学校の足元を流れる深い河 | Hack or Fuck ?

Hack or Fuck ?

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それが本心から出た言葉なのか、それとも何らかの政治的意図から発せられた言葉なのかは知る由もないが、大阪の桜宮高校の体罰事件に関して橋下市長が「仲間が死んだのだから、今何をすべきか考えてもらいたい。この状況で部活をやったら上手くなるかもしれないが、人間としてはダメだ。それを言うのが教育だ」と言ったという。

おれは維新の会の支持者でも何でもないが、これには同意したいと思う。

今回のケースはあの日本的連帯責任というやつとは性格が異なるように感じる。

記事は生徒たちの言葉も取り上げている。

「仕方ないとは思うが、本当は早く部活をやりたい」
「これだけの事態になってるのは分かっているけど、(自分の所属している部で)問題が起きたわけではないのに…」
「この問題はバスケ部の問題で、他のクラブには関係ない。自分たちが練習したくてもできない状況はしかたないが、どうして、他のクラブにまで影響するようなやり方をするのか。僕たちの思いや言い分も聞いてほしい」


もちろんこれがすべての生徒たちの声ではないだろうが、こうした意見を持つ「こども」がいても不思議ではない。だが、やはり「こども」の意見だと思う。

そして、これら「こども」たちの言葉を読んだとき、おれは瞬間的にレイモンド・カーバーの短編「足元を流れる深い河」を思い出した。

もう十数年前に読んだきりなので細かいところは忘れたが、簡単に説明するとこうだ。

仲良しの男たち数人が休暇を取って山奥かどこかの渓流にキャンプをしに行ったところ、女の死体を見つけた。彼らはすぐに死体を川岸に引き寄せた。だが通報することはなかった。どちらにせよ彼女は死んでいる。だから自分たちは休暇を楽しんで、それが終わって山を下りるときに通報しても変わりないじゃないかと考えた…この事実を知った男たちの妻の一人は…

と、いうような話だ。何とも言えない重苦しい気分の漂う小説だったのを覚えている。

そしてあらためて、生徒たちの言葉を眺めてみると、ある種の薄気味悪さを感じないだろうか。

生徒たちの言葉は休暇を取って渓流釣りを楽しむ男たちのメンタリティと重なる部分があるのではないだろうか。

彼らは小説の登場人物でもないし、無責任なおとなではない、同列に論ずるべきではないという声もあるかもしれない。

あるかもしれないが、おれはカーバーの小説ととても似ているなと思うし、何よりこれが生徒やその保護者たちの代表的意見だと思いたくない。

(そもそもそんな意見などごく少数で、それをマスコミが橋下市長バッシングのネタに取り上げたという見方もできなくはないが)

仮にそうした薄気味悪いムードがあるとして、それをまき散らしたのは今のおとなたちであることは間違いないだろう。そしてそうしたムードに適応せざるを得なかったこどもたちには同情は必要だろう。

だからこそ今回の橋下市長の発言には同意したいと思う。もちろんマスコミやネットで伝わってくる橋下市長の発言には様々な矛盾が指摘されているのは分かる。

彼が原発再稼働を容認した事実とか震災瓦礫を受け入れたとかは脇に置いて、その言葉のみに耳を傾けたいと思う。

重要なのは誰が言ったのかではなく、何を言ったのかだ。

そしてそれをどう聞くかだ。

*引用記事元



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