自分の希望していなかった高校に進学することを余儀なくさせられて、私の高校生活がスタートした。私と中学で同レベルの同級生が、何名も多摩高校に進学したことで、彼らには負けたくない気持ちと、家の近くにある多摩高校の生徒に対するコンプレックスを抱きながらの高校生活だった。私の学校は、入学時には校舎が完成していなかった。校舎ができたのは3学期で、1学期と2学期は、多摩高校と近くの県立の工業高校に間借り生活になった。入学した生徒は8クラスの488人だった。受験で落ちた生徒は150人ぐらいと聞いた。1クラスが61人で、今ではとても考えられない。そんなに人数が多くても、学力差はそれほど大きくなく、だから努力次第で、成績の上位になれるのではと考えていた。おそらく私の入学時の成績は、真ん中あたりではなかったかと推測していた。それは入学直後の実力試験がそのくらいだったからである。その実力試験では、英語は50番ぐらいに入っていた。その時に、これなら英語では1番を狙えると思い、そうなると決意した。最初の中間試験の結果は、学年で英語が1番になった。私の学校では、5教科の成績・総合の順位を50番まで、職員室の近くの掲示板に張り出していた。総合で50番といっても、全体の1割だ。なかなか大変であった。最初の中間試験が、総合で50番くらいだと記憶している。私にとって、250番ぐらいからの50番である。この学校で充分やっていけるとの確信を得たことを覚えている。中学よりも学習努力の結果が出やすいと感じた。高校では、中学のときに、技能教科や、理科・社会で成績が良くて、上位で入学した生徒は、英語や数学の得意な生徒に抜かれてしまった。普通高校では、国語・数学・英語がポイントの教科になってしまう。特に英語と数学の両方ができれば、トップレベルになる可能性は高くなるが、私の高校では、そのような生徒はまれだった。学校の成績は、やはり女子のほうが高かった。男子6割で女子4割の比率の学校だが、女高男低の成績と言えた。2年生になるときに、成績でクラス編成がなされ、とても不思議な共学の学校になった。男子だけの3クラス、女子だけの3クラス、共学クラスが2クラスで、その2クラスは、男子54人と女子7人のクラスと男子53人と女子8人のクラスで、成績上位者が集められた。当時の先生たちは何を考えていたのか理解できなかった。それも1月の実力試験の一回だけの試験が基準になったようだ。生徒には納得がいかないクラス編成で、私は腹を立てていた生徒の一人であった。2年の最初の頃は怒っていた男子クラス・女子クラスの生徒も慣れてくると、この方がお互いに気楽だという気持ちに変化していった。私の実力試験の結果は並みの成績だったように思う。だがクラス分けで、男子クラスに入れさせられたとの思いは消えることはなかった。私は上位のクラスにいる生徒に対抗意識を持つようになったが、多くの生徒はそんな意識はなかったようだ。試験の成績が貼り出されると、男子クラスと女子クラスから何名名前が載っているか注目していた。1クラス平均2、3名くらいで、50番の中に15人前後の名前が出ていたように記憶している。私は、その中に入ることの方が多かったとの記憶だ。私はかなり意識していたと思う。教室も上位の2クラスは3階にあり、あとの6クラスは2階に配置されていた。私たちは上のクラスという言い方をしていた。この生徒心理を、授業の中で対抗意識を故意に煽るような馬鹿な英語の教師がいた。青山学院の英文科の出身と言っていたが、アホヤマの出身かと私は言っていた。生徒の心がつかめない教師だった。上のクラスで、男子クラスや女子クラスの生徒はできが悪いと言い、私が教わった男子クラスでは、上のクラスの生徒はたいしたことがないような言い方をする教師だった。当然生徒からは嫌われていたが、本人はそのことに気づいてはいなかったようだ。生徒の見る目は厳しいものだ。私は教師になってから、そのことを教訓とし、常に念頭にいれてきた。その逆に、良い先生も何人もいたと思う。
   1・2学期の間借りの学校生活が、生徒と教師の親密感を深めたことも事実である。私たち生徒は、1学期と2学期で通う学校を交代させられた。先生方は、昼休みに自転車(現在のような車社会になっていなかったために)で移動して授業をしなければならない苦労があったことを記憶している。一期生とそれを教える最初の先生方の連帯意識みたいなものを感じていたのは、私だけではないと思う。私は何人かの先生とはよく話をする生徒だった。特に印象に残っているのは、3人の先生である。その先生方とは、毎年の年賀状のやりとりがほぼ40年続いた。残念ながら、この10年の間に、その先生方は亡くなられた。先生への感謝の気持ちで、実名を挙げることにする。鯉淵次一先生(東京理科大卒業)は、2年のときの担任で、物理の授業を教わった。私のことを信頼してくれていた先生で、修学旅行のときに、移動する船の中で、話しをしてくださったことは、忘れられない思い出である。鯉淵先生は、私が欠席し連絡を忘れた時でも、私には注意しなかった。また一度冬に、オーバーコートの違反をしたことがあり、そのコートを没収されたことがある。そのコートは父親が、ある施設で私用にオーダーしたもので、グレーのコートだった。それが校則違反になっていた。鯉淵先生は何も言わずに私に返してくれた。先生の私への信頼は生涯忘れることはなかった。その鯉淵先生とは、私が教師になってから7・8年後(私が30歳くらい)に偶然、実践女子大学の説明会でお会いし、帰りに、喫茶店でお話しさせていただいた。そのときの先生の私に対する話し方は生涯忘れることはない。教え子であった私に、同じ教師の立場で、対等に話しをしてくださったことが、嬉しくまた懐かしく思い出される。石井英吉先生(早稲田大学英文科卒業)は、3年の担任で英語の先生であった。その先生に教わったのは3年になってからで、私は1年のときから、その先生の作る試験問題は苦手だった。英文の読解問題で、全体的な把握の理解を問う問題がよく出題された。私は文法的な問題や、部分的な解釈、書き換え表現などが得意であったが、全体的な把握は苦手だった。これは私の課題の一つだった。もう一つの苦手なことは長めの日本文の英訳だった。この基本を石井先生の授業から学んだ。和文英訳の演習の授業で、受験のための授業と言えるが、入試での長文の和文英訳の問題は、「半分の点数が取れればいい」のだと教わった。そのことが私の心の負担を軽くしてくれたのだ。その半分の点数を取るために必要なのは、基本文型の応用であることと、その具体的な例を教えていただいた。私は、独学的学習をしていたが、この授業だけは真面目に取り組んでいた。私はプリントされた演習問題に積極的に取り組み、自発的に毎時間黒板にでて、自分で考えた答えを書いて、そのつど添削してもらった。ようやく3ヶ月かかって、めどがつくようになった。とても感謝したことを覚えている。石井先生との年度当初の面談で、先生は、私に「君は将来教員になる気はないか?」と教育系の国立大学(学芸大学)への受験を勧めてくれた。私は、先生に「教員になる気はまったくありません。だから学芸大学の受験はしません。受験校は自分で探します」とはっきり答えていた。私は、家庭事情から、家から通える大学しか受験させてもらえなかった。選択肢は狭く、受験可能な大学は少数であった。それは自分の学力との関係にあったのだが。その当時、国立大学は一期校と二期校に分かれていて、受験科目が5教科6科目を課すのが普通であった。国語・数学・英語・理科・社会の5科目で、文系は、社会2科目、理系は、理科2科目で、6割程度の成績が取れれば入れた時代である。難関の一期校(ブロックの中心大学)では8割くらいの点数が取れなければ、合格できなかった(一部にはもっと楽な大学も入っていたが)。東大・京大、関東では、一ツ橋・東工大・東京教育大などがその代表である。二期校は各県に所在する大学で、その中堅の学校が静岡大学であった。簡単に言うと、人口の多い県にある大学が、難易度が高いということだ。つまり同じ二期校でも、私の出身の神奈川県の横浜国立大学のほうが、静岡大学より難易度が高いということだ。付加しておくと、二期校で難関校は、東京外国語大学と横浜国大である。東京学芸大学や横浜国大の学芸学部は、私が入学した横浜市大の文科よりも難易度が下である。二期校の大学は、人口の少ない県ほど難易度が下がり、地方の国立大学へいくほど入りやすくなる原理は、今でもまったく変わっていない。国立一期校と二期校の間にあったのが、公立大学で、通常は、国立大学よりも易しいと言えた。受験科目も1・2科目少ない傾向にあった。しかし、大都市にある公立大学は難しい大学であった。東京都立大学(現在の首都大東京に併合)、横浜市大、大阪市大は難関大学とはいえないが、合格しにくい大学であった。私の時代は、国・公立大学を3校受験することが可能だった。現在のように、センター試験・OA入試等の複雑な制度ではなく、推薦制度もなかったので、まったくの一発勝負であった。利点は複数の機会があったことだけである。私の選択した横浜市立大学は、国立一期校と二期校の間にあり、両方の志望者が受験する大学で、私の当時では、全国で最も高い倍率の大学であった。今は普通の公立大学になり学部再編が行われ、国際総合科学部と医学部になっている。高倍率は受験科目が、私立型に近い4科目であったことも大きな理由であった。私立型とは、文系が国語・英語・社会で、理系が数学・英語・理科の3科目である。私は典型的な私立文系タイプであったので、国立受験は厳しかったのだ。現在は、アベノミクスで、経済が上向き傾向といわれるが長いデフレによる経済不況で、国・公立大学志向が強いようだが、私の時代は一部の私立大学(早稲田、慶応。上智の3大学)のブランド学部(例えば中央大学法学部法律学科は、司法試験の合格率が最も高く、早稲田大学の上であった)しか人気がなかったし、優秀な生徒は国立一期校に進学したといっても過言ではないだろう。当時の国立大学の年間の授業料は1万2千円で、私立大学は、文系で5倍の6万ぐらいで、理系はさらに高かった。ちなみに私の大学は、1万5千円だった。奨学金をもらえば、授業料はまかなえた。ただし、私が受験したのは、横浜市立大学だけだったが、典型的な併願大学で、第一志望で受験する生徒は、ほとんどいなかったと言えるだろう。合格者の多くが他の大学に進学したために、高倍率の中で、私はぎりぎりの補欠合格者(欠員に関係なく入学できる準合格)だった。大学の合格発表のときに、私の名前が掲示されてなく、不合格とのショックで、茫然自失となった。その日の帰りに、先生に報告のため学校に行き、これからのことを相談したこと、高校の近くに住む小学校の友達(N君)の家に立ち寄った記憶は鮮明に残っている。翌日夕方に、(補欠)合格との知らせを受けたのだ。この空白の一日ほど強く記憶に残っている出来事はない。天国と地獄ほどの違いであった。ちなみに商学部も受験したが、当然落ちた。横浜市大受験の際には、徹底した傾向と対策を自分で行っていた。過去10年間の問題分析である。受験科目の傾向はつかんでいた。どうやって合格ラインに達することができるかを考え、その分析に対応した勉強をした。信じられないことだが、政経では、試験問題の一部を的中させた。そこが合否の分かれ道になったと記憶している。
 私には、もう一人記憶に残る先生がいる。岩井茂先生(東北大学卒業)で、先生とは2005年の正月に電話でお話しをし、その後一度、手紙のやり取りをして、3月の末にお会いする約束をしていた。申し訳ないことに、私が体調を悪くして、その約束を果たせなかった。そのことを電話でお話ししたときに、とても残念がっていたことが忘れられない。先生のお体の具合も良くなかったのだろう。岩井先生は、私が2年生のときに、36歳の新任で英語の先生として赴任されてきて、選択の英語の授業を教わったと記憶している。寡黙で真面目な先生であった。先生が一度私に「君の答案で君の実力がわかるよ」と言われたことも忘れられない記憶だ。この言葉の意味が、実感として分かるようになったのは、私が教師になってからである。私の備忘録のためにも、岩井先生から返事をいただいた手紙の冒頭部分を書かせてもらう。「このたびは電話とお手紙、数々の玉稿、有り難うございました。まことに懐かしい人にめぐり合った思いで、ただいま一通り拝読したところです。感想も追想も尽きませんが、ひとくちにいえば、当時の私が受け止めた相川君の印象が間違ってはいなかったこと。この先生は、丁寧に教えてくれるよき導き手であり、飾らぬ温かい話し相手であるらしい・・・。ご自分で天職を感じておられるのも、むべなるかな、と共感をおぼえます」と過分の評価をしていただき、恐縮し、今懐かしく岩井先生のお手紙を読んでいるところです。先生が私と再会できることを望んでいたことは充分承知していたのですが、私の体調が悪化したために、3月にお会いして、お話しができなかったことがとても残念で、先生には申し訳ない思いで一杯です。先日、先生が息災であることを聞き安心しました。電話し、お手紙を書きました。
 1年の3学期に校舎が完成して、やっと肩身の狭い間借り生活から開放されて、自分たちの学校生活が送れるようになった。1年生の時には部活動はなく、同好会としてスタートした。私は、野球同好会に入り、放課後友達と軟式のボールで練習して遊んでいた。その中に、高校3年間を通じて行動をともにした友人にS・F君がいた。彼の家にも何度もおじゃまし、泊めてもらったりし、彼のお母さんにはお世話になった。お母さんには「如才ない人」だと言われて、かわいがっていただいた。彼のおかげで、それなりの高校生活が送れたように思う。定期試験の後に、二人でよく映画を見に行ったものだった。川崎・渋谷・新宿へと一緒に出かけたと記憶している。2年生になって、同好会のメンバーが部を作り、ゼロからのスタートだった。先輩がいない中で、1年生の後輩を迎えることになった。私は、軟式から硬式にとボールを変えて、あたらしい部を作ってゆく決心がつかないで、野球から離れた。私の高校生活の目的は、大学受験にあったからだ。特別な技術も才能がない私が、将来どのように生きていくか、そのためには、大学の4年間の時間がどうしても必要だからだ。ここでも野球を続けたい気持ちがあったが、私の力では勉強との両立はできないと考えた。
その当時、受験生は、4当5落と言って、睡眠時間のことを意味する。5時間睡眠を取ったら入試で落ちるとまで言われていた競争原理が働いていた。国公立・早稲田・慶応を目指す生徒には、3年間運動部の部活動を続ける余裕がなかったと記憶している。
   「高校生活はどうでしたか」と聞かれて、「楽しかった」とはとても答えることができない。2年生の秋の修学旅行は、唯一つの楽しい思い出であった。九州へと夜行列車ででかけた。その車中と旅行先での友だちとの語らいが懐かしい。私は、同じクラスの男子二人と、他の女子クラスの二人の5人で班を作り、班別行動の時間が一番楽しかった。宿のロビーでトランプをしたこと。二人の女子とは初対面で、お互いに慣れるのに少し時間がかかったが、その中の一人のSさんとは、旅行中に親しくなったが、それだけである。交際したい気持ちがあったことは確かである。その女の子の気持ちはわからないが、写真ができた時に、学校で話しをしたのが最後になった。私の頃は、高校生の男女交際は一般的ではなかった。グループでの交際はあったように記憶しているが、はっきりは覚えていない。その修学旅行での写真は今でも残っている。淡く懐かしい思い出である。私は、修学旅行を最後に、受験生活に入るつもりだった。修学旅行前までは、勉強の面では、学校の授業を軸に、学校での成績を上げるようにしていた。特に実力試験の結果に重点をおいた。英語の成績だけではなく、5教科総合での成績順位で、何番になるかを試してみた。その結果の最高位は、学年15番だった。英語は1番をキープするように頑張った。日常の家庭学習は、1年の時から英語の勉強しかしていなかった。英語だけは、学校の誰にも負けられないとの気持ちでいた。私自身は、ワンポイント主義と名付け、毎日4時間から5時間の勉強をしていたと記憶している。だからこそ負けられないとのプライドが支えであった。英語のライバルは一人いた。クラスは違っていたが、彼も英語だけに力をいれていた。彼とのトップ争いになっていた。もちろん彼に負けることもあったが、切磋琢磨することは、お互いにプラスになることは確かだ。当時の私は、不安でたまらなかった。「井の中の蛙大海を知らず」の心境であった。私の学校には、先輩がいなかったので、当然ながら、データがなかった。そのために、学校の授業中心の勉強では駄目だと思って、受験参考書を何冊も買って勉強することになった。それが間違いの基であった。修学旅行の後、予習をやらなくなり成績が下降し始めた。学習の基本は、予習・復習にあることを見失ってしまった。基本を大事にして、そこにプラスすることの大切さを知らなかった。このことは、教師になって、受験する生徒を教えるようになってから再認識したのである。受験の勉強も学校の勉強も同じである。学校の勉強から離れて、自力で参考書や問題集に取り組むのは、ロスが多く効率も悪く時間もかかる。難しいことをやるのが、受験勉強だと思い込んでいたが、間違いであった。入試問題を解く時に、問題の難しさに悩まされた結果であったのだが。やはり教わって学ぶことが一番の近道である。いったん下降線に入ると、自信を失い、再び上昇するのは、本当に大変である。これは私が実際に体験したことで、3年生の時は、悩み苦しんだといっても過言ではなかった。私は浪人していないので、浪人生の気持ちはわからないが、私自身は背水の陣をひいた受験生の気持は理解できる。それほどのプレッシャーを感じていた。受験心理は人一倍わかるつもりだ。私は、大学は一校しか受けていない。浪人も許されない状況で、大学に進学するためにはどうしても合格するしかなかった。高校のある先生に、「君はどこの大学を受けるのか?」と聞かれたときに、「横浜市立大学です」と答えた時に、「難しいな。君は浪人するつもりか」と言われたことを記憶している。模擬試験の結果は、E判定で、合格の可能性は25%以下であった。当時の横浜市大は、受験科目が4科目で500点満点。その内容は、英語200、国語100、社会100、数学・理科が選択で100点だった。前にも書いたが、倍率が高く、合格ラインはほぼ60%弱であった。現在のセンター試験のようなマークシートの選択肢の問題ではなく、二次試験のような記述式であった。私は、過去10年間の問題を調べて、自分で「傾向と対策」を徹底的に考えた。その対策に従って、そのタイプの問題に対応できるような勉強をしていた生徒であった。今私が振り返っても、辛く苦しい時期であったし、それを乗り越えて、よく合格できたと思っている。この経験が、私の生き方の方向性を決めることになったと言ってもよいと思う。「受験」のための勉強は二度としないと決めこと。大学生の時に、教員採用試験のための試験勉強をしなかったことは、その一つの例でもある。
   もうひとつ記憶に強く残っていることがある。それは担任の石井先生の言われた言葉の内容である。3年の私がいたクラスは、国・公立系クラスで、記憶では、女子生徒が5人しかいなかった。ほとんど男子のクラスで、12月には欠席者が増えて、教室に空間が目立ち始めた。1月は男子のほぼ半数が毎日のように欠席していた。私もその中の一人ではあったが。夜型のタイプの勉強で、疲れて朝起きられなくて学校を休む生徒や市立の図書館で勉強する生徒がいた。私は、夜中にラジオを聴きながら、明け方近くまで勉強することが少なくなかった。そんな生徒たちに、担任の石井先生は何も言わなかった。教師になってから初めてわかったが、クラスがそのような状況になっていたら、職員会議等で、他の先生たちから非難されていたことが想像される。先生は、私たちを信じて、じっと我慢していたようだ。卒業式の日のホームルームで、先生はそのことを初めて口に出された。「君たちが欠席したのは、悩み、苦しみながら夜遅くまで勉強していたと信じていたこと。それが良い結果をもたらしてくれれば何も言うことはない。君たちの将来のためになればいいと思って注意もしなかった」という趣旨のことを話された。その時に、私は心の中で、「先生、ご迷惑をおかけしてすいませんでした。合格して、報告に行きます。」と答えたことは、深く記憶に残っている。石井先生とは一度ゆっくりとお話ししたいと、教師になってからも思っていたが、その機会を持たないまま、先生が2003年に他界されて、今でも残念に思っている。私が先生に伺いたいことがあった。それは、3年の時に、なぜ私に、教師への道を勧めるような話しをしたのかということであった。2007年に、岩井先生にその話をしたときに、岩井先生は、石井先生の気持を推察して、私に話をしてくださった。先生は、私のことをよく覚えていて下さり、これほどまで僕を評価して下さっていたのかと知りとても感激した。また、石井先生が校長になられて退職したことを伺った。この岩井先生も校長になられて退職し、短大で教壇に立っていたことをこの時に知った。高校時代に、私のことを理解してくれた先生を持てたことは、生徒としての喜びだと、現在の私は、心に深く感じるとともに、感謝の気持ちである。
   最後に、高校時代までの文章は、2010年に書いたものに、加筆、訂正を加えたので、柳井東大教授の「独学的学習法」のところで、書いたことは、ここには書いていないが、この書によって、私の学習法を思い出させ、認識させられたことを書いたが、それが私の真実である。内容の重複は避けられないことをお許し頂きたい。
   尚付記すると、2010年に書いた原稿は印刷して、再任用教員で、沼津城北高校の担当した1年生に渡し、多くの生徒が読んでくれ、反響が大きかったのである。私の体調の故に、このことぐらいしかできなかった。たまたまこの時期だけが、体調が一時的によかっただけで、後は授業するのが精一杯で満足のいく授業はできなかったことを申し訳なく思っている。ともかく、私の高校時代に、3人の良き先生と出会えたことを深く感謝している。