映画「おくりびと」がアカデミー賞を受賞したのは、
昨年のことでした。
原作は青木新門の『納棺夫日記』と言われますが、
著者の青木さんは、自身を原作者とすることを拒みました。
一番描いてほしかった
「『おくりびと』が(死者を)どこに送るのか」
が描かれていなかったからです。
感動的な映画でしたが、
あれだけ葬儀のシーンが多いにもかかわらず、
僧侶の姿はありませんでした。
宗教的なシーンは、なかったと言ってもいいでしょう。
現実の葬式では、僧侶を“映さない”のでなく、
呼ばないで葬式をするケースが見受けられるようになりました。
葬儀事業に参入した流通大手のイオンが、
お布施の目安額を打ち出したことから、
寺院側の反発が起き、問題になっていることを書きましたが、
“僧侶を呼ばない”となれば、お布施も何も関係なくなります。
ここでまた、「葬儀に僧侶は必要か、不要か」という議論を
持ち込むつもりはありません。
問題の核心は、
「葬儀は誰のために、何のために行われるのか」
この一点です。
何宗であれ、「仏教」を標榜する寺院は、
仏教を説かれたお釈迦さまの心にかなった葬儀でなければ、
意味がありません。
現在は、まるで仏教が「納棺の儀式」をするのが
仕事かのように思われているのが残念です。
それは、間違った仏教のイメージです。
仏教で葬儀が開かれる意義は、参列した人が、
亡くなった方をご縁として無常を見つめ、
真実の仏教を聞いて、本当の幸せに救い摂られることにのみ、あります。
もちろん葬儀が、故人との別れを惜しむ場であることは
違いないでしょう。
法事で故人を懐かしまない人はありません。
でも、それだけで終わっては、
わざわざ僧侶に来てもらわなくてもよいことになります。
「家族だけですればよい」
「葬儀屋に任せればよい」
となるのも、当然です。
「葬式仏教」「法事仏教」もどんどん衰退し、
消えようとしています。
それは、門徒や檀家が、形ばかりの因習に、
相当のお金と時間と手間をかける意味を
まったく見いだせないからでしょう。
正しい仏教の教えを、正しく伝えていくことが、
本来の僧侶の仕事であることを、
その立場にある人は自覚しなければならないと思います。
仏教の教えを抜きにして、
「お布施」に“目安”がいるか、いらないか、の議論はナンセンスです。
「布施」は、世間では、その金額の大小が問われます。
だから、“目安”の有無が論じられるのでしょう。
しかし、お釈迦さまは
「布施は、金額の大小よりも、その心がけが大切である」
と教えられました。
昔、お釈迦さまが祇園精舎(ぎおんしょうじゃ)におられた時、
街にナンダという一人の女の乞食がいました。
ナンダは、街中の人が、みんなお釈迦さまに灯火を
供養(くよう)するのをみて、自分もお釈迦さまに
ぜひ灯火を供養したいと思い、一日中、乞食して歩きました。
そしてようやくわずかなお金に恵まれたので早速、油屋へ走ったのです。
ナンダは、油屋の主人に、
「このお金で油を譲って下さい」
と言うと、
「これくらいのお金では到底、油を売ることはできないよ」
と断わられました。
そこで、ナンダは意を決して、女の命である自らの髪の毛を切り、
それを売って、お金に替え、なんとかして油を買おうとしたのです。
ところが、その金でも、まだ一つの灯火に充分なだけの
油を買うには及びませんでした。
油屋の主人は、不審に思って、
「どうしてそんなにまでして、油が欲しいのかい?」
と尋ねました。
ナンダは、何としても仏に布施をしたいというその心を話すと、
油屋の主人は、ナンダの心がけに感動し、
一灯分の油を譲ってくれたのでした。
ナンダは、ようやくお釈迦さまに一灯を布施することができました。
彼女の布施した一灯は、万灯の中に赤々と燃え続けたのでした。
しかし、一晩、燃えつづけた万灯も、明け方になると、
みな消えてしまったのですが、ナンダの一灯だけは輝きわたっていました。
その日、当番にあたっていたお弟子の目連(もくれん)は、
不思議に思って消そうとしたのですが、どうしてもその火は消えません。
お釈迦さまにその理由を尋ねると、
「それはナンダという女乞食が布施した灯火である。
その灯はとてもそなたの力では消すことはできない。
たとえ大海の水を注ごうとも、その灯は燃え続けるであろう。
なぜならその灯こそは、一切の人々の心の闇を照らそうとする、
海よりも大きな広済の心から布施された灯であるからだ」
と答えておられます。
布施の功徳は決して、量の大小によって決まるものではなく、
その心こそ大切なのですよ、とお釈迦さまは教えておられます。
「長者の万灯よりも貧者の一灯」
と言われる所以です。
━ ぴょんたの ◆◆
◆◆ ひとりごと ━
昨日、今年最初のスイカを食べました。
みずみずしくて、甘くって、美味しかったです☆
こう暑い日が続くと、冷たいものがより美味しく感じられます。
皆さんは、何がお好きですか?
小学生のころ、チューペットというお菓子が大好きでした。
液体を凍らせて、食べるときに真ん中でパキッと割って食べる、あのお菓子。
(わかる人にはわかると思います)
が、あのお菓子はもう食べられない。
昨年、生産終了してしまったのです。
(類似品はあると思いますが)
夏の風物詩が減っていくのは、寂しい……。
諸行無常をかんじます。
*今回のひまわり日記 はいかがでしたか?
「へぇ!」「なるほど!」「勉強になった」
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昨年のことでした。
原作は青木新門の『納棺夫日記』と言われますが、
著者の青木さんは、自身を原作者とすることを拒みました。
一番描いてほしかった
「『おくりびと』が(死者を)どこに送るのか」
が描かれていなかったからです。
感動的な映画でしたが、
あれだけ葬儀のシーンが多いにもかかわらず、
僧侶の姿はありませんでした。
宗教的なシーンは、なかったと言ってもいいでしょう。
現実の葬式では、僧侶を“映さない”のでなく、
呼ばないで葬式をするケースが見受けられるようになりました。
葬儀事業に参入した流通大手のイオンが、
お布施の目安額を打ち出したことから、
寺院側の反発が起き、問題になっていることを書きましたが、
“僧侶を呼ばない”となれば、お布施も何も関係なくなります。
ここでまた、「葬儀に僧侶は必要か、不要か」という議論を
持ち込むつもりはありません。
問題の核心は、
「葬儀は誰のために、何のために行われるのか」
この一点です。
何宗であれ、「仏教」を標榜する寺院は、
仏教を説かれたお釈迦さまの心にかなった葬儀でなければ、
意味がありません。
現在は、まるで仏教が「納棺の儀式」をするのが
仕事かのように思われているのが残念です。
それは、間違った仏教のイメージです。
仏教で葬儀が開かれる意義は、参列した人が、
亡くなった方をご縁として無常を見つめ、
真実の仏教を聞いて、本当の幸せに救い摂られることにのみ、あります。
もちろん葬儀が、故人との別れを惜しむ場であることは
違いないでしょう。
法事で故人を懐かしまない人はありません。
でも、それだけで終わっては、
わざわざ僧侶に来てもらわなくてもよいことになります。
「家族だけですればよい」
「葬儀屋に任せればよい」
となるのも、当然です。
「葬式仏教」「法事仏教」もどんどん衰退し、
消えようとしています。
それは、門徒や檀家が、形ばかりの因習に、
相当のお金と時間と手間をかける意味を
まったく見いだせないからでしょう。
正しい仏教の教えを、正しく伝えていくことが、
本来の僧侶の仕事であることを、
その立場にある人は自覚しなければならないと思います。
仏教の教えを抜きにして、
「お布施」に“目安”がいるか、いらないか、の議論はナンセンスです。
「布施」は、世間では、その金額の大小が問われます。
だから、“目安”の有無が論じられるのでしょう。
しかし、お釈迦さまは
「布施は、金額の大小よりも、その心がけが大切である」
と教えられました。
昔、お釈迦さまが祇園精舎(ぎおんしょうじゃ)におられた時、
街にナンダという一人の女の乞食がいました。
ナンダは、街中の人が、みんなお釈迦さまに灯火を
供養(くよう)するのをみて、自分もお釈迦さまに
ぜひ灯火を供養したいと思い、一日中、乞食して歩きました。
そしてようやくわずかなお金に恵まれたので早速、油屋へ走ったのです。
ナンダは、油屋の主人に、
「このお金で油を譲って下さい」
と言うと、
「これくらいのお金では到底、油を売ることはできないよ」
と断わられました。
そこで、ナンダは意を決して、女の命である自らの髪の毛を切り、
それを売って、お金に替え、なんとかして油を買おうとしたのです。
ところが、その金でも、まだ一つの灯火に充分なだけの
油を買うには及びませんでした。
油屋の主人は、不審に思って、
「どうしてそんなにまでして、油が欲しいのかい?」
と尋ねました。
ナンダは、何としても仏に布施をしたいというその心を話すと、
油屋の主人は、ナンダの心がけに感動し、
一灯分の油を譲ってくれたのでした。
ナンダは、ようやくお釈迦さまに一灯を布施することができました。
彼女の布施した一灯は、万灯の中に赤々と燃え続けたのでした。
しかし、一晩、燃えつづけた万灯も、明け方になると、
みな消えてしまったのですが、ナンダの一灯だけは輝きわたっていました。
その日、当番にあたっていたお弟子の目連(もくれん)は、
不思議に思って消そうとしたのですが、どうしてもその火は消えません。
お釈迦さまにその理由を尋ねると、
「それはナンダという女乞食が布施した灯火である。
その灯はとてもそなたの力では消すことはできない。
たとえ大海の水を注ごうとも、その灯は燃え続けるであろう。
なぜならその灯こそは、一切の人々の心の闇を照らそうとする、
海よりも大きな広済の心から布施された灯であるからだ」
と答えておられます。
布施の功徳は決して、量の大小によって決まるものではなく、
その心こそ大切なのですよ、とお釈迦さまは教えておられます。
「長者の万灯よりも貧者の一灯」
と言われる所以です。
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みずみずしくて、甘くって、美味しかったです☆
こう暑い日が続くと、冷たいものがより美味しく感じられます。
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液体を凍らせて、食べるときに真ん中でパキッと割って食べる、あのお菓子。
(わかる人にはわかると思います)
が、あのお菓子はもう食べられない。
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(類似品はあると思いますが)
夏の風物詩が減っていくのは、寂しい……。
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