私は小学校5年生のときの夏に、家が川崎市の中部(中原区・新城)から北部(多摩区・宿ヶ原)に引っ越したが、転校はしないで1年半の間、電車通学をしていた。40分程度の通学時間だったが、体が小さいので、朝は満員電車の中で大人に押しつぶされるようにして登校していた。時には、駅で降りられなくて次の駅まで行ってしまうこともあったが、毎朝のように、駅を降りてからスポーツ新聞を買って学校に行き、(このときの売店のおばさんは、小学校卒業後3年後の高校生になったときに立ち寄ったときに覚えていてくれていた。高校が同じ駅への通学になったのだが)帰りには、野球の練習の後、おなかがすいていたために、よく食堂に立ち寄って帰宅する生活だった。このことがクラス会の話題に取り上げられて、非難された記憶は残っているが、今私が考えても子どもらしくない子どもだったように思う。学区が違うために、中学は別の学区に入らなければならなかった。知っている友達は誰もいなく、不安な思いで中学生活がスタートした。学校は歩いて15分程度の場所にあり、通学は楽だった。最大の問題は、小学校の同級生が一人もいないために、よそ者扱いで、いじめではないが、嫌がらせを受け、いやな思いをしたことを覚えている。自分がいやなことを、私は他人にはしないと心に決めたのはこの頃のように思う。小学校6年から中学1年の夏休み前まで、夕刊の新聞配達をしていた経験がある。新聞の配達がそれほど大変だとは思わなかったが、時間の制約が、私にとって厳しいことだったと思う。その状況の中で、私は中学に入ったときに、野球部に入部する選択をした。当時の中学(稲田中学)野球部は強豪チームで、川崎市の大会で3連覇しているほどだった。野球部の新入生の中には、子供会の野球で戦ったことのある部員もいたが、仲良くはなれなかった。その部員は先輩たちからかわいがられていたが、私は逆に先輩たちから嫌われていた。はっきりとした理由はわからない。1年の球技大会で、ある先輩はクラスのリーダーシップを取って野球をしている私の姿を見て、生意気な奴だと感じたのか、練習の途中で早退することが腹立たしかったのかわからないが、とにかくにらまれていたことは確かだ。早退のことは顧問の先生には了解してもらっていたことだ。夏休みの初めに、高熱をだして練習を休んだときに、3年生の先輩たちに呼び出されて、炎天下でグランドを何週も走らされた後、暗くなるまで先輩たちのユニホームの洗濯をさせられた。その結果、私は日射病にかかってしまった。このようなことは明らかにいじめである。先輩かぜをふかして後輩をいじめる風習が、運動部にはよくあるようだが、とんでもないことだ。いじめる人が絶対に悪い。上級生になり、逆の立場になっても、私は自分にされたようなことは絶対にしないと自分に誓ったのである。この経験は私の考え方に大きな影響を及ぼした出来事であった。立場を利用してえばったり、後輩をいじめたりする人は、最低の人間である。今でもこのことは、私の考え方の基本の一つである。この出来事の後、私は野球部をやめたのである。このような先輩たちの中ではとても野球を続けることはできなかった。退部してから2年生になってテニス部に入ったが、初心者の私では試合に出させてもらうまでにはならなかった。一緒に入部した中に、一人早々とレギラーを取った同級生がいた。彼のようにレギラーにはなれそうになかったので、3年生のときには真剣になって練習はしなくなった。野球を続けていられなかったことが残念な記憶である。
   中学1年のときの後期に、クラス代表に選出され、生徒会活動に参加した経験もある。そのきっかけはやはりいやがらせからでたことだが。後ろの席の女の子から声をかけられて話しをしたことから、ペアでクラス代表にさせられたのだ。その当時、私の中学では、通常一番成績がいい生徒がクラス代表に選ばれていた。私はそれほど成績がよかったわけではない。一クラスには50人以上の生徒がいて、その中で上位にぎりぎり入っていたくらいである。よそ者に対する扱いとからかいからの選出であった。その結果は、悪いことばかりではなく、生徒会活動で他のクラスの優秀な生徒二人と友達になることができた。2年生になって同じクラスになり仲良く競い合う関係ができた。K君とI君で、二人ともすべての教科で勉強ができた。僕はその二人にはまったくかなわなかった。唯一つ競い合ったのは英語である。英語では互角だったと思う。私は小学校のときに得意な科目がなかった。だから中学でスタートする英語に興味を持った。中学入学時に初めて英語の教科書を見たときにどうなるのかなと不安な気持ちであった。隣の家のおじさんに、This is a pen.の発音の仕方と意味を教わったのが最初であった。ゼロからのスタートで、スタートラインはみんな同じだから頑張ろうと思ったのだ。最初の中間試験が私にとって大事であった。平均点はとても高かったが、私の点数は96点だった。無事にスタートがきれたのだ。期末試験も96点で、中間と期末の平均が96点以上の生徒で、評価のための再試験が行われたが、私は高熱のためにその試験を受けられなくて、5段階評価の4の成績になった。このことは、勉強で悔しいと思った最初の経験だった。2学期と3学期、その雪辱をはらして5の成績を取った。2年生になって、もう一度悔しい思いをした。それは定期試験ではなく、平常のテストで一度だけ大きな失敗したために、また1学期に5を取れなかったことである。これも2学期と3学期は、クリアして5の成績を取った。2年のときに、クラスの中に英語でトップのF君がいた。彼は自分の単語帳を作り、発音もよかった。私は彼の真似をして独自の単語帳を作り、苦手な発音に挑戦することにした。そのおかげで、苦手な発音・発音問題を克服することができた。3年になって、最初の授業で指名されたときに、F君の真似をして発音したときに、初めて教わる先生にほめられた。この先生は英語で一番厳しいと評判の先生だった。このときの嬉しさは生涯忘れられない記憶である。その後自信を持って英語の勉強をさらにするようになった。ちなみに3年生のときの英語は三学期とも5の成績だった。もう一つ好きだった科目は政治・経済で、この成績も良かった。この二つの科目に関しては、受験のときに、独自のレポートを作って勉強した。それはポイントの整理である。私は文章を暗記するのが苦手で、文を読み自分で理解して整理する勉強方法を身に付けたのがこの頃だと思っている。その頃から現在までの私の勉強方法に変化はない。理解し、納得しないと気がすまない性格がでていたと思う。私の勉強の仕方は模倣から始まって、自分独自のやり方を築いていったのが中学時代である。「独学的勉強法の体験的読み方」(柳川東大教授著)で書いたことをそのまま引用する。同級生にI君(先ほど書いた)がいて、彼の勉強方法は、徹底した暗記学習であった。したがって、定期試験はほとんど満点に近い点数を取っていた。一方私は、暗記ができなく、教科書を読みながらポイントをノートに整理していく過程で、記憶していく学習方法を取っていた。試験では、8割の成績を取るのが限界であった。彼との2割の差は埋めることができなかった。しかし私は、彼の努力は認めていたが、私よりも頭が良いとは思わなかった。学習の仕方が違うというにすぎなかった。この記憶は強く残っている。私はこの時点で、成績がいいことが即頭がいいとは思わなくなっていた。頭の良さは話していればわかるものであると思ったのもこの頃だと思う。記憶力よりも思考力の方が重要との考えを持つようになったと言える。私の学習で特徴的なことは、好きな勉強しかしなかったことである。中学3年生の時に、好きだった科目は、英語と政経だった。この2科目に関しては、柳川教授の言う独学を取り入れていたと言える。高校入試対策であるが、自分で問題集を何冊か買ってきて、傾向と対策を自分で考え、そのことを項目別にレポート用紙にまとめて整理した。英語と政経の2冊のレポート用紙ができあがった。それを読み返すことはほとんどしなかった。整理しまとめていく過程で記憶する方法だった。そういう学習方法が自分には合っていたように思う。
   高校受験のことを書き残しておかなければならない。私の頃の神奈川県の高校入試は、3年の1月に県下一斉に実施されるアチーブメントテストが公立高校受験の基準だった。1教科50点満点の9教科で450点満点である。県立普通高校への進学基準の最低が7割弱の300点で、トップクラスの進学校は8割の350点、当時の県下No1の湘南高校(東大合格が全国で7位くらい)は、約9割の400点が必要だと言われていた。ちなみに当時の全国のトップは東京の日比谷高校(全盛時代)であった。アチーブメントテストは1年のときから行われていたが、受験指導の基準になるのは3年の点数であった。私の3年次の得点は318点で目標の8割の点数が取れなかった。試験の結果に落ち込んだ記憶がある。当時の高校入試は中学での学校の成績に関係なく、一発試験であった。私たちは、いわゆる団塊の世代と言われ、出生率が一番高かった世代である。私の家は経済的に楽ではなかったので、私立高校との併願を親から許してもらえなかった。公立の試験に落ちたら中学浪人になってしまう。私の志望校は県立多摩高校で、川崎市のトップ高校になりかけていた学校である。この静岡県の沼駿地区における沼津東高校のレベルと同じくらいだと思う。多摩高校に合格するには、最低350点から360点が必要とされていた。私のテスト結果での受験は、危険な冒険だった。主要5科目では8割の200点には達したが、技能教科で6割の成績で、志望校の受験変更を担任(2年間受け持っていただいた)の先生から面接、指導された。その時に呼ばれた生徒が3人いた。成績順に呼ばれたと記憶している。私は3番目に呼ばれた。前の2人は志願変更をした。私も、結局は先生の指導に従って、新設の普通高校(新城高校・昨年が創立50周年だった)に受験することになった。沼駿地区の御殿場南高校と同じ昭和38年(1963年)に設立された高校である。私のクラス(50数人)から5人が多摩高校に進学し、3人が新城高校に進学した。あとで聞かされたことだが、多摩高校を受験していても合格している入試での成績だった。私の人生の最初の分岐点になったことに違いないと、今の私は過去を振り返りながら感じているところである。多摩高校に進学していたら、その後の人生は変わっていたかもしれない。おそらく高校で挫折していたように思えてならない。ともかく私が最初の挫折感を味わったのがこの時期であった。このときの悔しさが高校生活でのバネになり、学習のモチベーションになったのだ。大学受験では負けたくないと。ほぼ同学力の同級生が多摩高校に進学した。英語では、私よりも劣る者も何人もいた。彼らには負けられない。私の中の心に火をつけてくれたのだ。高校でのリベンジを誓ったことをよく記憶している。