
82歳だった。
10年前に、高所から落ちて車椅子の身となり、それから母がずっと寄り添ってきた。
リハビリを続け、再び自分の足で歩くよう願っていたが、脳梗塞を発症。
入退院の繰り返しだった。
年々老いていき、ここ1年ぐらいは手を動かすこともままならない状況だった。
だから、なんとなく死ぬという現実を受け入れる準備はできていたのかもしれない。
悲しかったが、意外と冷静に受け止めている自分がいた。
我が家の菩提寺は真言宗なので、そこにお願いをして式を挙げていただいた。
敬虔な仏教徒でもないのだが、真言宗では、49日間亡き人のために毎夜、お経を唱えなければならないらしい…そして、祝い事や神社参拝などは避けるべきとの教えを『一応』守って過ごすことにしている。
そんなことは昔の習わしで、関係ない…という人も多いようだし、実際それによって何が変わるのかもよくわからない。
でも仏教何百年の歴史でそういう教えが今にも継続されているということなのだから、それなりに意味のあることなのだろうと従ってみる。
故人は、49日の間長い旅に出て、7日ごとに関門があり、仏様の審判を受けなくてはならないとされている。
審判を受ける時には本人の行いだけでなく、遺族の法要の様子なども考慮されるそうだ。
故人が旅に出ても、遺族の行いまで審査されるのか…なんとも理不尽だなと思わないわけでもないが…。
そんな中一つ自分自身で気づいたことがあった。
普段別世帯で暮らしている母や弟家族に毎日会い、お勤めをする。
そのあと家族どおしでたわいない世間話をしてまたそれぞれ離散していくのだが、心は悲しみから解放され日常に戻っていくということ、そして、コミュニケーションを通じて、家族の絆が深まっていくことを感じるのだ。
まだまだ、2週間ほどで道半ばではある。
しかし、このお勤めを通じて、さらに家族が仲良くなっていくのなら、それこそ父が最も望んでいたことの一つだ。
なんといっても、父があの世で極楽浄土に行くのは、現世に生きる我々のお勤めの出来次第だなんて言われると…おまえたちのせいで極楽に行けなかったじゃないかなんて言われるのはたまらないからなぁ。
49日の旅は、家族にとっても意味のあることなのかなと思う今日この頃だ。