昭和41年(1966年)4月に、横浜市立大学に入学して、大学生活が始まった。川崎の自宅(市営住宅)から南武線に乗り、武蔵小杉で、東横急行線に乗り換え、横浜を経由して、京浜急行で、横浜のはずれの金沢八景駅にある大学まで、1時間20分ほどかけて、電車通学した。横浜の市街地から電車で約30分のところで、横浜のイメージとはほど遠い。駅から学校までの途中に、藁葺きの家があるような田舎であった。現在は、京浜急行沿線周辺の高台は、住宅地に変容している。大学のキャンパスは小さく、2500人ほどの規模の大学だった。それでも、大学生になれたことは嬉しかった。多くの同級生は、第一志望の大学ではないので、嬉しそうには見えなかったが。当時の横浜市大は、国立1期校と国立2期校の間に、入試が行なわれていたために、掛け持ち受験生が殺到し、史上最高倍率を記録したほどだった。例えば、文理学部・理科の化学は、160倍と言われた。文科は、50倍だった。受験段階で1000名の辞退者が出ていたが。多くの合格者が他の大学に進学したようだ。そのために、第一志望大学の合格を果たせなかった学生が集まり、浪人生の割合が6割を超していたようだ。私の入学した文理学部文科の入学生は、約160人(募集は100人)で、女子が一割程度と記憶している。過去のある時期から、横浜のイメージによる人気が出て、女子学生のほうが多くなったと聞いた。ちなみに、嬉しいことに、私の教えた御殿場南高校の生徒が2名入学し、後輩になったのだ。現在、文理学部と商学部が統合改変され、国際総合科学部になっている。
私は、大学生活を過ごすために、三つの目標をたてた。第一は、「自分の生きる道」をさがすこと。第二は、「生涯の友」を持つこと。第三は、「学問する」こと。本来は、学問することが第一目標であるべきだが。第三の目標は、残念ながらクリアできなかった。学問に対する姿勢がなかった故である。自己責任だ。しかし、二つの目標を達成したことには自負がある。私は、人生で生きていくために、4年間の学生生活が、どうしても必要だった。大学へ入学することに全力を尽くしたが、先の目標は全くなかった。ともかく、将来のために、自由に考える時間がどうしてもほしかった。この時間の中で、「人生の生き方」、どういう仕事が自分に適するのかを、行動して考えたかった。
私は、大学に入るとすぐに、創価学会の学生部に入部した。その最大の理由は、高校3年のときに、当時のA部長が激励してくれたことに始まる。記憶では、高校3年生の5月頃だったと。当時の私は、大学受験に悩み、苦しみながら勉強していた。合格の可能性のない大学を受験する選択肢しかなかった。部長の励ましは本当に嬉しく、その部長が好きになった。その部長の下で、大学に入ったら、活動したいと思った。そのためにも大学に入りたかった。どうも私は、気に入った人の影響を受ける性格のようだ。このことは、私の教師生活の中にもあった。私が青年教師である(30歳前後)時に、同じ英語科の大先輩である小林数樹先生に出会え、先生は、未熟な私に対して、紳士的に接してくださり、公私共に大変お世話になった。本当に感謝している。小林先生は、2005年10月に他界された。奥様からのご依頼で、弔辞を書き、読ませて頂いた。
その学生部の組織の中で、3人の友ができた。一人は旧支部制の時代である。大学に入学すると同時に、部長の下で、活動し始めました。その当時、学生部は、部員増加の結集で、活発に活動し、学生部員の掌握と拡大に奔走していた。部長は、学生部の機関紙である学園ジャーナルに勤めていて、最終電車で横浜に帰宅する日々であった。その時間に合わせて、7人前後の学生部員が集まって、御書(日蓮遺文書)の講義を受け、仏法を研鑽したことが思い出される。深夜に学習しているために、眠くて大学に行かずに、家に帰って寝てしまう。起きると昼過ぎになっている生活が日常化していた。大学に行って講義を受ける時間が、減っていったことは確かだ。今ふり返ると、この頃の生活は、異常だったように感じている。その中で、一人の友人ができた。当時の学生部の役職で、同時に、班長そしてグループ長になった増田君だ。その後、学生部を卒業し、男子部で、川崎の書記長をした。その時の川崎の男子部長が、亡くなった前田国重副会長だ。その前田君は、同じ新城高校で、3年生のときに、同じクラスだった。彼は、高校3年の時に、よく図書館で勉強していた。学校に来ていないときは、図書館にいたと同級生から聞いた。英語の実力は私のほうが上位だったが、3年生の後半には追いつかれる程だった。実力テストの結果からわかったことだが。彼もよく勉強していた。その結果、上智大学の経済学部に進学した。その前田君が、63歳という若さで亡くなり、とても悲しく残念な気持ちがした。彼は奥さんに、「いい人生だった。やり残したことはあるが、それは来世で」との言葉を、お世話になった人に伝えてほしいと。
大学生活で反省していることは、私の大学には、数名の全国的に知られた著名な学者がいた。その教授の講義を受けなかったことは、非常に残念なことだと後悔している。忙しさの中に、自分に対する甘えがあったと認めざるを得ない。結局は、自分自身に責任があることだ。講義を受けてもつまらない授業をする教授が多かったのも確かだが、ともかく単位の取得だけで、大学に行っていたことは事実だ。卒業に必要な単位の取得さえできればいいと思っていた。これでは、学問する資格などない。大学は、基本的に自分で勉強するところだが、幅広く“教養”を身につけるところでもある。講義を基礎に、しっかり勉強すべきだったと、教員になってから思ったことだ。1・2年の教養課程では、人文科学・自然科学・社会科学の3分野と語学の勉強がある。その上で、専門課程の勉強に入るのが基本だと、今は思っている。専門課程を重視しすぎるのは、疑問だと感じた時期がある。(現在はリベラルアーツの形で復活していることが池上彰氏の「大人の教養」の著書で知ったことだが)それは教員になってからのことだが。大学の語学で、記憶として残っているのは、1年次に、第2外国語として、フランス語を履修したのだが、単位を落としてしまい、2年次に、その単位を含めて履修しなければならかったことだ。つまり、他の学生の2倍の学習になった。2年生の時、今度は、優の成績で取り返そうと真面目に勉強して、1年次の単位と同時に、2年の単位も優の成績を取った。リターンマッチをしたのが記憶に残っている。その2年生の時に、英語国際関係を専攻した。この専門課程の勉強で、障害になったのは、世界史である。受験で避けた科目なので、勉強はしていなかった。世界史、特に近・現代史は、国際関係を学ぶ上で、基礎、基本になっていた。国際関係は、文字通り国と国との関係を学ぶのであるが、その前提には、それぞれの国の歴史がある。歴史的知識なしには、学べない。国際関係論といわれるように、学問として確立されたものではなく、歴史は浅く、私の学生時代に、専門家はほとんどいなく、東京大学助教授川田侃著「國際關係概論」が、最初の専門書と記憶している。私の大学にも専門教員は山極助教授だけだった。ゼミの教授は、比較歴史学が専門だったと記憶している。その後、国際関係系統の学部を持つ大学が増えて、ブームを呈することになる。現在の横浜市大は、国際総合科学部と医学部である。
この専門課程に国際関係があったことと受験科目が4科目(500点)だったことが、横浜市大を選んだ理由である。私は典型的な私立文系タイプで、中学以来、好きで得意な科目は、英語と社会科の政治経済だった。この2科目は、他の人に負けたくないとの思いで頑張った。特に英語はそうだ。高校時代1・2年次は、英語の勉強しかしなかった。英語馬鹿とも言える。大学では、その英語でも、人並みよりややいいかなという程度だった。優秀な同級生がたくさんいた。その一人で印象に残っているのは、銀座の松坂屋で一緒にアルバイトをしたS君で、彼は、英語が堪能で、デパートの心臓部である外商部で、一年次からアルバイトをしていた。それに対して、私は、文房具売り場に立っているアルバイトだ。慣れない手つきで、包装をしていた。この差は歴然としたものだった。また、彼は年上から年下まで幅広く女性にもてる男だった。優秀だが、男の私から見て魅力があるとは思えなかった(女性の気持ちはわからない)。今でいう「イケメン」とは違う。母性をくすぐるタイプと言えばいいかもしれない。故に、彼には、語学、女性関係では、かなわないと思ったことが記憶に蘇ってくる。このアルバイトで、自分には接客の適性がないことを自覚したことが、唯一の収穫だった。彼は卒業と同時に、そのまま松坂屋に就職した。アルバイトは、長期の休みに色々やってみた。自転車でデパートの商品を配送したこと。電機工場で流れ作業の一部をやったこと。町工場で働いたことなど。日常的には、家庭教師のアルバイトをしたこと。これが自分には合っていると感じたが、小学生を教えることは難しかった記憶が強く残っている。私が最初に教えたのは、高校3年次の担任である英語の先生の紹介で、高校の後輩の受験生だった。この時に、教える難しさと面白さを知ったように記憶している。その後は、二人の姉妹を教えた記憶しかない。その姉のほうは、夏休みの一月の間だけだったが、私の記憶から絶対に消えることはない。その故は、20歳と17歳の淡い恋心としか表現できない。彼女は、賢い子で私の気持ちがわかっていたようだ。彼女は母子家庭の長女で、その歳では、私の想いを感じ、重荷になっていたのだろう。私にとっては、甘くせつない思い出としてずっと残っている。可能ならば、今にでも会って、お互いの人生を話してみたいと思っているくらいだ。
話しを戻すと、学生部の活動を通して“生涯の友”を得たのである。その象徴的な思い出は、3人で活動しての帰りの夜遅くに、あるスナックに立ち寄った時に、そこのママが「あなたたちは輝いている」と言った言葉が、強い記憶として残っている。その2人の友は生涯の友である。その2人の友と一緒に学会活動していた時は、本当に楽しかった。夜遅くまでよく話をした。時には夜を明かして、哲学・政治・社会・恋愛論等、実によく話しをした。彼らは大学も違うが、わりと近所に住んでいたので、創価学会の組織で知り合えた。又、その時の活動を通して、自ら学び取ったことが、私の人生の土台になった。その友との活動体験が、何よりも大切な財産になった。その思いは今でも変わらない。人生の生き方を学んだのは、この頃で、大学4年生の一年間である。その経験から、「自分らしく、正直に」が、私の教師生活の信条になった。
大学では、学内の組織で、学部を越えて3人の友と知り合えた。4年間大学で、ともに学び、ともに活動し、ともに遊び、語り合い、励ましあいながら、切磋琢磨し、研鑽してきた仲間であり、“生涯の友”になったのだ。卒業して、一人は学会本部に、一人は公明新聞に勤めた。一人は地元伊豆の信用金庫に就職し、その後、聖教新聞の販売店主をして、51歳の時に、学会本部職員になり、最高幹部である副会長になり、静岡のトップリーダーとして、現在も活躍している。その後、彼との付き合いは長く続く。たまにしか会うことはできないが。会って話すと、話しが尽きない。今年の9月に会え、ゆったりと話すことができた。そのことは「友との再会」と題するブログに書いておいた。
学内組織の基盤ができたと同時に、昭和43年(1968年)10月に、私たちの“人生の師”である会長の池田先生が、私たち学生のことを深く思い、大学組織発展のために、全国に大学会を作ってくださったのだ。その一つに、神奈川三大学会があり、その中に、横浜市大会ができた。私たち学友と先輩の方たちが、大学の代表として参加させていただいた。幸いなことに、そのメンバーの一員になれた。その大学会発足の会合で、数人の質問者が、挙手した学生の中から選ばれ、幸運なことに、その数名の一人に私を指名してくださり、池田先生と直接お話しをすることができた。池田先生に、「自分の進路について、教師の道を進むか、大学院に行ってみようかと迷っています」と話しました。すると即座に、池田先生は、瞬間に私を洞察し、私に答えてくださいました。「君は電車に乗り遅れるね。文は書けるのかい?」「いいえ、書けません」と答えると、「それでは大学院は無理だね。教師のほうがいいね」また「君は大器晩成タイプだね。回り道するね」とおっしゃいました。その時の空気感というか空間的な感じを含めて、今でも私の脳裏に鮮烈に残っている。この時が、私の“人生の原点”になったのだ。人生の師にお会いでき、直接お話をしていただく機会を得たことで、私の生涯の宝の日になった。私の3人の友も、ともに喜んでくれていた。この時、私は、教師の道へと進むことに決めたのだ。
大学4年の時に、大学が封鎖され、前期は講義がなかった。それは昭和43年(1968年)に、東大紛争が起き、その紛争が、燎原の火のごとく、全国の大学へと拡大していったからだ。私の大学も例外ではなかった。創価学会学生部にも新学道が組織され、代々木公園のデモに一度参加したことが記憶に残っている。当事の学生は、団塊の世代と呼ばれ、政治や権力に対して意識が高かったとも言える。その当事、大学内で、全共闘や共産党の民青とも議論をしたと記憶している。その後、全共闘は、内部崩壊をきたし、内ゲバを起こし、社会を混乱に巻き込み、自滅していった。私たち団塊の世代には、忘れることのできない事件と言える。その団塊の世代も、時を経るとともに、権力者側へと転向して行った。
以上書いてきたことが、大学時代の記憶である。その中に、学問に対するものはなく、ただ読書をした記憶だけである。その読書の一つに、吉川英治の「三国志」がある。中国の三国時代に登場する人物、蜀の劉備玄徳、関羽、張飛、諸葛孔明は、特に印象深い。この本は、実にスケールが壮大で、読んで実に楽しくためになる本であった。劉備、関羽、張飛の人間及びその人間関係に感銘を受け、桃園(とうえん)で義兄弟の契りを結んだ故事にちなんで、大学の同志、親友の大泉、金成の3人で、生涯の義兄弟の誓いをしたことをよく記憶している。私には、大切な思い出になっている。このようにして、大学に入学した時の目標のうちの二つ、大切な“人生の生き方”を学び、“生涯の友”を得たことが、私の生涯の誇りでもある。
この私は、42年間の教師生活を終えた。教師生活の歩みには悔いがない。定年前、前年の5年間は、教師が「我が天職」と感じたほどの楽しい思い出がある。定年前の1年は、体調が悪く、満足な授業ができたとは思っていない。その生徒たちには、申し訳ないと思う。体調が悪くなると、思うように話しができなくなってしまう。もちろん文章も書けない。私が『私の人生の記憶』として、書き始めたのは、2010年の1月の中頃である。その時に、高校1年生を教えていたので、体調が上向きになったと同時に、小さい頃から高校までの事を一気に書き上げて、授業で、印刷した文章を配り、よかったら、読んでほしいと渡したものだ。反響は大きかったようだ。体調は長く続かず、2013年の3月まで下降したままだった。教壇に立って授業するのがやっとの日々が続いたまま、2012年の再任用終了とともに、退職した。今年の8月は2013年の3,4月の頃の状態に上向いた。この文章は2013年3月に書いたものに、加筆し訂正したものだ。この文章は私の友への感謝の表現でもある。
私は、大学生活を過ごすために、三つの目標をたてた。第一は、「自分の生きる道」をさがすこと。第二は、「生涯の友」を持つこと。第三は、「学問する」こと。本来は、学問することが第一目標であるべきだが。第三の目標は、残念ながらクリアできなかった。学問に対する姿勢がなかった故である。自己責任だ。しかし、二つの目標を達成したことには自負がある。私は、人生で生きていくために、4年間の学生生活が、どうしても必要だった。大学へ入学することに全力を尽くしたが、先の目標は全くなかった。ともかく、将来のために、自由に考える時間がどうしてもほしかった。この時間の中で、「人生の生き方」、どういう仕事が自分に適するのかを、行動して考えたかった。
私は、大学に入るとすぐに、創価学会の学生部に入部した。その最大の理由は、高校3年のときに、当時のA部長が激励してくれたことに始まる。記憶では、高校3年生の5月頃だったと。当時の私は、大学受験に悩み、苦しみながら勉強していた。合格の可能性のない大学を受験する選択肢しかなかった。部長の励ましは本当に嬉しく、その部長が好きになった。その部長の下で、大学に入ったら、活動したいと思った。そのためにも大学に入りたかった。どうも私は、気に入った人の影響を受ける性格のようだ。このことは、私の教師生活の中にもあった。私が青年教師である(30歳前後)時に、同じ英語科の大先輩である小林数樹先生に出会え、先生は、未熟な私に対して、紳士的に接してくださり、公私共に大変お世話になった。本当に感謝している。小林先生は、2005年10月に他界された。奥様からのご依頼で、弔辞を書き、読ませて頂いた。
その学生部の組織の中で、3人の友ができた。一人は旧支部制の時代である。大学に入学すると同時に、部長の下で、活動し始めました。その当時、学生部は、部員増加の結集で、活発に活動し、学生部員の掌握と拡大に奔走していた。部長は、学生部の機関紙である学園ジャーナルに勤めていて、最終電車で横浜に帰宅する日々であった。その時間に合わせて、7人前後の学生部員が集まって、御書(日蓮遺文書)の講義を受け、仏法を研鑽したことが思い出される。深夜に学習しているために、眠くて大学に行かずに、家に帰って寝てしまう。起きると昼過ぎになっている生活が日常化していた。大学に行って講義を受ける時間が、減っていったことは確かだ。今ふり返ると、この頃の生活は、異常だったように感じている。その中で、一人の友人ができた。当時の学生部の役職で、同時に、班長そしてグループ長になった増田君だ。その後、学生部を卒業し、男子部で、川崎の書記長をした。その時の川崎の男子部長が、亡くなった前田国重副会長だ。その前田君は、同じ新城高校で、3年生のときに、同じクラスだった。彼は、高校3年の時に、よく図書館で勉強していた。学校に来ていないときは、図書館にいたと同級生から聞いた。英語の実力は私のほうが上位だったが、3年生の後半には追いつかれる程だった。実力テストの結果からわかったことだが。彼もよく勉強していた。その結果、上智大学の経済学部に進学した。その前田君が、63歳という若さで亡くなり、とても悲しく残念な気持ちがした。彼は奥さんに、「いい人生だった。やり残したことはあるが、それは来世で」との言葉を、お世話になった人に伝えてほしいと。
大学生活で反省していることは、私の大学には、数名の全国的に知られた著名な学者がいた。その教授の講義を受けなかったことは、非常に残念なことだと後悔している。忙しさの中に、自分に対する甘えがあったと認めざるを得ない。結局は、自分自身に責任があることだ。講義を受けてもつまらない授業をする教授が多かったのも確かだが、ともかく単位の取得だけで、大学に行っていたことは事実だ。卒業に必要な単位の取得さえできればいいと思っていた。これでは、学問する資格などない。大学は、基本的に自分で勉強するところだが、幅広く“教養”を身につけるところでもある。講義を基礎に、しっかり勉強すべきだったと、教員になってから思ったことだ。1・2年の教養課程では、人文科学・自然科学・社会科学の3分野と語学の勉強がある。その上で、専門課程の勉強に入るのが基本だと、今は思っている。専門課程を重視しすぎるのは、疑問だと感じた時期がある。(現在はリベラルアーツの形で復活していることが池上彰氏の「大人の教養」の著書で知ったことだが)それは教員になってからのことだが。大学の語学で、記憶として残っているのは、1年次に、第2外国語として、フランス語を履修したのだが、単位を落としてしまい、2年次に、その単位を含めて履修しなければならかったことだ。つまり、他の学生の2倍の学習になった。2年生の時、今度は、優の成績で取り返そうと真面目に勉強して、1年次の単位と同時に、2年の単位も優の成績を取った。リターンマッチをしたのが記憶に残っている。その2年生の時に、英語国際関係を専攻した。この専門課程の勉強で、障害になったのは、世界史である。受験で避けた科目なので、勉強はしていなかった。世界史、特に近・現代史は、国際関係を学ぶ上で、基礎、基本になっていた。国際関係は、文字通り国と国との関係を学ぶのであるが、その前提には、それぞれの国の歴史がある。歴史的知識なしには、学べない。国際関係論といわれるように、学問として確立されたものではなく、歴史は浅く、私の学生時代に、専門家はほとんどいなく、東京大学助教授川田侃著「國際關係概論」が、最初の専門書と記憶している。私の大学にも専門教員は山極助教授だけだった。ゼミの教授は、比較歴史学が専門だったと記憶している。その後、国際関係系統の学部を持つ大学が増えて、ブームを呈することになる。現在の横浜市大は、国際総合科学部と医学部である。
この専門課程に国際関係があったことと受験科目が4科目(500点)だったことが、横浜市大を選んだ理由である。私は典型的な私立文系タイプで、中学以来、好きで得意な科目は、英語と社会科の政治経済だった。この2科目は、他の人に負けたくないとの思いで頑張った。特に英語はそうだ。高校時代1・2年次は、英語の勉強しかしなかった。英語馬鹿とも言える。大学では、その英語でも、人並みよりややいいかなという程度だった。優秀な同級生がたくさんいた。その一人で印象に残っているのは、銀座の松坂屋で一緒にアルバイトをしたS君で、彼は、英語が堪能で、デパートの心臓部である外商部で、一年次からアルバイトをしていた。それに対して、私は、文房具売り場に立っているアルバイトだ。慣れない手つきで、包装をしていた。この差は歴然としたものだった。また、彼は年上から年下まで幅広く女性にもてる男だった。優秀だが、男の私から見て魅力があるとは思えなかった(女性の気持ちはわからない)。今でいう「イケメン」とは違う。母性をくすぐるタイプと言えばいいかもしれない。故に、彼には、語学、女性関係では、かなわないと思ったことが記憶に蘇ってくる。このアルバイトで、自分には接客の適性がないことを自覚したことが、唯一の収穫だった。彼は卒業と同時に、そのまま松坂屋に就職した。アルバイトは、長期の休みに色々やってみた。自転車でデパートの商品を配送したこと。電機工場で流れ作業の一部をやったこと。町工場で働いたことなど。日常的には、家庭教師のアルバイトをしたこと。これが自分には合っていると感じたが、小学生を教えることは難しかった記憶が強く残っている。私が最初に教えたのは、高校3年次の担任である英語の先生の紹介で、高校の後輩の受験生だった。この時に、教える難しさと面白さを知ったように記憶している。その後は、二人の姉妹を教えた記憶しかない。その姉のほうは、夏休みの一月の間だけだったが、私の記憶から絶対に消えることはない。その故は、20歳と17歳の淡い恋心としか表現できない。彼女は、賢い子で私の気持ちがわかっていたようだ。彼女は母子家庭の長女で、その歳では、私の想いを感じ、重荷になっていたのだろう。私にとっては、甘くせつない思い出としてずっと残っている。可能ならば、今にでも会って、お互いの人生を話してみたいと思っているくらいだ。
話しを戻すと、学生部の活動を通して“生涯の友”を得たのである。その象徴的な思い出は、3人で活動しての帰りの夜遅くに、あるスナックに立ち寄った時に、そこのママが「あなたたちは輝いている」と言った言葉が、強い記憶として残っている。その2人の友は生涯の友である。その2人の友と一緒に学会活動していた時は、本当に楽しかった。夜遅くまでよく話をした。時には夜を明かして、哲学・政治・社会・恋愛論等、実によく話しをした。彼らは大学も違うが、わりと近所に住んでいたので、創価学会の組織で知り合えた。又、その時の活動を通して、自ら学び取ったことが、私の人生の土台になった。その友との活動体験が、何よりも大切な財産になった。その思いは今でも変わらない。人生の生き方を学んだのは、この頃で、大学4年生の一年間である。その経験から、「自分らしく、正直に」が、私の教師生活の信条になった。
大学では、学内の組織で、学部を越えて3人の友と知り合えた。4年間大学で、ともに学び、ともに活動し、ともに遊び、語り合い、励ましあいながら、切磋琢磨し、研鑽してきた仲間であり、“生涯の友”になったのだ。卒業して、一人は学会本部に、一人は公明新聞に勤めた。一人は地元伊豆の信用金庫に就職し、その後、聖教新聞の販売店主をして、51歳の時に、学会本部職員になり、最高幹部である副会長になり、静岡のトップリーダーとして、現在も活躍している。その後、彼との付き合いは長く続く。たまにしか会うことはできないが。会って話すと、話しが尽きない。今年の9月に会え、ゆったりと話すことができた。そのことは「友との再会」と題するブログに書いておいた。
学内組織の基盤ができたと同時に、昭和43年(1968年)10月に、私たちの“人生の師”である会長の池田先生が、私たち学生のことを深く思い、大学組織発展のために、全国に大学会を作ってくださったのだ。その一つに、神奈川三大学会があり、その中に、横浜市大会ができた。私たち学友と先輩の方たちが、大学の代表として参加させていただいた。幸いなことに、そのメンバーの一員になれた。その大学会発足の会合で、数人の質問者が、挙手した学生の中から選ばれ、幸運なことに、その数名の一人に私を指名してくださり、池田先生と直接お話しをすることができた。池田先生に、「自分の進路について、教師の道を進むか、大学院に行ってみようかと迷っています」と話しました。すると即座に、池田先生は、瞬間に私を洞察し、私に答えてくださいました。「君は電車に乗り遅れるね。文は書けるのかい?」「いいえ、書けません」と答えると、「それでは大学院は無理だね。教師のほうがいいね」また「君は大器晩成タイプだね。回り道するね」とおっしゃいました。その時の空気感というか空間的な感じを含めて、今でも私の脳裏に鮮烈に残っている。この時が、私の“人生の原点”になったのだ。人生の師にお会いでき、直接お話をしていただく機会を得たことで、私の生涯の宝の日になった。私の3人の友も、ともに喜んでくれていた。この時、私は、教師の道へと進むことに決めたのだ。
大学4年の時に、大学が封鎖され、前期は講義がなかった。それは昭和43年(1968年)に、東大紛争が起き、その紛争が、燎原の火のごとく、全国の大学へと拡大していったからだ。私の大学も例外ではなかった。創価学会学生部にも新学道が組織され、代々木公園のデモに一度参加したことが記憶に残っている。当事の学生は、団塊の世代と呼ばれ、政治や権力に対して意識が高かったとも言える。その当事、大学内で、全共闘や共産党の民青とも議論をしたと記憶している。その後、全共闘は、内部崩壊をきたし、内ゲバを起こし、社会を混乱に巻き込み、自滅していった。私たち団塊の世代には、忘れることのできない事件と言える。その団塊の世代も、時を経るとともに、権力者側へと転向して行った。
以上書いてきたことが、大学時代の記憶である。その中に、学問に対するものはなく、ただ読書をした記憶だけである。その読書の一つに、吉川英治の「三国志」がある。中国の三国時代に登場する人物、蜀の劉備玄徳、関羽、張飛、諸葛孔明は、特に印象深い。この本は、実にスケールが壮大で、読んで実に楽しくためになる本であった。劉備、関羽、張飛の人間及びその人間関係に感銘を受け、桃園(とうえん)で義兄弟の契りを結んだ故事にちなんで、大学の同志、親友の大泉、金成の3人で、生涯の義兄弟の誓いをしたことをよく記憶している。私には、大切な思い出になっている。このようにして、大学に入学した時の目標のうちの二つ、大切な“人生の生き方”を学び、“生涯の友”を得たことが、私の生涯の誇りでもある。
この私は、42年間の教師生活を終えた。教師生活の歩みには悔いがない。定年前、前年の5年間は、教師が「我が天職」と感じたほどの楽しい思い出がある。定年前の1年は、体調が悪く、満足な授業ができたとは思っていない。その生徒たちには、申し訳ないと思う。体調が悪くなると、思うように話しができなくなってしまう。もちろん文章も書けない。私が『私の人生の記憶』として、書き始めたのは、2010年の1月の中頃である。その時に、高校1年生を教えていたので、体調が上向きになったと同時に、小さい頃から高校までの事を一気に書き上げて、授業で、印刷した文章を配り、よかったら、読んでほしいと渡したものだ。反響は大きかったようだ。体調は長く続かず、2013年の3月まで下降したままだった。教壇に立って授業するのがやっとの日々が続いたまま、2012年の再任用終了とともに、退職した。今年の8月は2013年の3,4月の頃の状態に上向いた。この文章は2013年3月に書いたものに、加筆し訂正したものだ。この文章は私の友への感謝の表現でもある。