「シャボン玉飛んだ 屋根まで飛んだ

 屋根まで飛んで こわれて消えた」


懐かしい童謡です。

よく歌いました。


この歌には、悲しいエピソードがあります。


作詩した野口雨情(のぐちうじょう)は、

長女のみどりを生後8日で亡くしています。


「シャボン玉消えた 飛ばずに消えた

 産まれてすぐに こわれて消えた」


大切な娘が、産まれてすぐに、“こわれて消えて”しまったのです。


「風、風、吹くな」


の歌詞に、親としての切なる願いが込められているように感じます。

しかし、その願いもむなしく、

その後生まれた恒子も、2歳でこの世を去っています。


仏教では、死のことを「無常の風」と言います。

浄土真宗の葬式では、必ず読まれる蓮如上人の『白骨の御文章』には、


「既に“無常の風”来たりぬれば、

 即ち二つの眼(まなこ)たちまちに閉じ、

 一つの息ながく絶えぬれば、

 紅顔(こうがん)むなしく変じて

 桃李(とうり)の装(よそおい)を失いぬるときは、

 六親・眷属(けんぞく)集まりて

 歎き悲しめども、更にその甲斐あるべからず」


と書かれてあります。これは、


「一度、無常の風に誘われれば、

 どんな人も二度と眼を開かなくなる。

 一息切れたら、顔面は血の気を失い、

 モモやスモモのような肌色はなくなってしまう。

 肉親や親戚が集まって、どんなに泣き悲しんでも、

 二度と生き返ってはこない」


と言われているのです。


お釈迦様が、人間の真実の相(すがた)を譬えられた話に

出てくる“飢えに狂った大きな虎”とは、

この「無常の風」を譬えたものです。

http://ameblo.jp/go-go-pyonta/entry-10634542367.html


野原を旅する旅人たちを白骨にしたのは、この“虎”でした。


無常の虎は、情け容赦なく襲い掛かってきます。

盆も正月も関係ありません。

私たちの都合など、一切おかまいなしです。


決して逃れることは出来ません。


フランスの哲学者パスカルは言っています。


「幾人かの人が鎖につながれているのを想像しよう。

 みな死刑を宣告されている。

 何人かが、毎日、他の人たちの目の前で殺されてゆく。

 残った者は、自分たちの運命も同じであることを悟り、

 悲しみと絶望で互いに顔を見合わせながら、

 自分の番を待っている。

 これが人間の状態なのだ」


すべての人間は、不定の執行猶予期間のついた死刑囚であると

言っているのです。


違いありません。


蓮如上人は、『御文章』に、


「上は大聖世尊より始めて、

 下は悪逆の提婆に至るまで、

 逃れ難きは無常なり」


とおっしゃっています。


最も偉大なお釈迦様も、そのお釈迦様の名声をねたみ、

命を付け狙った提婆(だいば)も、死を免れることはできない、

と言われています。


たとえ、宇宙に飛び出しても逃れることはできないのです。


死は100パーセント確実な未来と納得しても、

平均寿命から言っても、まだまだ先のことと思いがちです。


「死なんてまだまだ先の話。

 今から考えたってしょうがないよ」


と言う人もあるでしょう。

果たして、正しい人生観といえるでしょうか?


ビートたけしさんは、1994年8月2日のバイク事故で

生死の境をさまよった時、

「今までどうしてこんな生き方したんだろう」

と自らを振り返り、「人生観の訂正」をせざるをえなかった

と告白しています。


「死というのは突如来る暴力なんだね。

 (中略)

 準備なんかしなくたっていいと言ってても、

 結局死というものには無理矢理対応させられるわけだよ。

 あまりにも一方的に向こうが勝手に来るわけだから。

 (中略)

 死というものの凄さというのは、自分の人生振り返って、

 何をしたとか何をしてないとかいうのは全然関係ない。

 そんなことはビタ一文かすんないんだよ」

(「たけしの死ぬための生き方』)


精神科医であった頼藤和寛(よりふじかずひろ)氏も、

52歳でガンの宣告を受けた時の心境を、

著書にこうつづっています。


「これまで平気で歩いてきた道が

 実は地雷原だったと教えられ、

 これから先はもっと危ないと

 注意されたようなものである。

 それでも時間の本性上、

 退くことはおろか立ち止まることもできない。

 無理矢理歩かされる。

 次の一歩が命取りなのか、

 あるいはずいぶん先のほうまで

 地雷に触れないまま進めるのか。

 いずれにせよ、生きて地雷原から

 抜け出ることだけはできない」

(『わたし、ガンです ある精神科医の耐病記』)


次の一歩で爆発するかもしれない道を、

だれもが歩いているのだと訴えています。


死はまだまだ先の話ではありません。

虎は、すぐ背後に迫っているのかもしれないのです。


にもかかわらず、自分が死ぬとは思えないのは、

“太陽と死は直視できない”

といわれるように、自分の死は、直視するには

あまりに過酷だからでしょう。


死と真っ正面に向きあうのは、あまりにも恐ろしいので、

病気や環境問題と対決しているのでしょう。

核戦争が怖い、地震が恐ろしい、不況が心配……というのも、

その根底に「死」があるからではないでしょうか。


それらの問題に懸命に取り組む姿が、

まさに虎から必死に逃げる旅人の姿なのです。


しかし私たちは、

「死神の掌中で弄ばれる道化」

ともいわれます。


どれだけ逃れようともがいても、死に向かってひた走っているのです。

しかもその壁の向こうはどうなっているのか、まるで知りません。


未来がハッキリしないほどの、不安なことがあるでしょうか。

先の見えない闇の中を走っているから、

何を手に入れても、心から明るくなれないのでしょう。


「この苦しみは、どこからくるのか」


——人生を苦に染める真因がわからなければ、

真の安心も満足も得られません。


苦しみの元を断ち切って、

「人間に生まれて良かった!」

という生命の歓喜を得ることこそが、人生究極の目的なのです。


死をありのまま見つめることは、いたずらに暗く沈むことではなく、

生の瞬間を、日輪よりも明るくする第一歩といえましょう。


━ ぴょんたの ◆◆
◆◆ ひとりごと ━


高校時代、友だちと「死」について話題になった。

「死ぬってこわいなぁ」

「でも、どうせ死んだら何にもなくなるんだから、

 楽に死ねたらいいよ」

「死ぬなら一瞬がいいな。

 病気で苦しんで死にたくない」

「そうだな。寝てる間に死ねたらいい」

「爆弾で一瞬で死ぬとか」

「何歳ぐらいで死にたい?」

「そーだなぁ。60くらいでポックリいけたらいいんじゃない」

「オレもそう思う。長生きはしたくないな」

なぜか頭に残ってる会話。


死について、それほど真面目に考えてなかった。

何のための人生かも、ぜんぜん考えてなかった。

死の苦しみは、肉体の苦しみとしか思っていなかった。

死んだら何もなくなると思っていた。


しかも、それでいい、と思っていた。

大変な誤りだった。



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