こんばんは。
今日は、遅くなってしまいました。
夜分にすみません。
さて、今回は、仏教の生命観についてふれてみたいと思います。
前回、仏教では“慰霊”ということをしない、とお話ししました。
「人間は、死後、霊魂となってこの世にとどまる」
という教えは仏教にはありません。
慰めるべき“霊”の存在を認めないのですから、“慰霊”をしないのは、
仏教徒としては当然のことなのです。
では、人間は死んだらどうなるの?
という疑問に仏教はどのように答えられているのでしょう。
私たちの肉体の命は、日本人で言えば7、80年、
長い人でもせいぜい100年ほどです。
しかし、私たちの本当の生命は、
果てしない過去から、永遠の未来へ続く不滅の生命である、
と仏教では教えられています。
そして、私たちは、果てしない過去から、
ずっと苦しみ迷いの6つの世界を経巡ってきたのだ、
と教えられているのです。
「6つの世界って何?」
といわれる方もあるでしょうから、簡単に説明をしましょう。
苦しみ迷いの6つの世界を六道(六界)と言われます。
地獄界、餓鬼(がき)界、畜生(ちくしょう)界、
修羅(しゅら)界、人間界、天上(てんじょう)界
の6つです。
「地獄界」とは、最も苦しみの激しい世界です。
業火(ごうか)に焼かれる苦痛は、
この世の溶鉱炉の火を地獄に持っていくと
霜か雪になってしまうと例えられるほどです。
「餓鬼界」は、やせこけて腹だけ膨れた姿をし、のどが針のように細く、
しかも食べ物を口にしようとすると、たちまち炎に変わり、
常に飢えと渇きに苦しむ世界です。
「畜生界」は、私たちも目にする獣や鳥、魚や虫などの世界です。
淫欲満々とし、また弱肉強食の世界ですから常に不安が付きまとっています。
眠っている犬に、足音を忍ばせ近づいても気づかれてしまいます。
それだけ神経をピリピリさせているのでしょう。
これら地獄・餓鬼・畜生は、特に苦悩の激しい境界ですから、
「三悪道」(さんあくどう)とか「三塗」(さんず)といわれます。
「修羅界」は、憎しみ合い、争いの絶えない世界です。
世間でも、テロや殺し合いなどの悲惨な場所を修羅場といわれるのは、
ここから来ています。
「人間界」は、常に善悪を問題にしている私たち人間の世界です。
三悪道や修羅界よりもましですが、苦悩は絶えません。
「天上界」は六界の中で、最も楽しみの多い世界ですが、
天人の五衰があり、歓楽尽きて転落する苦しみは何ものにも増して激しく、
やはり迷いの世界です。
これら迷いの世界を私たちは、生まれ変わり死に変わり経巡っていることを、
「六道輪廻(ろくどうりんね)」とも、
「生死輪転(しょうじりんてん)」
「流転輪廻(るてんりんね)」とも言われます。
「輪廻(りんね)」も「輪転(りんてん)」も、
車輪が廻る(転がる)ように、
安心満足というゴールのない円周を、
限りなく廻って苦しんでいるさまのことです。
これら六道を車輪が回るように、
果てしなく生死生死を繰り返しているのが、
私たちの生命のすがたです。
「ほろほろと 鳴く山鳥の声聞けば
父かとぞ思い 母かとぞ思う」
という昔の歌があります。
“ほろほろと鳴いている山鳥の声を聞くと、
亡くなった父が山鳥となって、
私に声をかけているのかと思われる。
母が私を懐かしんで呼んでいる声にも思われる"
という意味です。
犬や猫、鳥などは畜生界のものですが、
過去世において、何度、これらに生を受けたか知れません。
言葉こそ通じませんが、彼らの気持ちが伝わってきませんか?
“喜んでいるな”
“悲しそうだな”
“機嫌が悪いな”
そう感じるのは、自分もいつの世にか、
犬や猫や鳥であったことがあるからでしょう。
寝そべっている牛の気持ちも、
ヘビににらまれたカエルの気持ちも、
ソロソロと這うゴキブリの気持ちさえも分かるような気がしますね。
これらの世界は、死後にのみ存在するのではなく、
現在の私たちの心の中にもうごめいています。
「どうして私だけ、こんなひどい目に遭わねばならないの!」
泣くに泣かれぬ逆境に立ち、他人をのろい恨んでいるのが地獄の心。
有っても欲しい、無ければなお欲しい。
食欲・色欲・名誉欲、常に満たされないのが餓鬼の心。
恐怖心が強く淫欲満々、
日夜、他人を自由に犯しているのが畜生の心。
自分の思いに従わない相手を心の中で、たたき合い
殺し合っているのが修羅の心。
因果の道理を信じて、人に迷惑をかけず、
正しく生きようとするのが人間の心。
健康や物質に恵まれて物見遊山、
一時、我を忘れているのが天上の心です。
このように私たちの現在の心の中に、
地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天上の世界があって、
もちろん死後にもこの世界が続くのです。
では、死んで次にどの世界に生まれるかは、
何によって決まるのでしょう?
それは業(ごう=行為のこと)によって決まる、と仏教では教えられています。
私たちは、自分の行為によって
未来の運命のタネを日々刻々と造っているのです。
世の中に、いくら背の高い人がたくさんいても、
一番高い人はただ一人のように、
たくさんの業があっても、その中で一番重い業は一つしかありません。
生涯に造った業の中で最も重い業が、
私たちの死後生まれる世界を決定するのです。
少し専門的ですが、これを「引業(いんごう)」といいます。
引業以外の一切の業を「満業(まんごう)」といって、
死後の男女・貴賎・貧富・美醜など、さまざまな運命を引き起こす、
と教えられています。
そうなると、
「じゃあ、私はどんな業を造っているのだろう?」
ということが心配になります。
私たちは、日々、どんな行為をしているのか?
知るとのみ 思いながらに 何よりも
知られぬものは 己なりけり
わかっているようで、一番わかってないのが“私”。
仏教は、その“私”のすがたもハッキリと教えられています。
それについては、次回☆
━ ぴょんたの ◆◆
◆◆ ひとりごと ━
今日は、親戚の家に行ってきました。
3歳ぐらいの子どもが、はしゃぎ回っていて、
まさに「止まることを知らない」勢いでした。
自分にも、そんな頃があったのかなぁ?と思いつつ、
眺めて見ていたんですが、その子から言えば私は
「叔父」にあたりますので、
「あのおじちゃんをやっつけろー!」
みたいになるんですよね。
親戚の子どものパンチより、
その言葉のパンチが痛かった…。
あーあ、おれも「おじさん」か…。
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今日は、遅くなってしまいました。
夜分にすみません。
さて、今回は、仏教の生命観についてふれてみたいと思います。
前回、仏教では“慰霊”ということをしない、とお話ししました。
「人間は、死後、霊魂となってこの世にとどまる」
という教えは仏教にはありません。
慰めるべき“霊”の存在を認めないのですから、“慰霊”をしないのは、
仏教徒としては当然のことなのです。
では、人間は死んだらどうなるの?
という疑問に仏教はどのように答えられているのでしょう。
私たちの肉体の命は、日本人で言えば7、80年、
長い人でもせいぜい100年ほどです。
しかし、私たちの本当の生命は、
果てしない過去から、永遠の未来へ続く不滅の生命である、
と仏教では教えられています。
そして、私たちは、果てしない過去から、
ずっと苦しみ迷いの6つの世界を経巡ってきたのだ、
と教えられているのです。
「6つの世界って何?」
といわれる方もあるでしょうから、簡単に説明をしましょう。
苦しみ迷いの6つの世界を六道(六界)と言われます。
地獄界、餓鬼(がき)界、畜生(ちくしょう)界、
修羅(しゅら)界、人間界、天上(てんじょう)界
の6つです。
「地獄界」とは、最も苦しみの激しい世界です。
業火(ごうか)に焼かれる苦痛は、
この世の溶鉱炉の火を地獄に持っていくと
霜か雪になってしまうと例えられるほどです。
「餓鬼界」は、やせこけて腹だけ膨れた姿をし、のどが針のように細く、
しかも食べ物を口にしようとすると、たちまち炎に変わり、
常に飢えと渇きに苦しむ世界です。
「畜生界」は、私たちも目にする獣や鳥、魚や虫などの世界です。
淫欲満々とし、また弱肉強食の世界ですから常に不安が付きまとっています。
眠っている犬に、足音を忍ばせ近づいても気づかれてしまいます。
それだけ神経をピリピリさせているのでしょう。
これら地獄・餓鬼・畜生は、特に苦悩の激しい境界ですから、
「三悪道」(さんあくどう)とか「三塗」(さんず)といわれます。
「修羅界」は、憎しみ合い、争いの絶えない世界です。
世間でも、テロや殺し合いなどの悲惨な場所を修羅場といわれるのは、
ここから来ています。
「人間界」は、常に善悪を問題にしている私たち人間の世界です。
三悪道や修羅界よりもましですが、苦悩は絶えません。
「天上界」は六界の中で、最も楽しみの多い世界ですが、
天人の五衰があり、歓楽尽きて転落する苦しみは何ものにも増して激しく、
やはり迷いの世界です。
これら迷いの世界を私たちは、生まれ変わり死に変わり経巡っていることを、
「六道輪廻(ろくどうりんね)」とも、
「生死輪転(しょうじりんてん)」
「流転輪廻(るてんりんね)」とも言われます。
「輪廻(りんね)」も「輪転(りんてん)」も、
車輪が廻る(転がる)ように、
安心満足というゴールのない円周を、
限りなく廻って苦しんでいるさまのことです。
これら六道を車輪が回るように、
果てしなく生死生死を繰り返しているのが、
私たちの生命のすがたです。
「ほろほろと 鳴く山鳥の声聞けば
父かとぞ思い 母かとぞ思う」
という昔の歌があります。
“ほろほろと鳴いている山鳥の声を聞くと、
亡くなった父が山鳥となって、
私に声をかけているのかと思われる。
母が私を懐かしんで呼んでいる声にも思われる"
という意味です。
犬や猫、鳥などは畜生界のものですが、
過去世において、何度、これらに生を受けたか知れません。
言葉こそ通じませんが、彼らの気持ちが伝わってきませんか?
“喜んでいるな”
“悲しそうだな”
“機嫌が悪いな”
そう感じるのは、自分もいつの世にか、
犬や猫や鳥であったことがあるからでしょう。
寝そべっている牛の気持ちも、
ヘビににらまれたカエルの気持ちも、
ソロソロと這うゴキブリの気持ちさえも分かるような気がしますね。
これらの世界は、死後にのみ存在するのではなく、
現在の私たちの心の中にもうごめいています。
「どうして私だけ、こんなひどい目に遭わねばならないの!」
泣くに泣かれぬ逆境に立ち、他人をのろい恨んでいるのが地獄の心。
有っても欲しい、無ければなお欲しい。
食欲・色欲・名誉欲、常に満たされないのが餓鬼の心。
恐怖心が強く淫欲満々、
日夜、他人を自由に犯しているのが畜生の心。
自分の思いに従わない相手を心の中で、たたき合い
殺し合っているのが修羅の心。
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正しく生きようとするのが人間の心。
健康や物質に恵まれて物見遊山、
一時、我を忘れているのが天上の心です。
このように私たちの現在の心の中に、
地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天上の世界があって、
もちろん死後にもこの世界が続くのです。
では、死んで次にどの世界に生まれるかは、
何によって決まるのでしょう?
それは業(ごう=行為のこと)によって決まる、と仏教では教えられています。
私たちは、自分の行為によって
未来の運命のタネを日々刻々と造っているのです。
世の中に、いくら背の高い人がたくさんいても、
一番高い人はただ一人のように、
たくさんの業があっても、その中で一番重い業は一つしかありません。
生涯に造った業の中で最も重い業が、
私たちの死後生まれる世界を決定するのです。
少し専門的ですが、これを「引業(いんごう)」といいます。
引業以外の一切の業を「満業(まんごう)」といって、
死後の男女・貴賎・貧富・美醜など、さまざまな運命を引き起こす、
と教えられています。
そうなると、
「じゃあ、私はどんな業を造っているのだろう?」
ということが心配になります。
私たちは、日々、どんな行為をしているのか?
知るとのみ 思いながらに 何よりも
知られぬものは 己なりけり
わかっているようで、一番わかってないのが“私”。
仏教は、その“私”のすがたもハッキリと教えられています。
それについては、次回☆
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3歳ぐらいの子どもが、はしゃぎ回っていて、
まさに「止まることを知らない」勢いでした。
自分にも、そんな頃があったのかなぁ?と思いつつ、
眺めて見ていたんですが、その子から言えば私は
「叔父」にあたりますので、
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親戚の子どものパンチより、
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