15日敬老の日に、立ち寄った横浜西口の有隣堂で、目について手にした本が、「東大教授が教える独学勉強法」柳川範之教授著だった。パラパラとめくって購入した。一気に読んでしまった。独学で東大教授になった体験的学びとは何だろうとの単なる疑問だった。自分で課題を見つけ自分で考えて自分の答えを見いだす学習法との理解のしかたが、本を一読した感想である。正しい理解であるかどうかはわからないが、読んである種の刺激と過去の自らの勉強法を振り返るきっかけになったことは、事実である。私は学者とは縁がない一高校教員として2012年3月に退職した人間にすぎない。この書によく書かれている「試行錯誤」の言葉が印象深い。私の人生の勉強が、試行錯誤の連続だったと感じている。この書によってそのことに改めて気づかされたと言える。このことを少し具体的に書いてみる。
私の中学時代は、柳川教授もされなかったとのことだが、暗記学習ができなかった。同級生にI君がいて、彼の勉強方法は、徹底した暗記学習であった。したがって、定期試験はほとんど満点に近い点数を取っていた。一方私は、暗記ができなく、教科書を読みながらポイントをノートに整理していく過程で、記憶していく学習方法を取っていた。試験では、8割の成績を取るのが限界であった。彼との2割の差は埋めることができなかった。しかし私は、彼の努力は認めていたが、私よりも頭が良いとは思わなかった。学習の仕方が違うというにすぎなかった。この記憶は強く残っている。私はこの時点で、成績がいいことが即頭がいいとは思わなくなっていた。頭の良さは話していればわかるものであると思ったのもこの頃だと思う。記憶力よりも思考力の方が重要との考えを持つようになったと言える。私の学習で特徴的なことは、好きな勉強しかしなかったことである。中学3年生の時に、好きだった科目は、英語と政経だった。この2科目に関しては、柳川教授の言う独学を取り入れていたと言える。高校入試対策であるが、自分で問題集を何冊か買ってきて、傾向と対策を自分で考え、そのことを項目別にレポート用紙にまとめて整理した。英語と政経の2冊のレポート用紙ができあがった。それを読み返すことはほとんどしなかった。整理しまとめていく過程で記憶する方法だった。そういう学習方法が自分には合っていたように思う。この方法には、普遍するようなコツや技術のようなものはないので、人に勧められるようなものではなかった。この書を読むまでは、忘れていたようなことである。この書が私の過去を振り返らせてくれた。書き忘れたことがあるので、書き加えておくことにする。中学2年生の時に、私が勉強方法を真似た同級生がいる。一つは単語帳の作り方である。彼は独自の単語帳を作って単語の勉強をしていた。それを見せてもらい、自分用にアレンジして単語帳を作りそれを使って単語や熟語の学習をした。レポート用紙を使ったために、私の作った単語帳の方が横に長くなっていた。もう一つは彼の英語の発音を真似したことだ。これは盗み取ったと言った方が適切だと思う。これによって、苦手な発音問題が克服できるようになった。もちろんこの同級生は私よりも学力が上の生徒である。名前を記憶していないが、私にとっては、貴重な助言者とも言える存在だった。英語は3年になると、脱落者が出てくる中で、最初の授業で、教科書を読むように指示された時に、彼の抑揚、音のリズムを真似して読み、先生から褒められたことがその後の自信につながっていった。長い間忘れていたことである。
次は、高校時代のことを書いてみる。私が入学した学校は、昭和38年(1963年]に神奈川県に新設された普通高校4校の一つである。したがって、私は一期生である。校舎もなかったが、先輩もいなかった。当然のこととは言え、戸惑いを感じながらの高校生活であった。この高校時代には、英語の勉強しかしなかった。生徒数は8クラスで488人の時代であった。入学時の成績は、真ん中ぐらいであった。英語の成績は50番と記憶している。入学直後の実力試験の結果である。この時に、英語は1番になることを目標に決めた。私は自分でワンポイント主義との言葉を使い、一点だけは誰にも負けたくないと決めたのだ。最初の中間試験で、英語は1番になった。次は実力試験でも1番になることだった。名実ともに英語に関しては、校内トップの座を確保し、維持していくために、毎日4,5時間の勉強をしていた。勉強は予習を基本として、関連するところを参考書で学ぶ方法である。私のライバルは一人いた。同じクラスになっていないので、詳しいことは知らないが、名前だけは知っている程度だった。彼との競争が続いた。抜きつ抜かれつだったように記憶している。残念な記憶は、高校2年の時だと思うが、学年で彼だけが10段階の10を取った時である。合計500点が基準で、超えていれば10の評価だった。私は、数点足りなくて、10を取れなかった思い出がある。この時は、学年で2番である。今にして思えば大した問題ではないのだが。私が一番不安だったことは、校外で通用するかどうかであった。「井の中の蛙大海を知らず」のことわざの心境であった。自分の位置付けがわからないのだ。進学校では校内の位置で志望校のレベルが判断できるのだが、先輩がいないために、資料がなかった。そこにあせりが生じていた。予習中心の勉強を2年の2学期が終えた時点で、その勉強方法をやめてしまった。いわゆる受験勉強に入ったのだ。その学習は独学に近い勉強方法になってしまった。3学期には担当の先生から心配されるくらいになっていた。予習をしていないので、答えられなくなっていたように思う。質問されると分かりませんと答えることが多くなったようだ。事実なのだからしょうがない。この頃の私は、参考書を買っては、途中でやめ、また新たな参考書を買ってきては途中でやめる繰り返しだった。まともに1冊の参考書をしあげたことはなかった。複数の参考書を使いながら、ポイントを理解し、整理しながら記憶していく勉強法を続けたのである。教わることに比べれば3倍以上の時間がかかった。回り道をしたものだと思う。独学的学習に入ってから、学校の成績は落ちて行く一方で、何のために勉強しているのかわからなくなった。自分への懐疑心が生じ、自信を失う勉強だった。教員になってから、生徒には自分の経験を話して、絶対に真似をしてはならないと言ったことはよく記憶している。生徒には授業を中心にして、それにプラスする勉強の必要性を言った。このことが高校時代にはわからなかった。難しことに取り組むことが受験勉強だと勘違いしていた。私の成績が再浮上するまでに、約1年かかったことも事実である。だがこの勉強法が後になって自分の役に立つことになるとは、全く気づいてはいなかった。当然なことではあるが。
大学でのことに触れたい。私が大学生活に求めていたものは、学問というよりも、自由に物事を考える時間がほしかったと言える。自分の生きていく道を探すための時間が必要だった。その中で、大切にしたいと思い努力したことは、生涯の友を持つことであった。残念ながら、大学で体系的な学問に触れることはなかったと言える。自己責任である。私は、文理学部文科に入学し、2年次に英語国際関係を専攻することになる。英語と名がついているために英文科の学生と共通の単位の取得が求められると共に、社会科学の分野の国際関係論を学ぶことになる。当時は、国際関係の専門家は少なかった。東大の教養学部の国際関係を専攻した学生が、ようやく助教授になっている時代である。教授たちは、比較歴史学が専門であった。マクロ的な国際関係の研究とエリアスタディーと呼ばれる地域研究からアプローチする国際関係と記憶している。私は、受験で政経を使った位なので、世界史の勉強をしていなかった。特に近現代史の基本知識がないために、国際関係の学問に入ることができなかった。世界史から勉強し直す時間的な余裕はなかった。英語に関して言うと、特別何もしなかったとしか言いようがない。同学年の中で、普通よりはやや上程度の実力だと思っている。大学生活の大部分は、人生の生き方を求めて、仏法哲学に傾斜していた。その活動の中で、生涯の友を得たのである。仏法哲学に関しても勉強はしたが、体系的なものではなかったと言える。部分的な勉強だったように思う。しかし人生の基本になるような勉強はしたと思う。知識としては忘れてしまっているのだが。仏教の根幹の理論に基づく勉強をしたことは、事実である。私は習得できなかったが。私の2年後輩が、慶応の大学院の哲学に進み、50歳頃に、創価学会の教学部のトップリーダーの一人に成長していている姿を見ている。彼は商学部の出身である。私にとって大学は単位取得の場になっていたと言える。大学の授業には半分くらいしか出席していない。言い訳がましいが、魅力のある講義をする教授も少数しかいなかったことも事実である。出席しても意味のない授業が大部分だったように思う。そういう意味では、大学の授業には期待していなかった。ただ残念なことは、数人の全国的に著名な学者の講義を受けなかったことである。その先生の学問的な知見の一端に触れるべきだったとの思いである。
私は、大学3年の時から、教員の道を考えだしたのだ。アルバイト等のわずかな体験と友を含めた大人との交流を通じて、人との関わりを持つ仕事に関心を持つようになった。
家庭教師をした経験の影響もあると思うが。教員になるためには、教科を教える必要がある。当たり前のことであるが、この入口から教員の世界を目指したのではない。話しができる高校生との関わりを求めて、教育の世界を目指したのである。したがって、私にとって、教科は2番目にくるのだ。教科としては、政経を教えたかったのであるが、社会科の教員としては、歴史を教えられないと通用しないと考えていたので、英語を選択することになった。英語国際関係の名前が表すように、英語の免許が取りやすい環境にあった。また採用試験のことを考えると、英語の方がいいのではと考えたのである。柳川教授が分類する1つのタイプである「明確なゴールがある勉強」には関心がなく、そういう勉強は、大学受験で終わりにすると決めていた。それ故に、教員採用のための受験勉強はしないと決めていた。無謀ともいえる。したがって、教員採用試験のことは、全く調べることもなく、採用試験は、一般教養を含む教職教養と専門科目の2科目程度の知識しかなく、その内容については全く知らなかった。静岡県の採用試験が7月の末にあったのだが、その試験で初めて問題を知ったくらいだった。帰りに教職教養の本を買って開いて見たら、試験に出ているようなことが書いてあったのを知ったのである。知らないことは恐ろしい。そんなわけで、静岡の採用試験は、1次試験で不合格と思い、記念として、日本平を観光して帰ってきたのが事実である。9月に入ってから、1次試験の結果が届いた、高校と中学に出願(当時は併願が可能)し、受験したのだが、高校は合格し、中学は不合格だった。この結果は私の予想とは逆の結果だった。10月に静岡に面接に行くことになった。地元神奈川の試験は、高校を受験した。その結果は、高校では採用はできないが、中学を希望するなら面接に来るようにとの通知だった。面接に行き、面接官に質問された。「君は高校志望のようだが、中学で教える気持ちがあるか」との質問だった。私は、その質問に答える前に質問の許可を求めた。それは「高校の英語が若干名とはどのくらいの人数を意味するのですか」「中学から高校へ変わることができる可能性がどのくらいありますか」と逆に質問した。面接官は丁寧に私の質問に答えてくれました。そんなわけで、10分の面接が40分近くに及んだ。大学の先輩が、面接時間が長いことに驚いていたようだった。そんな経緯をたどって、高校教員志望なために、縁もゆかりもない静岡県の教員になることになった。教員生活のことはここでは省くことにする。ただ言えることは、試行錯誤の連続であったことである。
柳川教授は「試行錯誤をすることで、最初の段階では時間が多少は余計にかかるかもしれません。でも、何より独学というのは、自分の頭で考えて、判断するという繰り返しの中で、知らないうちに、まわりに左右されずに生きていく力が身につくものだと思います」と書いています。私にとって最初の段階は、時間がかかりすぎるくらいだった。私の教員生活はまさに独学と言えると思う。自分の頭で考えて、判断する繰り返しはまさにその通りで、その自分を自己評価しながら次のステップに進んでいくことで、自分を客観的に見つめる自己評価を私はフィードバックと呼んでいるのです。このフィードバックができないと独善的になってしまうのである。この部分がポイントだと私は考えている。
最後に私の居場所について触れてみたい。この居場所は退職して無職になってから考えるようになった言葉です。趣味に居場所を求める人もいるでしょうし、野菜作りでも、料理を作ることでも、絵を描くことでも、写真を撮ることでも、何でもいいと思うが、そこに創造的要素が入っていることが大切だと感じるようになっている。その前提となるのは健康である。健康でなくては何もできない。それとともに心の健康が大事であると思う。現在の私の居場所は、文章を書いて発信することである。その場所をブログに求めている。自分の言葉で書いて伝えることだ。誰が受信してくれるかわからないが、少なくとも、私の人生の小さな足跡を我が子や、孫に伝え残したいと、私は考えている。
私の中学時代は、柳川教授もされなかったとのことだが、暗記学習ができなかった。同級生にI君がいて、彼の勉強方法は、徹底した暗記学習であった。したがって、定期試験はほとんど満点に近い点数を取っていた。一方私は、暗記ができなく、教科書を読みながらポイントをノートに整理していく過程で、記憶していく学習方法を取っていた。試験では、8割の成績を取るのが限界であった。彼との2割の差は埋めることができなかった。しかし私は、彼の努力は認めていたが、私よりも頭が良いとは思わなかった。学習の仕方が違うというにすぎなかった。この記憶は強く残っている。私はこの時点で、成績がいいことが即頭がいいとは思わなくなっていた。頭の良さは話していればわかるものであると思ったのもこの頃だと思う。記憶力よりも思考力の方が重要との考えを持つようになったと言える。私の学習で特徴的なことは、好きな勉強しかしなかったことである。中学3年生の時に、好きだった科目は、英語と政経だった。この2科目に関しては、柳川教授の言う独学を取り入れていたと言える。高校入試対策であるが、自分で問題集を何冊か買ってきて、傾向と対策を自分で考え、そのことを項目別にレポート用紙にまとめて整理した。英語と政経の2冊のレポート用紙ができあがった。それを読み返すことはほとんどしなかった。整理しまとめていく過程で記憶する方法だった。そういう学習方法が自分には合っていたように思う。この方法には、普遍するようなコツや技術のようなものはないので、人に勧められるようなものではなかった。この書を読むまでは、忘れていたようなことである。この書が私の過去を振り返らせてくれた。書き忘れたことがあるので、書き加えておくことにする。中学2年生の時に、私が勉強方法を真似た同級生がいる。一つは単語帳の作り方である。彼は独自の単語帳を作って単語の勉強をしていた。それを見せてもらい、自分用にアレンジして単語帳を作りそれを使って単語や熟語の学習をした。レポート用紙を使ったために、私の作った単語帳の方が横に長くなっていた。もう一つは彼の英語の発音を真似したことだ。これは盗み取ったと言った方が適切だと思う。これによって、苦手な発音問題が克服できるようになった。もちろんこの同級生は私よりも学力が上の生徒である。名前を記憶していないが、私にとっては、貴重な助言者とも言える存在だった。英語は3年になると、脱落者が出てくる中で、最初の授業で、教科書を読むように指示された時に、彼の抑揚、音のリズムを真似して読み、先生から褒められたことがその後の自信につながっていった。長い間忘れていたことである。
次は、高校時代のことを書いてみる。私が入学した学校は、昭和38年(1963年]に神奈川県に新設された普通高校4校の一つである。したがって、私は一期生である。校舎もなかったが、先輩もいなかった。当然のこととは言え、戸惑いを感じながらの高校生活であった。この高校時代には、英語の勉強しかしなかった。生徒数は8クラスで488人の時代であった。入学時の成績は、真ん中ぐらいであった。英語の成績は50番と記憶している。入学直後の実力試験の結果である。この時に、英語は1番になることを目標に決めた。私は自分でワンポイント主義との言葉を使い、一点だけは誰にも負けたくないと決めたのだ。最初の中間試験で、英語は1番になった。次は実力試験でも1番になることだった。名実ともに英語に関しては、校内トップの座を確保し、維持していくために、毎日4,5時間の勉強をしていた。勉強は予習を基本として、関連するところを参考書で学ぶ方法である。私のライバルは一人いた。同じクラスになっていないので、詳しいことは知らないが、名前だけは知っている程度だった。彼との競争が続いた。抜きつ抜かれつだったように記憶している。残念な記憶は、高校2年の時だと思うが、学年で彼だけが10段階の10を取った時である。合計500点が基準で、超えていれば10の評価だった。私は、数点足りなくて、10を取れなかった思い出がある。この時は、学年で2番である。今にして思えば大した問題ではないのだが。私が一番不安だったことは、校外で通用するかどうかであった。「井の中の蛙大海を知らず」のことわざの心境であった。自分の位置付けがわからないのだ。進学校では校内の位置で志望校のレベルが判断できるのだが、先輩がいないために、資料がなかった。そこにあせりが生じていた。予習中心の勉強を2年の2学期が終えた時点で、その勉強方法をやめてしまった。いわゆる受験勉強に入ったのだ。その学習は独学に近い勉強方法になってしまった。3学期には担当の先生から心配されるくらいになっていた。予習をしていないので、答えられなくなっていたように思う。質問されると分かりませんと答えることが多くなったようだ。事実なのだからしょうがない。この頃の私は、参考書を買っては、途中でやめ、また新たな参考書を買ってきては途中でやめる繰り返しだった。まともに1冊の参考書をしあげたことはなかった。複数の参考書を使いながら、ポイントを理解し、整理しながら記憶していく勉強法を続けたのである。教わることに比べれば3倍以上の時間がかかった。回り道をしたものだと思う。独学的学習に入ってから、学校の成績は落ちて行く一方で、何のために勉強しているのかわからなくなった。自分への懐疑心が生じ、自信を失う勉強だった。教員になってから、生徒には自分の経験を話して、絶対に真似をしてはならないと言ったことはよく記憶している。生徒には授業を中心にして、それにプラスする勉強の必要性を言った。このことが高校時代にはわからなかった。難しことに取り組むことが受験勉強だと勘違いしていた。私の成績が再浮上するまでに、約1年かかったことも事実である。だがこの勉強法が後になって自分の役に立つことになるとは、全く気づいてはいなかった。当然なことではあるが。
大学でのことに触れたい。私が大学生活に求めていたものは、学問というよりも、自由に物事を考える時間がほしかったと言える。自分の生きていく道を探すための時間が必要だった。その中で、大切にしたいと思い努力したことは、生涯の友を持つことであった。残念ながら、大学で体系的な学問に触れることはなかったと言える。自己責任である。私は、文理学部文科に入学し、2年次に英語国際関係を専攻することになる。英語と名がついているために英文科の学生と共通の単位の取得が求められると共に、社会科学の分野の国際関係論を学ぶことになる。当時は、国際関係の専門家は少なかった。東大の教養学部の国際関係を専攻した学生が、ようやく助教授になっている時代である。教授たちは、比較歴史学が専門であった。マクロ的な国際関係の研究とエリアスタディーと呼ばれる地域研究からアプローチする国際関係と記憶している。私は、受験で政経を使った位なので、世界史の勉強をしていなかった。特に近現代史の基本知識がないために、国際関係の学問に入ることができなかった。世界史から勉強し直す時間的な余裕はなかった。英語に関して言うと、特別何もしなかったとしか言いようがない。同学年の中で、普通よりはやや上程度の実力だと思っている。大学生活の大部分は、人生の生き方を求めて、仏法哲学に傾斜していた。その活動の中で、生涯の友を得たのである。仏法哲学に関しても勉強はしたが、体系的なものではなかったと言える。部分的な勉強だったように思う。しかし人生の基本になるような勉強はしたと思う。知識としては忘れてしまっているのだが。仏教の根幹の理論に基づく勉強をしたことは、事実である。私は習得できなかったが。私の2年後輩が、慶応の大学院の哲学に進み、50歳頃に、創価学会の教学部のトップリーダーの一人に成長していている姿を見ている。彼は商学部の出身である。私にとって大学は単位取得の場になっていたと言える。大学の授業には半分くらいしか出席していない。言い訳がましいが、魅力のある講義をする教授も少数しかいなかったことも事実である。出席しても意味のない授業が大部分だったように思う。そういう意味では、大学の授業には期待していなかった。ただ残念なことは、数人の全国的に著名な学者の講義を受けなかったことである。その先生の学問的な知見の一端に触れるべきだったとの思いである。
私は、大学3年の時から、教員の道を考えだしたのだ。アルバイト等のわずかな体験と友を含めた大人との交流を通じて、人との関わりを持つ仕事に関心を持つようになった。
家庭教師をした経験の影響もあると思うが。教員になるためには、教科を教える必要がある。当たり前のことであるが、この入口から教員の世界を目指したのではない。話しができる高校生との関わりを求めて、教育の世界を目指したのである。したがって、私にとって、教科は2番目にくるのだ。教科としては、政経を教えたかったのであるが、社会科の教員としては、歴史を教えられないと通用しないと考えていたので、英語を選択することになった。英語国際関係の名前が表すように、英語の免許が取りやすい環境にあった。また採用試験のことを考えると、英語の方がいいのではと考えたのである。柳川教授が分類する1つのタイプである「明確なゴールがある勉強」には関心がなく、そういう勉強は、大学受験で終わりにすると決めていた。それ故に、教員採用のための受験勉強はしないと決めていた。無謀ともいえる。したがって、教員採用試験のことは、全く調べることもなく、採用試験は、一般教養を含む教職教養と専門科目の2科目程度の知識しかなく、その内容については全く知らなかった。静岡県の採用試験が7月の末にあったのだが、その試験で初めて問題を知ったくらいだった。帰りに教職教養の本を買って開いて見たら、試験に出ているようなことが書いてあったのを知ったのである。知らないことは恐ろしい。そんなわけで、静岡の採用試験は、1次試験で不合格と思い、記念として、日本平を観光して帰ってきたのが事実である。9月に入ってから、1次試験の結果が届いた、高校と中学に出願(当時は併願が可能)し、受験したのだが、高校は合格し、中学は不合格だった。この結果は私の予想とは逆の結果だった。10月に静岡に面接に行くことになった。地元神奈川の試験は、高校を受験した。その結果は、高校では採用はできないが、中学を希望するなら面接に来るようにとの通知だった。面接に行き、面接官に質問された。「君は高校志望のようだが、中学で教える気持ちがあるか」との質問だった。私は、その質問に答える前に質問の許可を求めた。それは「高校の英語が若干名とはどのくらいの人数を意味するのですか」「中学から高校へ変わることができる可能性がどのくらいありますか」と逆に質問した。面接官は丁寧に私の質問に答えてくれました。そんなわけで、10分の面接が40分近くに及んだ。大学の先輩が、面接時間が長いことに驚いていたようだった。そんな経緯をたどって、高校教員志望なために、縁もゆかりもない静岡県の教員になることになった。教員生活のことはここでは省くことにする。ただ言えることは、試行錯誤の連続であったことである。
柳川教授は「試行錯誤をすることで、最初の段階では時間が多少は余計にかかるかもしれません。でも、何より独学というのは、自分の頭で考えて、判断するという繰り返しの中で、知らないうちに、まわりに左右されずに生きていく力が身につくものだと思います」と書いています。私にとって最初の段階は、時間がかかりすぎるくらいだった。私の教員生活はまさに独学と言えると思う。自分の頭で考えて、判断する繰り返しはまさにその通りで、その自分を自己評価しながら次のステップに進んでいくことで、自分を客観的に見つめる自己評価を私はフィードバックと呼んでいるのです。このフィードバックができないと独善的になってしまうのである。この部分がポイントだと私は考えている。
最後に私の居場所について触れてみたい。この居場所は退職して無職になってから考えるようになった言葉です。趣味に居場所を求める人もいるでしょうし、野菜作りでも、料理を作ることでも、絵を描くことでも、写真を撮ることでも、何でもいいと思うが、そこに創造的要素が入っていることが大切だと感じるようになっている。その前提となるのは健康である。健康でなくては何もできない。それとともに心の健康が大事であると思う。現在の私の居場所は、文章を書いて発信することである。その場所をブログに求めている。自分の言葉で書いて伝えることだ。誰が受信してくれるかわからないが、少なくとも、私の人生の小さな足跡を我が子や、孫に伝え残したいと、私は考えている。