お祭り資本主義 | Hack or Fuck ?

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で、おれは「そうか、オスプレイは縁起物だったのか」と納得し、門松や酉の市の熊手などを思い出した。

短絡と早合点を宗とするおれの妄想は糸の切れた風船のようにフワフワと上昇し、ついにひとつの結論に達した。▼

日本は「お祭り資本主義」国家である。

そうだったのか…

おれは脳内に広がる妄想の青空に舞い上がる妄想の風船を見上げながら一人呟くのだった。

そう言われてみれば(実際には誰も言ってないが)、アベノミクスも何だかよくわからないイベントのようだし、東京五輪などお祭りそのものだし、「食べて応援」もそれっぽい。

それっぽいというのは、つまり「非日常的」ということだ。

言うまでもなく、お祭りとは非日常的なものだ。

そしてお祭りの期間は、大抵の場合、独特の空気が街中に漂う。

漂うその空気が人々を地面から微かに浮かび上がらせる。

フワフワしたような、微熱に冒されたような、何か不定形なものに包まれたような、そんな感覚があたりを支配する。

人々は何の意味もなく笑い、大袈裟に振る舞う自分に時々は気付くが、「今は祭りなのだから」と目を逸らす。

逸らした視線は派手な張りぼてや街中にぶら下げられた祭り提灯に掻き回されて、溶けていく。

気の早い商売人は祭りに乗じて早々とセールの貼り紙を出し、人々の気持ちを盛り上げる。

男たちは、子供に返ったかのように祭りにかこつけては寄り合い、酒を呷る。

女たちは祭りの準備に大わらわだ。その合間を噂話で埋め尽くす。

子供らもそんな大人の日頃とは違う「はしゃぎぶり」を感じ取り、「今はお祭りだから少々、羽目を外してもいいんだ」と胸躍らせる。そして、お祭りの間だけ突如として路上に現れる数々の露店のことを思い浮かべる。

金魚すくい。綿あめ。アニメのキャラクターのお面。射的。焼きそば。焼き鳥。りんご飴。チョコバナナ。かき氷。風船。型抜き。プラスチックの玩具。露店の奥に飾られた景品の山。

夕闇が濃くなってくるにつれ、照明に浮かぶそれらはますます魅力的に見えてくる。

あれも欲しい。これも欲しい。

子供らは目をキラキラさせながら、ダメ元で大人たちにねだってみる。

奇蹟が起こる。

いつもなら「ダメ!よそはよそ、ウチはウチ!」と言っていたママが金魚すくいをやらせてくれる。

「やってみるか」とパパが射的の屋台で立ち止まる。

子供らは、大人の財布の紐を緩めることができる「お祭りの力」をまざまざと見せつけられる。

キワモノを売る夜店が並ぶ。

非日常的な「現実」に老いも若きも酔い痴れる。

日頃の枠も踏み越えて様々な職業の男たちがひとつの神輿を担いで町内を練り歩く。

ヤクザと堅気のコラボレーション。

そんな「非日常的日常」が、本来の祭礼を侵食するようにずっと続いている気がする。

いつから?

もちろん、3.11以降だ。あるいは、そのずっと前から「非日常的日常」は続いていたのかもしれない。

しかし、おめでたい性格のおれは、3.11以降、それに気づいた。あまり、気づきたくなかったが。

そして、ここには、ある種の誤認がある。

今、この国を覆う「非日常的日常」とは、要するに、収束しない非常時に他ならないのだが、それがいつしか、ある種の祝祭のようなモードに変換されていったような気がする。

これはどこかの誰かが意図を持って誘導さたというより(誘導がなかったとも言い切れないが)、人々が様々な理由から選択した結果なのだろうと思う。

ノスタルジー。現状への執着。未来への不安。集中力の欠如。コモディティ化の恐怖。そんなあれやこれやがない交ぜとなり、なぜか思考停止の様相を帯びる。その結果、「この国は素晴らしい!」「バンザイ‼︎」「いつ稼ぐの?今でしょ⁉︎」「祭りだ!わっしょい‼︎」となる。

不思議と言えば、不思議。奇妙と言えば、奇妙な現象だが、それもこれも「お祭り資本主義」のこの国では当たり前の流れなのかもしれない。

そういうわけで、この国は今も祭りの真っ最中のようだ。あまり説得力はないが。

おれも祭りは嫌いではないが、ただ、これほどまでにつまらない祭りは知らない。

何よりも、この祭礼には神がない。