先日、毎日新聞のインタビュー記事を読んで、現在抱えている教育問題の中で、教員の多忙化のことが取り上げられていた。私の投稿文「多忙になっている教員」が8月10日に掲載された。その問題を再度考えてみたい。私の42年間の教員生活と比べて、現在の教員は、はるかに多忙になっていることは事実である。私が直接耳にしていることだが、報告書類の作成にとられる時間が多いことや会議が多くなっていることが直接の原因になっているように思う。物理的な時間はかわらないので、仕事量が増えれば、仕事に要する時間が長くなり、勤務時間内で仕事を処理することはできなくなる。教員本来の仕事である生徒と向き合うことや教育に時間をかけることができないのが現状のようだ。高校でも、授業の合間は、パソコンに向かって、事務的な仕事をしている姿を見たのが、数年前の話しである。私自身は事務的な雑用に追われたと感じたことはない。私はいわゆる団塊の世代であり、その団塊の世代が退職している。私の時代の職員室には、いわゆる「同僚性」が存在していた。空き時間に、一緒にコーヒーを飲みながら雑談したりする時間があった。教育的な雑談も行われていた。先輩・後輩の教員とも、よく話しをした。もちろん人間関係が前提になっていることだが。人間だから、相性の問題は避けられないが。英語では、相性がいいことをgood chemistry というように、人の化学反応である。このような教員相互の関係の喪失は寂しいと私は感じるが、現在の教員はどう感じているのだろうか。なんとも感じていない人が多いのではないか。時代の変化を感じる。私が新任の教員の時には、先輩、後輩を含めてつながりがあった。昔は良かったとは言うつもりがないが、変化したことは事実である。教員が精神的な病のために、休職にいたる割合は、はるかに少なかった。身体的な病気は別であるが。私が保護者との関係でトラブルになったのは、26年前に担任をしている時に、生徒の就職のことで、親から無理を言われ、教育委員会に訴えられ、校長に呼ばれて事情を聞かれたことはよく覚えている。その頃から保護者との関わりが難しくなったように記憶している。社会では、バブルの崩壊からデフレへと移行していく。その変化とともに教員を取り巻く環境が変化していったように記憶している。私の教員生活で最もゆったりとした時間をもったのは、1993年(平成5年)から1999年(平成11年)の7年間である。この頃はよく教科研究室で、授業の空き時間は、後輩の教員と幅広い雑談をしていた。公務では、図書課長として、学校運営に関わった時期でもある。忙しさを感じたことは全くない。2000年(平成12年)に転勤になり、定年まで勤務した頃から忙しさを感じるようになった。最大の理由は、授業に対する準備で、教員として当然の仕事である。これは私個人の問題であって教科の勉強である。しかし、進学校へ転勤したために、大学入試センター試験に対応する授業を求められたことも事実である。しかし、大学入試を目的として教えたつもりはない。あくまでも、基礎・基本を大事にし、生徒が基礎学力を身に付けられるように、授業の工夫をして教えたつもりだ。大学入試も視野に入れていることは、生徒に伝えたつもりだ。安心して学習努力をしてもらいたかった。学力は自分で身に付けなければならないと。その方法を教えたつもりだ。自学の必要性を強調していたと記憶している。
大学入試制度が共通一次試験からセンター試験への変更は、1990年(平成8年)である。2002年以降で、もっとも大きな教育の変化は、「ゆとり教育」の導入である。この「ゆとり世代」との関わりが、私の教育人生の中で、最も楽しかったとの印象が強い。また、この世代の生徒に、「これから必要とされる道具とは、語学とパソコンだ」と言った記憶がある。まさにグローバルなインターネットの情報社会に突入していったのだ。時代のテンポが速くなり、様々な新たな問題が生じてきている。それに対応する教育が求められている。2002年(平成14年)から、学校週5日制が完全実施されるようになり、授業時数の確保が大命題になってから、教員が多忙化していくことになったと認識している。ゆとり教育の時代はともかく、「ゆとり教育」が見直されるようになってから教員の多忙化が急速に進んだように感じている。文部科学省の官僚の考えることは、極端に変わる。現場はその対応に苦労するのである。「ゆとり教育」の時は、学習内容を30%減らし、脱詰め込み教育を目指し、生徒の主体的自己の確立のための理念を掲げて、主体性、自主性を重んじ、生きる力の教育を目指したはずである。そのゆとり教育も、国際的学力テスト(PISA)の成績順位の低下との成績結果だけで、「脱ゆとり教育」への転換を行ったのである。学習内容の増量である。また知識の詰め込みになるのか。過去の反省は十分なされているとは考えられない。現在の社会に求められているのは知識の量ではないだろう。ゆとり教育の理念は間違っていたとは思わない。社会の変化に伴い、道徳の教科化や小学校5,6年生での、英語の教科化がされると聞く。教員は、その新しい教科に対応できる指導方法を身につけなければならない。教育方法は、指導技術と言ってもいい。簡単に取得できるものではない。教員は新たな研修を行わなければならないのだ。このままでは、益々多忙になっていくだけである。必要な教育改善がなされなければ、最後は、子ども、生徒の成長にマイナスの影響を及ぼすことになってしまう。インタビューの中で、増田修治氏は「これからは知識の詰め込みではなく、課題解決型学習や、自ら学ぶ“主体的学び”といった新たな指導方法が求められている」と語っているが、新しい指導方法を身につける余裕がないのが現状だとも述べている。教育の目的は、子どもの幸せのためである。子どもは、そのために必要な知識や、それを活かす方法を学んでいかなければならない。それを教えるのが教員の仕事である。私の教育の信条は「情熱と信頼」である。教育には、教師の教育に対する情熱が不可欠であり、子ども・生徒の信頼関係が教育の根本になっているとの考えからである。教員には、物理的にも、精神的にもゆとりが必要である。子どもや生徒にも同じことが言えると思う。教員が教育に専念できる環境に、校長及び管理職の学校経営への能力の向上が求められるとともに、教育行政の根本的改善が求められると思えてならない。教育を行うのは人であり、教育を受けるのも人である。正しい理念に基づく人間観が求められている時代だと、私は思っている。
大学入試制度が共通一次試験からセンター試験への変更は、1990年(平成8年)である。2002年以降で、もっとも大きな教育の変化は、「ゆとり教育」の導入である。この「ゆとり世代」との関わりが、私の教育人生の中で、最も楽しかったとの印象が強い。また、この世代の生徒に、「これから必要とされる道具とは、語学とパソコンだ」と言った記憶がある。まさにグローバルなインターネットの情報社会に突入していったのだ。時代のテンポが速くなり、様々な新たな問題が生じてきている。それに対応する教育が求められている。2002年(平成14年)から、学校週5日制が完全実施されるようになり、授業時数の確保が大命題になってから、教員が多忙化していくことになったと認識している。ゆとり教育の時代はともかく、「ゆとり教育」が見直されるようになってから教員の多忙化が急速に進んだように感じている。文部科学省の官僚の考えることは、極端に変わる。現場はその対応に苦労するのである。「ゆとり教育」の時は、学習内容を30%減らし、脱詰め込み教育を目指し、生徒の主体的自己の確立のための理念を掲げて、主体性、自主性を重んじ、生きる力の教育を目指したはずである。そのゆとり教育も、国際的学力テスト(PISA)の成績順位の低下との成績結果だけで、「脱ゆとり教育」への転換を行ったのである。学習内容の増量である。また知識の詰め込みになるのか。過去の反省は十分なされているとは考えられない。現在の社会に求められているのは知識の量ではないだろう。ゆとり教育の理念は間違っていたとは思わない。社会の変化に伴い、道徳の教科化や小学校5,6年生での、英語の教科化がされると聞く。教員は、その新しい教科に対応できる指導方法を身につけなければならない。教育方法は、指導技術と言ってもいい。簡単に取得できるものではない。教員は新たな研修を行わなければならないのだ。このままでは、益々多忙になっていくだけである。必要な教育改善がなされなければ、最後は、子ども、生徒の成長にマイナスの影響を及ぼすことになってしまう。インタビューの中で、増田修治氏は「これからは知識の詰め込みではなく、課題解決型学習や、自ら学ぶ“主体的学び”といった新たな指導方法が求められている」と語っているが、新しい指導方法を身につける余裕がないのが現状だとも述べている。教育の目的は、子どもの幸せのためである。子どもは、そのために必要な知識や、それを活かす方法を学んでいかなければならない。それを教えるのが教員の仕事である。私の教育の信条は「情熱と信頼」である。教育には、教師の教育に対する情熱が不可欠であり、子ども・生徒の信頼関係が教育の根本になっているとの考えからである。教員には、物理的にも、精神的にもゆとりが必要である。子どもや生徒にも同じことが言えると思う。教員が教育に専念できる環境に、校長及び管理職の学校経営への能力の向上が求められるとともに、教育行政の根本的改善が求められると思えてならない。教育を行うのは人であり、教育を受けるのも人である。正しい理念に基づく人間観が求められている時代だと、私は思っている。