
猛暑お見舞い申し上げます。
私は昨日子どもを連れて本牧市民プールに行ってきました。
今年もプールサイドの一番奥に設けられた喫煙コーナーではタトゥーな人たちが満開でした。
中には、派手なラッシュガードのようなモンモンを背負われた方もおられました。
本牧にまた夏が来たという感じです。
というわけで、今日の関東は少しは暑さも緩んだような気もするが、以下の記事を目にしてしまうと、緩んだのは暑さではなく、頭のネジの方なのかもしれないなどという思いが沸く。▼
福島・いわきの2カ所で海開き 海の日の日差しに子供の歓声 - MSN産経ニュース
【主張】海の日 「守る」戦略が繁栄の道だ - MSN産経ニュース
規制委「海洋汚染は継続」 福島第1地下水問題 濃度さらに上昇 - MSN産経ニュース
まるでそれぞれ別の国の話のようだが、どうやらわが国の話らしい。
まとめてみると、放射能による海洋汚染は継続しているが、福島・いわきの海水浴場の海開きは歓迎しつつ、そうしたシュールな状況の中、他国の侵犯から日本の「海」を守れというのが、産経ニュースのスタンスのようだ。
個人的には統一性を欠いているような気がするが、それはおれが夏の熱気にやられたからなのかもしれない。
ということで、今回は他に書くことも思いつかないので、「気づき」について書いてみることにする。
そう大した内容ではない。
われわれは日々の生活において様々な「気づき」を得ている。
「気づき」という言葉は日常会話の中でも割と頻繁に使用するだろう。
たとえば、
「私、昨日テレビ観てて気づいたんだけど…」
「おい、もっと気づけよ」
「おれ、財布に10円しかなかったことに気づいたよ(泣)」
…と、まあ貧弱な例えしか思いつかなかったが…
とにかく、そういう感じの「気づき」であるが、結論から言えばそれは「気づき」ではない。
それらは単なる意見や感想に過ぎない。
もちろんそうした意見や感想の中には、目の覚めるようなものも数多くある。
しかし、それでも結局は単なる意見や感想に過ぎない。
なぜなら、言語化されたからだ。
言語化されたものは固定される。
固定されたものは物質である。
物質に「気づき」はない。あるのは、反応だ。
暑いので、かなり端折って言うと、「気づき」とは言語化されない主観的な何かである。
だから何が言いたいのかと言うと、普通にわれわれが「気づいた」と思うとき、それは大抵の場合、自我・思考が反応・露出したことに過ぎないということだ。
有り体に言えば、あなたが「自分は気づいた!」と言うとき、それはあなたが「それ」が見えるポイントにいたということを指すのであって、ただそれだけの話なのだ。
もちろん今こうして書いているおれの言葉も同様だ。
だからと言って、それらがまるで無意味だと言うのではない。(無意味なものも数多くあるが)
そういうわけで、あなたが気づいたと思い、その気づきを言語化するとき、それはひとつの思考という物質として結晶したということであり、思考の物質化とは即ち、あなたの自我が露出したということであり、本当の気づきとは「そのときの」あなたの感情、思考を認識する眼差しのことである、とかねがねおれは思っているのだが、それがこの現世に特別利益をもたらすことはない。
だが、特に利益をもたらすこともないこの眼差しがあるのとないのとではかなり違った人生になるのではないかと思っている。まあ、どちらかと言うと、あった方がいいのではないかという気はしている。
もっとざっくばらんに言うと、思考が気づくことはない。
思考が呟いているのは、それがどのようなものであれ、常に「~という私」ということだけだ。
あるいは、「I think that…」のみだ。
当たり前と言えば当たり前のことだが。
こんなことを書いたからといって他の人々の意見や感想に何の意味もないというわけでは、もちろんない。
もちろんないが、たまにはこのような視点で自身の思考を眺めるのはあながち捨てたものではないと思う。
それは自我への同一化による弊害を解毒する効果がある。
何だか夏の陽炎のようなことを書いてしまった。
それはおそらくこの猛暑のせいだ。
夏はまだ始まったばかりだ。
今後もさらなる警戒が必要だ。