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帰省するたびに思うことは郷里で生活する親たちとの価値観のズレである。
詳細は書かないが、何かについて話しているといつの間にかお互い別の話題を話しているのではないかという感覚にしばしば見舞われる。
価値観とは「眺め」なのだと常々考えているおれとしては立ち位置が違うのだろうなということで納得はしているつもりだが、それでも肉親ということだからなのかたまに心が波立つようなこともないこともない。
価値観とは
価値観とは「眺め」である。
そういう場所に自分が立っているということを示すに過ぎない。
自分が移動すれば自ずと風景も変わる。
つまり価値観とはあのGoogleマップで青く点滅するマークが現在位置を示すように、自分の精神的現在位置を示す指標である。
それが何らかのきっかけ(意見の対立等)で作動して(感情が動く)、初めてわれわれは自分の現在位置を知ることになる。
そういう意味では「引き寄せの法則」のエイブラハムが言う「感情というナビゲーションシステム」というのは理にかなっていると思う。
ちなみにカミさんはあのマークのことを「青井たま子」と呼んでいる。
そうであるとするならば、おれと親たちの「現在位置」は同じ場所にいながら異なっているということだ。
こうしたことは誰にでもあるが、時にはそれが深刻な問題に発展することもあるだろう。
幸か不幸か今回の帰省においてそうした決定的な衝突はなかったとおれは安堵しているが、親たちはどう思っているのかは分からない。
もちろんこれは肉親との間だけの問題ではない。
あらゆる人間関係において価値観の相違は必ずある。
だからこそそうした齟齬、ギャップを埋めるために人々は意見を交わし、道徳を生み出したり、妥協点を見出したり、適当に相づちを打ったり、相手を抑圧したりするのだが、それについてはまたの機会に気が向けば考えてみたい。
それでは何が言いたいのかと言えば、こうだ。
価値観という自分の精神的現在位置を意識するということはそれはあなたがあなただけの地図を手にしているということに他ならない。そしてその地図を頼りにあなたはあなたの旅をするのだ。それが自己認識の始まりなのだ。
架空の街
人間関係において様々な悩みを持つ人々は少なくない。
それらを少しでも円滑にするためにまた悩む。
お互いのいる場所をズラし架空の現在位置を設定する。
架空の地図が作成される。そして誰もがどことなく居心地の悪さを感じつつもやがて適応していく。架空の街に住む「アバター」となる。
だが架空なものは結局のところ架空のものである。
いつまでもモバゲータウンやアメーバピグに張り付いているわけにはいかない。
あなたが社会との軋轢や人間関係に悩むときそこには必ず感情の「青井たま子」が点滅する。あなたの精神的現在位置を知らせてくれる。他者との価値観の相違に悩む必要はない。
架空の街を出るチャンスを常にあなたは持っている。
旅に出よう。