今年は梅雨が来ないかも知れない、
なんて思ったら梅雨入りして連日の雨。
二週間も遅れているとか。
昔は、
♪棒が一本あったとさ~
6月6日に雨ザーザー降ってきたもんだ。
庭を覘いたら、咲くタイミングを誤ったのか、
くたびれた紫陽花と、何やら綺麗な花が
咲いている。
写真を撮って画像検索したら、ヤブカンゾウ、
ヒメヒオウギズイセン って言うらしい。
植えた覚えはないのに、何年か前から
勝手に咲いている感じ。
いくつも咲いた、マシな紫陽花
レモンバームを背にした、ヤブカンゾウ。
柚子?の前に咲く、ヒメヒオウギズイセン。
沢山咲いたので花瓶に挿して日興に供えた。
父はノートPCを使用している。
最近、
「文字入力すると勝手にカーソルが
何処かに飛んで行くので困っている、
何とかしてくれ」
という。
肘とかが意図せずマウスに触れてるんぢゃないの?
ちゃんと机を整理して広くしてやれば?
と、面倒なので適当にあしらっていた。
昨日、
「マウスは絶対に触ってない。もう限界だ。
PCを買い替えようか」
と言い出すから仕方ない、見てやった。
どこもオカシクないなぁ、
機嫌よく動いているのに……
あ、思い出した。
実は父、月初に体調を崩して少し入院していた。
その時、病院にPCを持ち込んでいて、
ベッドの上ではマウスが使いにくいので
タッチパッドをアクティブにしてあげた。
家に帰ったら切れよ、と言ってあったのに、
退院してマウスを使いだしてもアクティブの
ままになってるぢゃんか。
そりゃパッドに無意識に手が触れれば
ポインターがワープするわな。
年寄りはすぐに忘れるんだから。
ワタシもだw
しかし不思議なもので、パッド使いを一度
意識したら手はずっと勝手に避ける。
無意識だとパニクるw
一度意識すれば当たり前のことになるのに、
無意識のうちに前提が変わっていると
理解を超えるんだな。
功徳を願いながら祈って動いても殆どが
叶わないことを、心の底では意識している。
「乞食信心」は叶わないと聞いたこともある。
だからといって無意識に活動しても、
願いはやっぱり叶わない。
「祈りは具体的に」と聞いたこともある。
スピみたいだ。で、どっちやねん。
どっちにしても叶わんのか~いw
「祈りとして叶わざるなし」のはずだと
気を取り直していると、ちょっといいことがある。
願いの序章ですらないことが、「福運」だ、
「諸天善神」だ、となって大喜びする。
ここで喜ばないと喜ぶところがないみたいに。
追い込まれているから、無意識で起こることは
どんなに小さなことでも理解を超えた超常現象に
見えてくる。
そしてこれは吉兆だと歓喜する。
祈りの「目的」は何処へ行った?
結局、何を祈っても殆ど叶っていないぢゃないか。
「何か深い意味がある」
そこに落としてお終い。
理性と指導と御書の間にある矛盾によって
人生を揺れ動くのがしんどくなるから、
ますます深く考えなくなる。
でも結局、思い返せば願いは叶わなくても
全部自分で何とか乗り越えられたぢゃないか。
それが本来の宗教なんぢゃないの。
出来るだけ穏やかでいるための。
会ではバカになって動けとしか教えてくれない。
祈りを否定するつもりはない。
尊いことであり人類の希望かも知れない。
しかしその効果を過大評価することについては
冷静にならないといけない。
劇的に効くなら、多くの人が祈る世界平和は
とっくの昔に実現しているはずだ。
なんかそんなことを思い出したw


