1 <幼少の頃>
  私の幼い頃は、母が病弱のために、母親の愛情を受けて育てられた記憶がない。2歳
下の弟が生まれてまもなく、さらに病状が悪化したために、私は埼玉に住む祖父母のところに半年ほど預けられた。その時に、叔父が僕を迎えに来て、上野の動物園に連れて行くとの話しで、着いたところが埼玉の田舎であった。途中でおかしいなと幼い心で感じたことは、今でも記憶に残っている。田舎で私の相手をして遊んでくれたのが、その当時そこにいた雑種の犬であった。犬の名前の記憶はないが、毎日その犬に遊んでもらった記憶は、はっきり残っている。私にとって、私より大きいその犬が唯一の遊び相手で、何をしても怒らないで私の相手をしてくれたのだった。そこにいたのは半年ぐらいのことだった。一年後に再び田舎に行った時に、私がバス停から降りて、500メートル先の家が視野に入った時に、その犬が飛んで迎えに来てくれたことは、鮮明な記憶として残っている。その犬が、私の最初の犬との出会いで、最初の友達だった。4歳前後の記憶だと思うが、この犬には、私の寂しさがわかっていたように思えてならない。犬とは利口な動物で、人と共生してきた歴史が長いと今の私には思えてならない。盲導犬を刺した事件が報じられたが、とんでもない愚かな行為としか言いようがない。犬は、人の友であると思う。30年前に、私の父が生きていたころに、シェルティーを飼ったことがあるが、実に繊細で利口な犬だった。私たちの心がわかるようだった。バロンという名だった。約10年の命だった。私には従順であったが、散歩に行くときに、行きたくない方向に連れて行こうとしても、その方向へ行きたくない時には、頑として座ったまま動こうとしない頑固さも持っていた。犬との思いではたくさんある。話しを戻そう。私は幼稚園に通っていなかったので、小学校に入る前に、他に幼いころの友達の記憶が全くない。私の同世代がどのくらい幼稚園に通っていたかは知らない。今、うちの孫は、小学校1年生の男の子(翔)と、保育園の年中の女の子(煌)である。孫が元気で成長してくれることをただ願っている。私の記憶には、母親が病で横になっている姿しか知らない。

2 <小学生の頃>
  私が3年生の9歳の時に、母が病死した。私の誕生日を過ぎた夜中のことであった。それまで長い間家で養生し、病院に入院して半年ぐらいで亡くなった。ただ寂しかった。父に連れられて何回も病院に行き、病院の匂いが鼻についていやな気持だった。私は病院が嫌いになり、暗い気持ちになるだけだった。死が近づいた頃には、母は助からないと子ども心に感じていた。母が亡くなった時に、病院の死体安置所でのことは生涯忘れることはできない。とても暗く寂しい場所だった。私はその時に泣けなかった。涙を流して泣けないほど悲しかった。今の私では、目に涙を浮かべて止まらないだろうと思う。生母の死は胸が引き裂けるほどの悲しみである。周りにいた人が私の姿を見て、私のことを冷たい子どものように言った。「お前たちに僕の気持がわかるのか」と言いたかった。大人はうわべでしか人を判断しないことを初めて知った。このことも終生忘れることのできない体験の出来事であった。私は母の笑顔を知らない。この一点が残念でならない。汚い家の縁側で一緒にひなたぼっこをしたことが、ただ一つの思い出である。この時の写真だけは1枚残っている。せめて母の笑顔だけでも、私の記憶に残っていればなあとの思いが今でもある。今のほうが強いかもしれない。私が亡くなったら、来世でどうしても会いたい。ただ会いたいのだ。そう思うだけで涙がでてくる。自分の子どもには、このようなつらく寂しい思いをさせてはならないとの考えの原点はここにある。私がこどもの頃の母の死のことを、御殿場南高校の授業で話したことがある。ひとりの生徒が、私の話しを聞いて、涙を流してくれた。その涙を流した生徒のことは生涯忘れない、授業の後、その生徒に、I shall never forget your tears.と書いたメモを書いて渡したことを覚えている。I・Nという生徒である。その生徒が2年生の時である。
 私の母が亡くなってから1年後に、父が母の妹である叔母と再婚し、叔母が家に来た。お母さんとは呼べなかった。今でも母への想いは強い。当時の私は子どもなりに、義母に迷惑をかけてはいけないと思い、そのように子どもながらに努力して行動した。俗に言う「いい子」であるように努めた。近所の人も礼儀正しいいい子ですねと、親は言われていたようだ。私はそれなりにプレッシャーを感じながら、早く大人になって自立しなければと考えていた。親と一緒に電車に乗った時でも、一人でいることが多かった。
ある意味では、ませた子どもだったかもしれない。早く大人になりたいとの気持ちが強かった。この頃から私の自立心が育っていったのだと思う。
私のこの頃の楽しみは野球をすることだった。1年生のときに、父にグローブを買ってもらってキャッチボールをしてもらったのがきっかけになったと記憶している。野原で少ない人数でソフトボールをよくやっていた。野球を始めたのは、3年生ぐらいのときだと記憶している。5年生のときに、子ども会の野球チームに誘われて、本格的に基本を教わり練習するようになった。入りたての頃は外野の補欠だった。背番号は15だった。だがすぐに6年生からそのポジションを奪った。ライトからセンターに移って7番打者のレギラーとして、地区大会に出場した。地区大会は6チームと記憶している。私の所属したチームは、前年の地区大会の優勝校で、その年も優勝して川崎市の本部大会に出場した。1回戦2回戦を勝ち抜いて準決勝に進んだ。その2試合では、8打数7安打と調子がよかった。準決勝は雨のために1週間順延になり、その間に調子を崩して、その試合では、私は4打数0安打の結果に終わり、チームも敗退した。悔しかったけど、来年があると思った。その後、新チームになってピッチャーに指名された。まだその頃は身体が普通よりも小さいほうでボールのスピードはなく、他に身体が大きく早いボールを投げられる同級生がいたが、6年生になってからの練習試合では、主に私が投げるようになった。変化球(カーブ)を主体にコントロールで勝負するピッチャーでエースになった。私の背番号は8のままだった。背番号8には思いれができたのはこの頃だった。背番号3とともに好きな番号である。いまだに巨人選手の背番号8をつけている選手を応援している。高田繁選手、原辰徳選手であった。ちなみに現在は、西武から移籍してきた片岡選手である。話しはそれたが、変化球主体のピッチャーだったので、肘を悪くして接骨医に何回も通うことになった。しかし練習試合ではダブルヘッターでも完投していた。子ども野球では、7回でゲームは終了した。自分の地区では数が少ないので、近くの他の地区とも練習試合をした。その他の地区だが、私の苦手なバッターがいて、彼にはどこに投げても打たれる気がしたし、実際に打ちこまれた記憶がいまだに残っている。ボールがすべて真ん中にすい込まれるように行ってしまう。視野が狭くなってしまうのである。6年生のときにも地区大会では優勝して、本部大会(市の大会)に出場した。しかし、1回戦は雨の中での試合になり、何度もエラーがでたりして接戦の末敗退した。本当に悔しくて泣いた。そのとき流した涙は忘れられない。私は勝って前年よりもよい結果を出し、優勝したかったのだ。目標は川崎球場であった。準決勝と決勝は同球場で行われていた。(当時、川崎球場は大洋ホエールズのホームで、現在の横浜ベイスターズの前身である)優勝するつもりで嫌いな練習もやったのだ。当時の私は、練習よりも試合のほうが好きだったし、集中力は試合のときのほうが出る実践タイプだったように思う。今でもその傾向は変わらなく、本気になるのに時間がかかる。練習では全力を出していなかったことは問題だと思うが、真剣になった大事な試合で負けた悔しさはいまだに忘れていない。ついでに、川崎球場の思い出を書いておく。地区代表メンバーが集まって試合をしたことがある。私は地区代表として、川崎球場のマウンドに立ったのだ。その時の記憶は残っている。これは練習試合だったので、比較はできない。ただ川崎市の本部大会で球場のマウンドに立ちたかったのだ。例えて言えば、高校野球の選手が甲子園を目指すのと同じ気持ちだと言えると思う。その頃の私の憧れは長嶋茂雄選手だった。彼は立教大学で、六大学野球のスターであった。当時の大学のホームラン新記録の8号は、とても印象深く覚えている。昭和33年に巨人軍に入団し、その翌年の34年に、早稲田実業で甲子園の優勝投手の王貞治選手が同じ巨人に入団し、その後ON時代というプロ野球の全盛期を築いたのである。将来のプロ野球選手を夢見たことが懐かしく思い出される。そういう夢を見ただけである。実際に自分の身体と能力では無理なことはわかっていた。この頃から50年以上に及ぶプロ野球ファンである。巨人ファンなったのも、この時期である。いまだに私の1番好きなスポーツは野球である。球春の訪れを毎年楽しみに待っている。子どもの頃に好きになったものは一生続くのかもしれない。小学校時代の思い出は野球の次が相撲である。初代若乃花のファンで、栃錦と若乃花の対決が楽しみだった。私が5年生のときに、相撲で学校代表として川崎市の大会に出たことを思い出す。私は個人戦では2勝できたが、団体戦は全敗だった。もちろん今でも大相撲のファンである。若乃花の次は大鵬へと続き、現在の白鵬へと続いていく。私にとって。若乃花は子ども心に印象に残った憧れの相撲取りであった。私はよく真似をした記憶が残っている。ただ私にはサッカーの記憶はない。