前回、死後の地獄のことについてお話しました。
(地獄の釜を造った鍛冶屋の住所も名前も知っている)
死後の地獄、極楽の存在が信じられず、
地獄も極楽もこの世のこと、と言う人たちがあります。
親鸞聖人に魅せられる学者や評論家の中にも、
そのようなタイプが多いようです。
「後生の一大事」を「今生の一大事」と言いかえて、
死後をハッキリ説かれた蓮如上人の『御文章』を
排斥するのですからビックリします。
そのようなものたちは、
次のような禅僧・白隠(はくいん)の話を好むようです。
・・・・・・・・・・
ある武士が、白隠を訪ね、
「和尚、地獄や極楽は本当にあるものか」
と問う。
すかさず白隠、
「そんな事が分からなくて、
それでもお前は武士か、
ブシはブシでもカツオブシであろう」
と罵る。
「何!
礼を尽くして尋ねているのに
悔辱するとは無礼な」
短気なその武士、烈火の如く怒り、白刃を抜く。
たまらず白隠、本堂へ逃げる。
寺の本堂を自在に逃げ回る白隠に、
武士の怒りはますます募る。
突如、白隠そのとき、武士をにらみつけ、
「それ、その怒りに狂っているのが地獄じゃ」
と大喝した。
ハッと我に返った武士、
「ああ、これが地獄か、
これを知らせるための言動だったのか。
すまなかった」
と両手をついて懺悔した。
すかさず白隠、
「それが、極楽じゃ」
・・・・・・・・・・
こんな話が、
死後の地獄極楽の存在を信じられない人たちに
もてはやされているようです。
地獄極楽は、そんな心の状態で
済まされる話ではありません。
高森顕徹先生の著書「白道燃ゆ」(びゃくどうもゆ)に
学んでみましょう。
・・・・・・・・・・
◎浄土や地獄は実在するのか
「浄土や地獄は、本当に実在するのか」
と、尋ねる者に対して、
「あると信ずる人にはあり、無いと思う人にはない」
と、答える人が多い。
然し、こんな無責任な返答はない。
問者を愚弄(ぐろう)する以外の何ものでもない。
古来、あるから信ずるのか、
信ずるからあるのか、
どちらが一体先なのか、論じられてきた。
何らかの形で実在するから、
私達は、それを信ぜざるを得ないのだ、
と言うのは存在論の考え方である。
反対に、信ずるから、ものごとがあるのだ、
と言うのは観念論者の考え方である。
どちらが本当なのか。
私は考える力、信ずる働きが
物事と我々を結びつける媒介役をし、
人間を万物の霊長たらしめたのだから、
観念の力を徒らに軽視したり、
否定したりはしないが、
信ずるから、浄土や地獄があるのだ、
という観念論には、絶対に承服できない。
実在するからこそ、
信ずる心も当然起こってくるのであって、
信じたから実在するのではない。
心だけで、何でも作れると思うのは、
観念論者の夢である。
浄土や地獄は、
そんな影や幻の如きものではない。
人間の、ささやかな信や疑によって、
その存在が左右されるというようなことになれば、
仏説は虚妄(こもう)になり、体験にもあわない。
金剛信に徹して、解脱(げだつ)の光輪の
慈照(じしょう)を蒙(こうむ)れば、
我らの家郷(かきょう)に父母あるが如く、
浄土に弥陀ましますことを信ずる。
浄土や地獄の実在を理解してから、
信心獲得するのではない。
この信心のうちに、
浄土も阿弥陀仏の実在を認めることも、
地獄の実在を認めることも含んでいるのである。
我々が、月の光で月の存在を認めるが如く、
仏智を諦得すれば、鮮やかに知られる。
人間が信ずるとか、信じないとか、
あると思うとか、無いと考えるとか、
いうような主観的な意識を超越して常住する。
浄土や地獄の実在も、
この世に浄穢苦楽(じょうえくらく)の別あるが如く、
来世にも、最も幸せな世界と、
三悪道(さんまくどう)のような悲惨な世界があるということは、
当然である。
それを、あるが如く、無きが如く言うのは、
信心決定(しんじんけつじょう)していない証拠である。
※三悪道=地獄界、餓鬼界、畜生界のこと
・・・・・・・・・・
地獄や極楽が、単に心の状態を比喩したものであれば、
こんなにお気楽なことはないでしょう。
本当に親鸞聖人が、
「地獄も極楽も、この世のこと」
と教えておられたのであれば、
20年間、親鸞聖人から聞かせていただいた
関東の同行が、後生の一大事解決の道を尋ねるために
京都におられる親鸞聖人のところへ
命懸けで旅をしたことを、どう理解したら良いのでしょう?
親鸞聖人のご生涯も、
不可解な言動ばかりになります。
31歳で、肉食妻帯されたこと、
34歳で、法友とケンカしてまで
阿弥陀仏の本願を明らかにされたこと、
35歳のときの流刑も、
命懸けで仏法を伝えられた結果であったのですが、
そこまでして教えを説かれる必要はなかったことに
なりはしないでしょうか?
仏教は、後生の一大事を知ることに始まり、
後生の一大事の解決で終わります。
後生の一大事とは、どんなことかを知らなければ、
仏教は、何十年聞いてもわかるものではありませんし、
親鸞聖人の教えも理解できません。
親鸞聖人は、
すべての人の後生に一大事があり、
万人の幸せを願って
後生の一大事解決の道を、
90年のご生涯、ひたすら伝えていかれたのです。
━ ぴょんたの ◆◆
◆◆ ひとりごと ━
本日は、親鸞会館で『なぜ生きる』(高森顕徹先生著)の
1部1章の内容についてテレビ座談会が行われました。
「生きる目的がもっとも大事」
と言うと、
「それよりも、明日を生きるための生活の基盤のほうが大事だ」
と言ってくる人があります。
「生きる目的」より「生きる手段」が大事という意見です。
それは、例えて言えば、
空と水しか見えない海に放り出された人にとって、
「どこに向かって泳ぐか」という方角より、
「どう泳ぐか」が大事だと言っているのと同じことになります。
本気でそんなことが言えるでしょうか?
いったい何が問題なのでしょう?
大切なことを教えて頂きました。
さて、昨日は雪と風がひどかったのですが、
今日は穏やかな一日でした。
立春を過ぎましたが、
皆さんのところでは、春の足音、聞こえてますか?
*今回のひまわり日記 はいかがでしたか?
「へぇ!」「なるほど!」「勉強になった」
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(地獄の釜を造った鍛冶屋の住所も名前も知っている)
死後の地獄、極楽の存在が信じられず、
地獄も極楽もこの世のこと、と言う人たちがあります。
親鸞聖人に魅せられる学者や評論家の中にも、
そのようなタイプが多いようです。
「後生の一大事」を「今生の一大事」と言いかえて、
死後をハッキリ説かれた蓮如上人の『御文章』を
排斥するのですからビックリします。
そのようなものたちは、
次のような禅僧・白隠(はくいん)の話を好むようです。
・・・・・・・・・・
ある武士が、白隠を訪ね、
「和尚、地獄や極楽は本当にあるものか」
と問う。
すかさず白隠、
「そんな事が分からなくて、
それでもお前は武士か、
ブシはブシでもカツオブシであろう」
と罵る。
「何!
礼を尽くして尋ねているのに
悔辱するとは無礼な」
短気なその武士、烈火の如く怒り、白刃を抜く。
たまらず白隠、本堂へ逃げる。
寺の本堂を自在に逃げ回る白隠に、
武士の怒りはますます募る。
突如、白隠そのとき、武士をにらみつけ、
「それ、その怒りに狂っているのが地獄じゃ」
と大喝した。
ハッと我に返った武士、
「ああ、これが地獄か、
これを知らせるための言動だったのか。
すまなかった」
と両手をついて懺悔した。
すかさず白隠、
「それが、極楽じゃ」
・・・・・・・・・・
こんな話が、
死後の地獄極楽の存在を信じられない人たちに
もてはやされているようです。
地獄極楽は、そんな心の状態で
済まされる話ではありません。
高森顕徹先生の著書「白道燃ゆ」(びゃくどうもゆ)に
学んでみましょう。
・・・・・・・・・・
◎浄土や地獄は実在するのか
「浄土や地獄は、本当に実在するのか」
と、尋ねる者に対して、
「あると信ずる人にはあり、無いと思う人にはない」
と、答える人が多い。
然し、こんな無責任な返答はない。
問者を愚弄(ぐろう)する以外の何ものでもない。
古来、あるから信ずるのか、
信ずるからあるのか、
どちらが一体先なのか、論じられてきた。
何らかの形で実在するから、
私達は、それを信ぜざるを得ないのだ、
と言うのは存在論の考え方である。
反対に、信ずるから、ものごとがあるのだ、
と言うのは観念論者の考え方である。
どちらが本当なのか。
私は考える力、信ずる働きが
物事と我々を結びつける媒介役をし、
人間を万物の霊長たらしめたのだから、
観念の力を徒らに軽視したり、
否定したりはしないが、
信ずるから、浄土や地獄があるのだ、
という観念論には、絶対に承服できない。
実在するからこそ、
信ずる心も当然起こってくるのであって、
信じたから実在するのではない。
心だけで、何でも作れると思うのは、
観念論者の夢である。
浄土や地獄は、
そんな影や幻の如きものではない。
人間の、ささやかな信や疑によって、
その存在が左右されるというようなことになれば、
仏説は虚妄(こもう)になり、体験にもあわない。
金剛信に徹して、解脱(げだつ)の光輪の
慈照(じしょう)を蒙(こうむ)れば、
我らの家郷(かきょう)に父母あるが如く、
浄土に弥陀ましますことを信ずる。
浄土や地獄の実在を理解してから、
信心獲得するのではない。
この信心のうちに、
浄土も阿弥陀仏の実在を認めることも、
地獄の実在を認めることも含んでいるのである。
我々が、月の光で月の存在を認めるが如く、
仏智を諦得すれば、鮮やかに知られる。
人間が信ずるとか、信じないとか、
あると思うとか、無いと考えるとか、
いうような主観的な意識を超越して常住する。
浄土や地獄の実在も、
この世に浄穢苦楽(じょうえくらく)の別あるが如く、
来世にも、最も幸せな世界と、
三悪道(さんまくどう)のような悲惨な世界があるということは、
当然である。
それを、あるが如く、無きが如く言うのは、
信心決定(しんじんけつじょう)していない証拠である。
※三悪道=地獄界、餓鬼界、畜生界のこと
・・・・・・・・・・
地獄や極楽が、単に心の状態を比喩したものであれば、
こんなにお気楽なことはないでしょう。
本当に親鸞聖人が、
「地獄も極楽も、この世のこと」
と教えておられたのであれば、
20年間、親鸞聖人から聞かせていただいた
関東の同行が、後生の一大事解決の道を尋ねるために
京都におられる親鸞聖人のところへ
命懸けで旅をしたことを、どう理解したら良いのでしょう?
親鸞聖人のご生涯も、
不可解な言動ばかりになります。
31歳で、肉食妻帯されたこと、
34歳で、法友とケンカしてまで
阿弥陀仏の本願を明らかにされたこと、
35歳のときの流刑も、
命懸けで仏法を伝えられた結果であったのですが、
そこまでして教えを説かれる必要はなかったことに
なりはしないでしょうか?
仏教は、後生の一大事を知ることに始まり、
後生の一大事の解決で終わります。
後生の一大事とは、どんなことかを知らなければ、
仏教は、何十年聞いてもわかるものではありませんし、
親鸞聖人の教えも理解できません。
親鸞聖人は、
すべての人の後生に一大事があり、
万人の幸せを願って
後生の一大事解決の道を、
90年のご生涯、ひたすら伝えていかれたのです。
━ ぴょんたの ◆◆
◆◆ ひとりごと ━
本日は、親鸞会館で『なぜ生きる』(高森顕徹先生著)の
1部1章の内容についてテレビ座談会が行われました。
「生きる目的がもっとも大事」
と言うと、
「それよりも、明日を生きるための生活の基盤のほうが大事だ」
と言ってくる人があります。
「生きる目的」より「生きる手段」が大事という意見です。
それは、例えて言えば、
空と水しか見えない海に放り出された人にとって、
「どこに向かって泳ぐか」という方角より、
「どう泳ぐか」が大事だと言っているのと同じことになります。
本気でそんなことが言えるでしょうか?
いったい何が問題なのでしょう?
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さて、昨日は雪と風がひどかったのですが、
今日は穏やかな一日でした。
立春を過ぎましたが、
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