教育者でもない私だが、自分が零細企業の経営をやりつつ、感じていることを述べたい。
学校教育の一つの目的として、集団の中で自分がどう立ち居振る舞いしていくかを学ぶ…ということが言われる。
一番、単的なのは、
気をつけ!前ならえ!な、あれである。
学生の頃そんなことをよくやらせていた。
私自身は、それに疑問ももたなかったし、それなりに、言うことを聞いていたと思う。
ただ、今自分が、会社を経営をやっていたり、地域活動をやっていく段において、あのような人数が一斉に同時に何かをやっているということはほとんどないように思う。
ある目的を達成させるために、40人を動かすにしても組織を機能別に分けたりして、むしろひとりひとりの個性とか素養とかを考えた、配置などを考えるはずだ。
一人の先生を前にして、黒板に書かれたことを記述し、記憶していくというあれも、果たして今の時代に適合したものなのだろうか
今は、さまざまな教育アプリが充実し、一人一人の習熟度に応じて、学習していくものが多くあり、それらのほうがはるかに効率的な気がする。
多様な人が一つの社会の中に生きていて、自分の考えを相手に伝え、そしてまた相手の発することを理解し、行動する。
それらは人のかかわりの中ではもっとも重要なスキルの一つであり、さすがに機械相手というわけにはいかないから、人が集団の中で学ぶ機会としては、意義や価値はあることなのだと思う。
となれば、個の学習、集団の学習を、巧みに組み合わせながら、最大限の効果を発揮していくことが必要だ。
私が言うまでもないが、教育は変わったし、変わらなければならないのである。
香美町が、10年ほど前だったか、スーパー連携チャレンジプランなるものを生み出した。
小規模校ばかりの香美町の小学校の生徒が、生活の場にもっとも近い場所を拠点に学校生活を送りながら、他校の生徒と適宜集まり、集団として必要な教育もやっていくメソッドは、活気的な試みだとして、全国から多くの視察も受け入れていたように記憶する。
過去にしばられず、そして地域もしっかりと大事にしてきたその取り組みによって、その世代の若者たちは、僕らおっさんやおばさんが思う以上にしっかりとたくましく育っている。
変わらないのは、大人の我々であって、ガチガチの頭だったのだ。
これから、もっと激しい変化が訪れるだろう…。
お上への忖度なのか分からないが、地方には地方のやり方があり、創意工夫しながら、果敢にチャレンジしていくこと。そのことがもっとも大事なことだ。
果敢にチャレンジするその結果に対し果たして失敗というものなど存在するのであろうか?
小さなまちには小さな町のやり方が存在していいはずだし、むしろ、そうやって個性を発揮して、個性を埋没しないようにしなくてはなるまい
それこそが、小さなまちが生き残る唯一の道だ。