先日、私の母校である八鹿高校の同窓会の支部会合が開かれ出席をした。
正直、高校の同窓会の役持ちになるつもりは、まったくなかったのだが、お世話係のSさんからの半ばゴリ押し(笑)で、逃れられない状況になってしまったというのが本音である。
8名ほど集まったが、50代の私が最年少で、60代後半から、70代の皆様が大半を占めていた。
同窓会の支部では毎年発行される同窓会だよりを配るという役割が主になっている。
同窓会本部が発行した会報を支部に割り当てられ、そしてまたそれが各支部の役員に手渡され、各家に配っている。
私の割り当て分でおよそ20部ぐらいはあるだろうか…
結婚などを機に、こちらには不在となってしまった人の名前もある。
結婚などを機に、こちらには不在となってしまった人の名前もある。
正直、配るのは手間もかかるので、郵送で済ましてしまう場合もある。たいがい自腹だ。だが、配る時間を考えると、そっちのほうがコスパがいいとも思えたりもする。
会合の中では、その配布に対する労力に対しての不満も出ていた。
他の支部では、それらを郵送で済ませているところもあると聞く。
同様に、それらの費用は誰かの寄付によるものなのだろう。
3年間在籍した母校というただそれだけなのだが、上下がつながり、そして横断的にもつながっていくコミュニティ、メリットあるなしは単純に、はかれはしないが、そこに意味がないと思えばまったくないし、あるといえば、ある…。
ただ、一ついえることは、確実に昔に比べてそのコミュニティの力は弱まっているということだ、いやむしろ、コミュニティの在り方が変わったというほうが正確か…。
SNS全盛の時代にあっては、ネット上のつながりは、むしろ強固であり、それを軸に大きな力を発揮している人もたくさんいることもまた事実だ。
いわゆるリアルコミュニティから、バーチャルコミュニティへ転換したとみるのが、正しいのかもしれない。
一ついえることは『地域』というコミュニティは確実に弱体化しているということだ。
地域コミュニティが弱体化することでおこる弊害は、やはり地方部にとっては、大きな脅威である。
都会は生活の機能は細分化されているが故、お金というもの介せば多くのものは解決するが、田舎では、人と人とが協働することで、生活を機能させている。
だから、その協働を作り出すコミュニティ形成機能が失われるということは、すなわち生活のしづらさにつながる。
高校同窓会という特別なコミュニティの中に、地域崩壊の萌芽を見た気がした。