった。出身の隣の県ということだけだった。本命は、その一月後の地元神奈川県の試験だった。英文科に、静岡県出身の同級生がいて、その彼が受験するために、静岡市内に宿を取っていた。受験会場は、静岡商業高校であった。高校野球で、その名前ぐらいは知っている程度で、他には静岡高校の名前は知っていた。そのぐらいの知識しかなかった。私は、この採用試験で初めて、試験問題を目にした。今の教員志望の人は、さぞ驚くことだろう。私の時代にも、こんな志望者はいなかっただろう。試験は、専門科目の英語と、一般教養・教職教養であった。そのすべてが一発勝負であった。合格するほうが不思議である。高校を受けて、駄目なようだから、そのまま帰ろうと思ったら、同級生が「僕の取ってある宿に同宿すればいいから、中学も受けろ」と言うのを聞き入れて、翌日中学も受験した(申し込みはしてあった)。その試験結果を、宿で彼と話しながら、試験の自己分析をした。その結論は、中学は受かっても、高校は受からないと思った。これで静岡は最後だと感じ、思い出に日本平に立ち寄って、家に帰った記憶が思い出される。その一月後、筆記試験の結果が届いた。その結果は、私の予想の逆だった。高校に合格し、中学に不合格だった。ちなみに、同級生のK君は中学に合格して、高校に落ちた。それも意外であった。卒業後、彼は中学に赴任したが、しばらくしてから連絡が途絶えたので、その後のことは知らない。風の便りで、中国に派遣されたことは知ったが、それだけである。
 私は、静岡県の受験の帰りに、教職教養の問題集を買った。その中に、試験問題に出ていたことがわかったくらいである。静岡の試験の結果がでる前に、神奈川県の試験があった。このできは悪くなかったと記憶している。その結果、高校は不合格だが、中学なら合格ということであった。私は、神奈川県の中学は受けていない。おそらく試験の成績が一定のレベルに達していたのだろう。静岡県、神奈川県の両方とも面接に行った。静岡県のときは、学生服を着て、英語の面接で、そのことを聞かれて、制服が自分で似合うと言うつもりだったが、英語で、制服が僕に似合うような答え違いしたことが記憶として残っている。神奈川県での面接はもっと印象深い。「あなたは高校を志望していたが、義務教育で教えるつもりがありますか?」との質問を受け、「その質問に答える前に一つ尋ねてもいいですか?」と面接者に聞いたのだ。その面接者は、私の質問に丁寧に答えて下さり、10分の予定が40分ぐらいに延びたようだ。時間のことは、面接にきていた大学の先輩から言われたことだが。その内容を簡単に書くと、高校で英語の採用は若干名とは5人程度を言い、新卒者を3名、中学からの希望者が2名となるようなこと。中学から高校に移るのは、採用試験よりも厳しいとの説明だったと記憶している。(補足すると、数年後神奈川県は大量の学校増設に伴い、大量の教員採用になった)その面接結果は、静岡県、神奈川県ともにパスして、採用名簿に登載されることになった。後から知ったことだが、このリストが成績順に並べられ、校長に提示されるようだ。コネがあれば、校長は、このリストから引き抜くことができるそうだ。あとは、教育委員会の人事担当が配分するとのこと。したがって、この段階で落とされることがあるようだ。私には、コネがなかったので、人事担当者に選ばれたのだと思う。特に、静岡県に対しては、縁もゆかりもなかったので。その年の12月に内定通知をもらったように記憶している。その結果、翌年の3月に、指定された学校の校長面接に来るようにとのことだった。静岡県は下田の高校、神奈川県は相模湖周辺の中学校だった。私の本心は、高校の教員になるつもりだったので、静岡県を選び、静岡県の高校教員の道を歩むことになった。
 ここで、一つ付記しておくと、就職の滑り止めにと考えて、会社と、公団、役所を受けていた。公団と、役所は筆記試験の段階で落ちた。会社は、日本通運の関東支店だった。もともと教員以外なるつもりはなかったので、どうでもよかったのだが、就職浪人するわけにはいかないので、予備として受けたまでで、就職試験に、時間的に間に合うところを受けたのが事実だ。だから、日本通運の場合、本社の試験はすでに終わっていて、汐留の関東支店を受けただけだ。面接のときに、どうして本社を受けなかったのか、筆記試験での英語の成績が良かったそうだ。さすがの私でも面接なので、それなりに対応はした。面接までいけば、落ちないとの自信をその頃の私にはあった。学会の活動で身につけたことが裏づけになっていた。教員の面接も、会社の面接も特別に緊張することはなかった。会社の面接に合格し内定を受けた。3月の中頃に、電話で、研修の連絡を受けたが、教員になる事情を話し、丁重にお断りをした。人事担当者は残念がっている様子だった。
 以上のような経緯をたどって、下田に赴任することになり、3月の上旬に、下田南高校(現在は統合して下田高校)へ校長面接に行った。そのとき、校長ともう一人の先生がいて、その二人に面接を受けたが、その面接内容はまったく記憶に残っていない。再び、下旬に下田に行ってはじめて、定時制勤務だと知った。面接のときのもう一人の先生が定時制主事(現在は教頭)だった。なんか騙されたように感じたことは事実だ。面接のときは、定時制のことは、まったく触れていていなかった。後で知ったことだが、定時制赴任ということで、過去にやめた人もいたそうだ。私の頃の高等学校の教員採用試験の倍率は、10数倍で、採用された人数は、120から130人で、英語は16人と記憶している。その英語の中で、2人が女性だった。このことを知ったのは、研修を通してだが。現役は少なく、年上の人が多かったように記憶している。その女性の一人は私と同じ現役で、英語の発音がとてもきれいとの印象が強かったことが、記憶に残っている。2年目の研修の帰りの沼津駅近くで、一度だけ食事をして話したことは記憶している。名前は思い出せない。私の世代は常に変化が起こったと言える。高校時代の指導要領の改定や新任教員研修も改定された。その研修も、初年度、前年度までの3日間から16日間に変わっていった。もちろん現在はもっと変わり、私の知る限りでは、初年度研修は、30日間になっていると思う。その後の研修も増えているようだ。また、私の頃の新任者の8割強が、定時制、又は、いわゆる僻地にある学校から教員生活のスタートを切ったのが事実である。いつの頃かはわからないが、その傾向も変化していったが、今なお教員の配置には偏りがあるのも確かだ。学校によっては、若い人が多かったり、年寄りの方が多かったり、年齢バランスは取れていない。教員生活については新たに書くことにしている。