胸中題目 | 河童の川流れ 「いい夢見ろよ~ あばよ!」

河童の川流れ 「いい夢見ろよ~ あばよ!」

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非活になって困ったのが、胸中題目。

仏壇前での唱題は明確にやめることは出来ても、長い習慣から、ふとした瞬間に無意識に胸中題目を唱えていることが多かった。

いかんいかんと思い意識的にやめることが続いた。

 

こうした習慣も時間と共に薄れてきたが、緊迫した状況が迫った時、禁断症状のように唱えたくなることもあった。

家族の病気や子供の受験など、その機会は何度となく訪れたが、その都度、意識的に回避した。

唱えてなるものかと、意地になった。

そして唱えずして課題を次々とクリアしていく現実が続くと、「やっぱ関係ないよな。世間の人はみんなこうなんだよ」

と思えてくる。

 

しかし関係ないならどっちでもいいぢゃん、唱えたら駄目もヘンぢゃね? と思いはじめたのが最近。

つまり、自分の心を落ち着かせるという意味でのルーティーンのひとつとして有用なら、他に害がないなら、これもアリかなと。

タバコと酒のように、禁煙・禁酒をしてみて続けられると分かると、

「なんだ、いつでもやめられるぢゃん。なら体に注意して再開だ」

という心理に近いかも。違うかw

 

なので、ルーティーンとしての題目もアリだし、抵抗があるなら別のフレーズでもいいと思う。

今では題目にそれ以外の特別な効能があるとは思っていない。

あくまでもセルフコントロールの一手段であり、直接的に他者や諸天?を動かすような道理があるはずはない。

 

会では「念仏の哀音」と馬鹿にすることが多かったが、以前、友人の葬儀に参列した時に念仏での儀式を初めて体験した。

歌うように唱えられるそれは、これまでのイメージとは全く異なり、伝統芸術のように感じられた。

何だか新鮮で、感動すら覚えた。

 

またあるときは、友人の親が亡くなって生前に唱えていた念仏を自分も唱えて追善しているという話を聞いた際にも、会の受け売りで「念仏よりも法華経がいいと天台系は言っている」と言ったら、「念仏を信じて亡くなった父にそれ以外での追善なんて父は喜ばない」と言われてハッとしたことがある。

 

知らないことを調べもせずに受け売りで批判してはいけないなぁ。

なので気に入ったフレーズがあるなら他宗のものでもいいし、「大丈夫、大丈夫」「感謝、感謝」みたいなスピ系でもいい。

なんなら「マハリク・マハリタ・ヤンバルクイナ」でも、

「テクマクマザコン・テクマクファザコン」でもいいし、

「ラミパス・ラミレス・ルル3錠」でもいい。

 

現在のワタシは題目を意識的に止めることはやめた。

自然に任せている。

念じることもあるワードのひとつ。

取り敢えず色々な銘柄のタバコを使い分けて吸いながら、焦るな、モチツケ、みたいな感覚だ。

ワタシ、タバコは吸わないけどw

 

覚醒しても唱え癖が抜けないと、お悩みの方がいらしたら、

こんな考え方もアリかもね、ということで。