ある道場の昇級・昇段審査会に

 

参加させていただいた。

 

道場生の前向きな姿勢、意欲、気迫、

 

いずれも素晴らしかった。

 

褒める要素はこのようにたくさんあるが、

 

一つ気がついた点がある。

 

審査会を見学する人々の様子、である。

 

それは、今回は審査対象ではなく、

 

見学している道場生、

 

今回、審査を受けており、

 

自分の出番を待つ道場生、

 

そして、その道場生を見守る父母など

 

保護者の方々であった。

 

 

足を前に投げ出す者、

 

膝に肘を突き頬杖をつく者、

 

寝そべる者、腕組みしている者、

 

壁に背をもたれて

 

だらしなくしている者、

 

改めて、このように文字にすると

 

いずれもひどい印象を受けるが、

 

名誉のためにも、実際の見た目の姿は、

 

あしざまに列挙するほどに

 

ひどいものではなかったと

 

申し添えねばならない。

 

 

ただし、見学者のなかで気になる者が

 

複数あったのは否めない。

 

神棚がない体育施設ではあるが、

 

ここは修養の場である。

 

それは根源的なものを言えば、

 

男としてこうありたい、

 

女としてこうありたい、

 

もしくは、人としてこうありたい、

 

という自分のありたい姿、

 

目指すべきものへの修練にほかならない。

 

受けや突きを1,000本、

 

蹴りを2,000本こなすこと、

 

技を身につけることだけを

 

学びに来ているのではない。

 

 

人が見ている、

 

見ていないにかかわらず、

 

その姿勢はおのずと

 

言動に現れるものである。


学校の授業参観で、

 

児童・生徒の後ろで保護者が腕組みして

 

授業の様子を眺めている、

 

だらしない格好で眺めているのは、

 

いつの頃からそうなったのか、

 

もはやおなじみの光景である。

 

いまの学校は

 

それでもよいのかもしれない。 

 

だが、道場はそれと同じではない。

 

 

人としてのありようを、

 

目指すべきものを学ぶ場である。

 

1回の稽古で、

 

1つでも2つでも何か得るものがあれば、

 

それは多忙ななかでも、

 

時間をつくって稽古に足を運んだ甲斐が

 

あるというものであろう。

 

スポーツクラブではない。 

 

それこそが道場なのである。

 

 

少し厳しく細かいことかもしれないが、

 

審査会の最後に

 

簡潔にそれを皆に伝えた。

 

私は皆を応援している。

 

それを気持ちを込めて伝えるのみである。

 

 

皆がどのように受け取ったのか、

 

それぞれではあろうが、

 

何か心にとどまるもの、

 

残るものがあったら幸いである。

 

 

道場生のみんなが、

 

空手道を学んでいるという自負、

 

長年にわたって学んできたという自負を

 

持ってもらいたいと心から願っている。