先日、キャリア30年の助教が

 

久しぶりに稽古に参加し、

 

みなで充実した時間を過ごすことができました。

 

私たちのかけがえのない仲間です。

 

その稽古において、

 

集中力の切れかかった時間帯がありました。

 

その時々で端的に指摘しつつ、

 

締めの時間に全員に檄を飛ばしたのが

 

前出の言葉。

 

稽古は、生きてる、と。

 

 

手技や足技の正確さを学ぶ、

 

究めることを目的とするのであれば、

 

道場の前に大画面テレビを用意し、

 

そこに教材ビデオを流せば

 

事が足りるのかもしれません。

 

型のDVDを流し、

 

組手の攻防を解説した画像を流せば、

 

ある程度の水準のものを身につけることも

 

できるのでしょう。

 

 

ですが、稽古はつねに生きてるもの、

 

ライブであり、

 

お互いが全力をぶつけ合うものです。

 

学ぶ者は指揮を執る者の技を

 

直接、目にする。

 

隣にいる仲間の技を目にする。

 

道場にいるみなの技に加えて、

 

その全体の雰囲気、空気を身体で感じる。

 

 

技だけではありません。

 

指揮を執る者から大きな刺激を受ける、

 

一緒に頑張っている仲間の気力、

 

集中力からも大きな刺激を受ける。

 

 

これらが道場全体の空気をグッと引き上げ、

 

道場を日常では得られない空間へと

 

変化させていくのです。

 

 

一人の練習では「ここまでしかできない」

 

というレベルを少しでも超える時間を

 

つくることができたなら、

 

それこそが稽古です。

 

指揮を執る者に刺激を受けて、

 

自らをいっそう高める、

 

仲間の踏ん張りに刺激を受けて、

 

気力、集中力をいっそう高める、

 

ここにこそ、

 

道場の存在意義があると言えます。

 

 

画一的な技を学ぶことが目的ではありません。

 

身体も、骨格も、息吹の大きさもスピードも、

 

同じ者は一人としていない。

 

そのなかで、他者からの刺激を受けて、

 

自らを少しでも成長させることにつなげていく、

 

そのきっかけを模索し、試行錯誤する。

 

そして、それを愚直に繰り返すことこそが

 

大事だと思うのです。

 

 

その成長への視点は二つ。

 

一つは、余白。

 

まだまっさらな部分を

 

確かなものとしていくということ。

 

これは、潜在能力の範囲内を

 

着実に自身のものとしていく取り組みです。

 

 

もう一つは、

 

いまの自分を振り切る力、

 

のびしろを広げていくということ。

 

これは潜在能力の領域を広げ、

 

自身の可能性を高めていく挑戦と言えます。

 

 

みなが気持ちと力を前面に出して、

 

道場の空気を作り、刺激し、高め合う。

 

これは、道場の理念のもとに私たちが

 

長年にわたって培ってきたものです。

 

 

稽古は生きてる、と感じると同時に、

 

やはり道場は良い空間であり、

 

良い時間であると思います。

 

 

追記

 

自分とはこういう者だ、

 

との思いは誰にでもあるでしょう。

 

これまでの経験と周囲からの評価にも

 

さらされながら、

 

すでに固定観念となってしまっているものが

 

みな少なからずあるはずです。

 

 

誰もが、この固定化してしまっている

 

形や枠を広げ、確かなものとしていくことが

 

できるものだと思います。

 

どのような年代においても、

 

きっと成長することができます。