僕の日課は、毎日平日の夕方に地方で放送される水戸黄門の再放送を見ることです。
現在放送されているのは第22部あたりで、西村晃さんが黄門役、あおい輝彦さんが助さん役、伊吹吾郎さんが格さん役といった感じです。
僕はもともと日本史が好きですが、時代劇はあまり見ません。
しかしながら、この水戸黄門だけは、割と昔から見てきました。
水戸黄門こと水戸光圀公は、史実に基づけば歴史書「大日本史」編纂のために全国各地を歩いて旅をした伝えられていますが、ドラマ「水戸黄門」ではそのような描写は一切無く、全国各地を食べ歩きしながら悪を懲らしめるというストーリーになっています。
彼は、「畏れ多くも先の副将軍」ということで、相当なご身分でありますが、それをあえて隠して「ちりめん問屋の隠居」「旅の隠居」などと言って旅を続けています。
最後に身分を見せ、周りの者をひれ伏させる点で、このドラマはえらく権威主義的であり、大義を重んじる朱子学的な考え方が蔓延しています。
しかし、人というのは、エーリヒ・フロムが言うように、どうやら権威に服従することが根っから嫌いではないらしい。
事実、水戸黄門の前に善人悪人かまわずひれ伏すシーンを見て、権威主義的だと不愉快になる人はいないだろうし、むしろ水戸黄門の前に「ハハ~」と頭を下げたくなる気分になる人もいるでしょう。
僕ぐらいになると、むしろ権威を悪用し私欲をむさぼる悪代官にさえ「ハハ~」としたくなることがあります。心が弱っている時など、善人悪人関わらず権威に服従したくなる時があるのです。
水戸黄門は、しかし、単に権威を用いて悪を懲らしめるだけの存在でしょうか。では逆に、権威が無くては悪を懲らしめられないような存在でしょうか。
僕は、そうは思いません。
蓋し、「水戸黄門」というドラマにおいては、悪を見つけてから権威を行使するまでの時間軸に平行して、個人的な勝負(人間としての勝ち負け)が描写されているように思います。
権威においては水戸黄門に適うものなどいません。ゆえに、ここにドラマは発生しません。
問題は、必然的に権威を抜きにした個人的勝負になります。
そこに登場するのが、助さんや、格さん。もっと言えば、弥七や飛猿、お吟などです。
そして、彼らもまた、個人的勝負において負けることはありません。
悪を懲らしめるという善の動機、私欲をむさぼるという悪の動機。この時点でも既に社会的に彼らは勝っています。
しかも、それだけでなく、助さんや格さんは、強い、強すぎる。
彼らは全くひるむことが無い。「ピンチ」が無いのです。
普通ドラマの演出っていうのは、主人公達に沢山のピンチが降りかかって、それを乗り越えて行く所に生じるものです。
しかしながら、水戸黄門はその描写を完全に無視している。絶対に負けることがないのです。
けっきょく、水戸黄門は、権威だけなく個人的、実質的勝負においても負けるどころか、ピンチになることが無いのです。
では、ドラマ「水戸黄門」とは一体何者なのでしょうか。こうなると、いよいよドラマではありません。
荒唐無稽な何かでしょう。
しかし、太宰治は「弱者の糧」において、次のように書いています。
観衆たるの資格。第一に無邪気でなければいけない。荒唐無稽を信じなければいけない。大河内伝次郎は、必ず試合に勝たなければいけない。或る教養深い婦人
は、「大谷日出夫という役者は、たのもしくていいわ。あの人が出て来ると、なんだか安心ですの。決して負けることがないのです。芸術映画は、退屈です。」
と言って笑った。美しい意見である。利巧ぶったら、損をする。
これは日本の大衆映画の観衆に向けて書いたものであって、今回のコンテクストとは若干異なりますが、それでも僕はこの言葉にひどく共感しました。
そうだ。水戸黄門は「必ず試合に勝」ち、「決して負けることがない」のだ。「あの人が出て来ると、なんだか安心」するのだ。
そうやって水戸黄門は、毎日疲れた僕の心を癒してくれるのです。