何のために会に入ったのか。
「自分や家族が幸せになるため」というのが主流派かな。
では幸せとは何か。
会では「絶対的幸福境涯」を確立することを表向きの目的としている。そのためには何をするのか。
その主体が広布の活動なんだって。
ここら辺から如何わしさが漂って来る。
活動の主なものといえば、「新聞・選挙・財務・書籍・興行・折伏」かな。これ、自分にとって本当に有益なのか?
社会の役に立っているのか?
折伏以外は全部、直接的に会の上層には役立っている。
折伏はそれらの活動者を増やすことに他ならないから、間接的に重要。実際は新規入会より退会防止の方が現実的だけど。
そもそも「絶対的幸福境涯」というのは、何があっても外の条件に左右されない幸福らしいから、あまり言わないけれど、どんな不幸もやって来ない訳ではなく、自身で勝手に乗り越え昇華しなさいという意味なのだろう。
よって自然の摂理や世の中、他人を変えようとかではなく、自分身の捉え方の問題なので、自分が変わればいいという教え。
これは家族を持たない出家僧ならイメージしやすいけれど、在家に求めてどうする。
仮に家族全員が「絶対的幸福境涯」を確立したとして、不幸に見舞われたときにはみんなシレッとしているのだろうか。
なんか味気なくね?
悲しいときは涙が涸れるまで泣くことの方が美しく乗り越えられると思う。
時間、労力、心づかい、お金…… 即ち人生、いや、「命」を会の活動に捧げて来た活動家は、一体何を得たのだろうか。
会では「絶対的幸福境涯」をうたいながら、現場では功徳ばかりを煽っているし、周りや諸天が動くことを期待するから、不幸に対する強い耐性を持ち合わせている人は少ない。
鈍感になって今世は諦めの境地に達し、来世へ夢をつなげている人は沢山いる。
会長をはじめ、「絶対的幸福境涯」を確立したという会員なんか見たことも聞いたこともない。
会は人々の人生を搾取しているのに、それに相応しい役割を果たして来たのだろうか。
一部の人ではない。指導によって全会員が幸せになったかどうかを問うている。
これを考えた時、上層がまともな神経なら、恐ろしく罰当たりなことをし続けていると思うだろう。
にもかかわらずそれが出来るのだから、聖職者でも何でもないことが分かる。
ワタシの知り合いは、これに気がついて本部の職員を3年で退職した。
命がけで活動している人には本当に失礼だが、外部から見たら活動の何れもがお笑い草でしかない。
やっている本人だって薄々それを承知で、凡夫には分からないけれど、深い意味があると信じるしかない。
ここでやめたら全てがオジャンだと、悪魔がささやく。
大掃除も終わり、今年最後の更新になります。
実質的にブログを始めて約11ヶ月が経過しました。
毎度くっだらない戯言にお付き合い頂きまして、有り難うございます。
多くの方からいつも「いいね」やコメントを頂戴し、大変励みになります。
にもかかわらず余裕のなさから、読者様ブログへの「いいね返し」や「コメント返し」が殆んど出来ていないことをお詫び申し上げます。
ワタシ的には当初の想定よりも更新頻度が高くなり、いつの間にかまさかの100記事を超えたようで、自分でも驚いています。
ペースを調整しながら、もうしばらく続けて行ければと思います。
来年もどうぞ宜しくお願い申し上げます。
皆様、よいお年をお迎えください。