
断捨離(だんしゃり)とは、不要なモノなどの数を減らし、生活や人生に調和をもたらそうとする生活術や処世術のこと。 Wikipediaより引用
数年ぶりに、なかなかはかどらないながらも個人的に断捨離熱が再燃している。
何気なく再読した「断捨離」が、忘れかけていたことを思い出させてくれた。
あるいは、刻まれた記憶が、「断捨離を思い出せ」と顕在意識に働きかけたのかもしれない。
この間も休日にちょっとやっただけで、45リットルのポリ袋で10杯分の不用品が出てきた。
もちろんまだまだ序の口だが、ここで何を断捨離したとか、残したモノはこんなのだったとか言いたいわけではない。
じゃあ何が言いたいのかと言うと、自分でもよく分からない。
そこで、思いつくままに、これを書くことにした。
まずは、今さらではあるが、断捨離はかなり効果的な瞑想メソッドであるということから始めてみる。
元々、ヨガの行を下敷きにしたということなので、当然と言えば当然だが、人々が営む日常生活の中でごく普通に見られるありきたりの行為は、「断捨離」というパースペクティブによってたちまち非日常的な行に変わる。
そして、その「変容」の感覚はわざわざ遠くの寺院やどこかの施設などに出かける必要もなく、自宅で実感できるのだ。それもかなりの高確率で。
断捨離提唱者のやましたひでこ氏によれば、断捨離の目的は、
①自分軸を取り戻す
②時間軸を「今」にする
③心身ともに健康になる
④さまざまな執着から解放される
と、ある。
断捨離の凄い点は、これらの「目的」は、モノを通すことでほぼ間違いなく達成されるということだ。
証拠を出せと言う人もいるかもしれないが、そういう人は一度、断捨離してみればいいと思う。
それは実践した者でなければ、感じることのない世界の話だからだ。
ここまで書いて、ふと、断捨離は臨死体験に似ていると思う。
臨死体験をした人が生還して、それまでとはまるで違う生き方を始めたという話がよくあるが、断捨離を体験した人にも共通点があるような気がする。
断捨離とは「小さな死」なのかもしれない。
それでは、何が死ぬのか。
断捨離の目的を反転させてみればいい。
❶他人軸で生きるということ。
❷時間軸を「過去」または「未来」にする。
❸心身ともに不健康。
❹さまざまなものに執着する。
こうして反転してみると、現代人の「典型的」な生き方そのもののような気がする。
言わば「断捨離の陰画」としての人生。
それが、死ぬ、ということだ。
断捨離によって「小さな死」を体験した人は、一気に、あるいは徐々に蘇生する。
自分軸、つまり魂中心の生き方にシフトする。
他人の価値観や過去の記憶や未来への不安に覆われていた魂が次第に露わになっていく。
多くの人たちが断捨離に魅了されるのは、この「解放感/再生感」なのだろう。
「物心」がついたと同時に様々な価値観を十重二十重に着せられて、よもや自分がこんなに軽やかになることなど想像すらしてなかったところに訪れるこうした感覚がもたらす衝撃は大きい。
そして、自分がどれだけモノと自己同一化していたかということに茫然とする。
断捨離関係のブログ記事を見ると、たまに「断捨離を続けていると、虚無感が生まれる」というようなことが書いてあるが、これは、それまで「モノに付着していた」自我/思考が宿主を失い浮遊している状態のことだろう。
こうした虚無感(浮遊感)はやがては消えていくのだが、人によっては、断捨離から遠ざかることもあるだろう。ダイエットのリバウンドのようなものだ。
ただ、一度でも断捨離による快感を味わった人は再びその世界に戻ることになるはずだが、実際のところは分からない。世の中には、未知の自由より、馴染み深い束縛を求める人が相当数いるようだから。
一方、虚無感など物ともせず断捨離にのめり込む人々もいるようだ。
「捨てたい病」などという言葉もネットで見かけた。
こうした人たちは、モノではなく、モノを捨てるという行為に自己同一化しているのかもしれない。もし、そうであれば、それはやはり「病」だろう。
断捨離は、魂への回帰のためのレッスンだからだ。たぶん。
モノであろうが、行為であろうが、魂以外の何かに自己同一化すること、それを煩悩と呼ぶ。
断捨離はそういうことを教えてくれる。