安全保障問題に対して、私の所感を述べる。安全保障の問題は、日米安保条約をめぐって、昔から賛否が分かれ、保守と革新で対立してきた経緯のある難しい問題である。現在は、55年体制が崩壊し、保革対立構造も崩壊している。1強多弱の政治状況で、自民党を中心とした保守勢力が最大の力を持っており、バランスが崩れているのである。
歴代の日本政府は、アメリカ傘下での安保政策をとってきたことは、周知の事実である。私は、いわゆる団塊の世代で、学生運動を経験した世代でもある。したがって、もともと、この問題には関心が高く、権力構造に対する意識が強い。私は、反権力の立場に立っていた。言いかえると、権力に随従しない立場で一貫してきた。教員生活の中では、多くの発言をしてきた。職員会議の場で発言し、孤立感を味わった苦い経験もある。教員組合組織に入っていなかったし、学校運営の管理職側にもくみしていなかったからだ。生徒側にスタンスをおいて、学校運営で、教育上おかしいと感じたことは、発言し続けてきた。定年まで、この姿勢を変えなかったことが、一教員として歩んできた私の自負である。
今では、職員会議で発言する人はいなくなったようだ。教育現場にも、教育行政の力が強化されてきている。その背景には、運営に反対する組合の力が低下し、バランスを欠いていることも要因でもある。おかしいことは、おかしいと言える環境と、それを発言する人が大事だ。ここに教育の大きな問題がある。きちんとした議論をした上で、決定したことを実行していく体制が重要である。上意下達の組織では、活力がなくなり、個人の能力を発揮することはできなくなる。これは、組織の普遍的な原理だと私は考える。教育行政の意のままに忙しく動く教員の姿が目に浮かぶ。この教員の姿勢が、教員多忙化の1つの要因になっていることは否定できない。私の教員時代は、まだ必要な議論が行われていた。組合員は、組合組織を背景に発言していた。私のような非組合・非管理職の教員で意見を述べる人は、少数であった。意見を述べることは、自分の考えを公表し、その発言に責任が生じる。その結果、人間関係にも大きく影響したことが、経験的事実である。私は、自分なりに人間関係を大切にしてきた。一般的に、日本人は、議論が下手で、感情的になりやすく、対立関係を作り出してしまう傾向性が強い。そのために、相互の信頼がなくなり、対話が成り立たないのである。対話の前提は「信頼」である。お互いを尊重する信頼なしに、対話は成り立たない。私の教師生活の信条は、「生徒との信頼」にあった。「信頼関係なしに教育はない」のが、私の持論である。
ともかく、現憲法下では、武力行使ができなく、戦争はできないのである。自主憲法の制定を主張する保守右派勢力が存在し、それもかなり強い勢力である。その極右勢力を代表するのが、石原元都知事と言っても間違いではないだろう。自民党の中にも、俗にタカ派とハト派が存在し、安倍首相はタカ派である。右派勢力は、憲法改正をして、自衛隊を防衛軍にし、武力行使のできる憲法を作りたいのである。これは改正ではなく、改悪であると考えるのが私のスタンスである。
今回、憲法前文、第2章第9条を確認した。国民主権、国会重視、武力行使の否定、戦力の不保持を宣言した「平和主義」である。その憲法にも、直接的な文言の上で、不備な点があり、盲点と言える。そのために、安全保障問題が生じたのである。政府は、日米安保条約・日米同盟の下、憲法解釈で、国政を行ってきたというのが私の認識である。個別自衛権の問題である。つまり自国防衛の権利を持つとの憲法解釈である。専守防衛に徹し、他国に脅威を与えるような軍事大国とはならず、非核3原則を守るとの基本方針を堅持しつつ、世界平和に貢献する「平和国家」として歩んできたとの見解が、従来の政府見解である。しかし、国際状況が様々に変化し、危機的な段階に入ってきている。その変化に対応する法の整備が必要になってきているのが現実である。しかし、憲法の拡大解釈は許されない。限定的な解釈に基づくべきである。
現在、毎日新聞で、8月5日から、公明党結党50年「中道は・いま」と題し、連載記事を載せている。公明党は、「大衆のために」とスローガンを掲げて野党としてスタートし、紆余曲折し、政策を転換し、現在に至っている。この間に、いろいろの疑問を抱いたことは私の中にある。しかし、選挙において公明党に投票してきた。公明党の党是である「平和の党」の軸は変わっていないと信じてきたからである。
現在の政治状況は、すでに触れたが、1強多弱の保守体制になっている。社民党、共産党の革新と称する政党には、力がない。民主党は、今回の問題に関して、海江田代表が、野党第1党としての反対を表明したが、民主党には、保守と革新の勢力が混在しており、まとまりがつかない。民主党は、政権を担当し、国民の期待を裏切ったのである。この事実は消えることはない。自民党は保守だが、今回の問題に関しても、一枚岩ではないし、考え方の度合いに開きがあるのだが、リベラル派の意見が表に出てきていないようだ。自民党の中にも、発言ができない雰囲気があるように感じる。内閣支持率の故か。また、政治家は選挙を最優先している故か。ここにも問題の根がある。
今回の勉強の中で知ったのだが、日本国政策フォーラム政策委員会という公益財団法人がある。委員長は伊藤健一で、8月6日に全国紙に意見広告を掲載した。72名の署名者がいて、小池百合子を含め、著名な自民党議員・学者・評論家等の名前が並んでいる。このグループも右派勢力である。このグループは、今回の閣議決定を集団的自衛権の行使容認と歓迎し、必要な法制度の早急な整備を求め、国連の集団安全保障には、軍事的措置を伴うものを含めて、参加せよと、積極的平和主義と日本の針路と題する提言をした。今後は、このような右派勢力とのせめぎ合いになる。私は、公明党が、与党内野党の立場で、ブレーキ役の役割が更に高まったと考える。
今回論議となっている集団的自衛権の行使とは、端的に言うと、他国のための武力行使と理解していい。国際法上は、集団的自衛権は認められているが、公明党は、この他国のための集団的自衛権を認めてはいない。責任与党の立場を堅持し、自国の防衛は、自衛権と捉え、日本の自衛のための武力行使を容認したぎりぎりの現実的な対応だったと私は理解している。しかし、一般には、集団的自衛権を容認したと捉えられるリスクが生じたと認識している。これからの法整備への議論で、国民の生命と、国の安全と平和のために、右派勢力が考える日本にならないように、「平和の党」としての役割を果たしてもらいたい。同時に、私たち国民も主権者として、国民の代表者としての国会の議論を注視しなければならない。
憲法前文に、「日本国民は、正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し、・・・国政は、国民の厳粛な信託によるものであって、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する。これは人類普遍の原理であり、この憲法は、かかる原理に基づくものである」と書いてある。したがって、国民、国会、政府の責任は明確である。この原点を忘れてはならない。
歴代の日本政府は、アメリカ傘下での安保政策をとってきたことは、周知の事実である。私は、いわゆる団塊の世代で、学生運動を経験した世代でもある。したがって、もともと、この問題には関心が高く、権力構造に対する意識が強い。私は、反権力の立場に立っていた。言いかえると、権力に随従しない立場で一貫してきた。教員生活の中では、多くの発言をしてきた。職員会議の場で発言し、孤立感を味わった苦い経験もある。教員組合組織に入っていなかったし、学校運営の管理職側にもくみしていなかったからだ。生徒側にスタンスをおいて、学校運営で、教育上おかしいと感じたことは、発言し続けてきた。定年まで、この姿勢を変えなかったことが、一教員として歩んできた私の自負である。
今では、職員会議で発言する人はいなくなったようだ。教育現場にも、教育行政の力が強化されてきている。その背景には、運営に反対する組合の力が低下し、バランスを欠いていることも要因でもある。おかしいことは、おかしいと言える環境と、それを発言する人が大事だ。ここに教育の大きな問題がある。きちんとした議論をした上で、決定したことを実行していく体制が重要である。上意下達の組織では、活力がなくなり、個人の能力を発揮することはできなくなる。これは、組織の普遍的な原理だと私は考える。教育行政の意のままに忙しく動く教員の姿が目に浮かぶ。この教員の姿勢が、教員多忙化の1つの要因になっていることは否定できない。私の教員時代は、まだ必要な議論が行われていた。組合員は、組合組織を背景に発言していた。私のような非組合・非管理職の教員で意見を述べる人は、少数であった。意見を述べることは、自分の考えを公表し、その発言に責任が生じる。その結果、人間関係にも大きく影響したことが、経験的事実である。私は、自分なりに人間関係を大切にしてきた。一般的に、日本人は、議論が下手で、感情的になりやすく、対立関係を作り出してしまう傾向性が強い。そのために、相互の信頼がなくなり、対話が成り立たないのである。対話の前提は「信頼」である。お互いを尊重する信頼なしに、対話は成り立たない。私の教師生活の信条は、「生徒との信頼」にあった。「信頼関係なしに教育はない」のが、私の持論である。
ともかく、現憲法下では、武力行使ができなく、戦争はできないのである。自主憲法の制定を主張する保守右派勢力が存在し、それもかなり強い勢力である。その極右勢力を代表するのが、石原元都知事と言っても間違いではないだろう。自民党の中にも、俗にタカ派とハト派が存在し、安倍首相はタカ派である。右派勢力は、憲法改正をして、自衛隊を防衛軍にし、武力行使のできる憲法を作りたいのである。これは改正ではなく、改悪であると考えるのが私のスタンスである。
今回、憲法前文、第2章第9条を確認した。国民主権、国会重視、武力行使の否定、戦力の不保持を宣言した「平和主義」である。その憲法にも、直接的な文言の上で、不備な点があり、盲点と言える。そのために、安全保障問題が生じたのである。政府は、日米安保条約・日米同盟の下、憲法解釈で、国政を行ってきたというのが私の認識である。個別自衛権の問題である。つまり自国防衛の権利を持つとの憲法解釈である。専守防衛に徹し、他国に脅威を与えるような軍事大国とはならず、非核3原則を守るとの基本方針を堅持しつつ、世界平和に貢献する「平和国家」として歩んできたとの見解が、従来の政府見解である。しかし、国際状況が様々に変化し、危機的な段階に入ってきている。その変化に対応する法の整備が必要になってきているのが現実である。しかし、憲法の拡大解釈は許されない。限定的な解釈に基づくべきである。
現在、毎日新聞で、8月5日から、公明党結党50年「中道は・いま」と題し、連載記事を載せている。公明党は、「大衆のために」とスローガンを掲げて野党としてスタートし、紆余曲折し、政策を転換し、現在に至っている。この間に、いろいろの疑問を抱いたことは私の中にある。しかし、選挙において公明党に投票してきた。公明党の党是である「平和の党」の軸は変わっていないと信じてきたからである。
現在の政治状況は、すでに触れたが、1強多弱の保守体制になっている。社民党、共産党の革新と称する政党には、力がない。民主党は、今回の問題に関して、海江田代表が、野党第1党としての反対を表明したが、民主党には、保守と革新の勢力が混在しており、まとまりがつかない。民主党は、政権を担当し、国民の期待を裏切ったのである。この事実は消えることはない。自民党は保守だが、今回の問題に関しても、一枚岩ではないし、考え方の度合いに開きがあるのだが、リベラル派の意見が表に出てきていないようだ。自民党の中にも、発言ができない雰囲気があるように感じる。内閣支持率の故か。また、政治家は選挙を最優先している故か。ここにも問題の根がある。
今回の勉強の中で知ったのだが、日本国政策フォーラム政策委員会という公益財団法人がある。委員長は伊藤健一で、8月6日に全国紙に意見広告を掲載した。72名の署名者がいて、小池百合子を含め、著名な自民党議員・学者・評論家等の名前が並んでいる。このグループも右派勢力である。このグループは、今回の閣議決定を集団的自衛権の行使容認と歓迎し、必要な法制度の早急な整備を求め、国連の集団安全保障には、軍事的措置を伴うものを含めて、参加せよと、積極的平和主義と日本の針路と題する提言をした。今後は、このような右派勢力とのせめぎ合いになる。私は、公明党が、与党内野党の立場で、ブレーキ役の役割が更に高まったと考える。
今回論議となっている集団的自衛権の行使とは、端的に言うと、他国のための武力行使と理解していい。国際法上は、集団的自衛権は認められているが、公明党は、この他国のための集団的自衛権を認めてはいない。責任与党の立場を堅持し、自国の防衛は、自衛権と捉え、日本の自衛のための武力行使を容認したぎりぎりの現実的な対応だったと私は理解している。しかし、一般には、集団的自衛権を容認したと捉えられるリスクが生じたと認識している。これからの法整備への議論で、国民の生命と、国の安全と平和のために、右派勢力が考える日本にならないように、「平和の党」としての役割を果たしてもらいたい。同時に、私たち国民も主権者として、国民の代表者としての国会の議論を注視しなければならない。
憲法前文に、「日本国民は、正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し、・・・国政は、国民の厳粛な信託によるものであって、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する。これは人類普遍の原理であり、この憲法は、かかる原理に基づくものである」と書いてある。したがって、国民、国会、政府の責任は明確である。この原点を忘れてはならない。