NHKからのこのツイートに私もとても感動をした。
池江璃花子選手「自分が勝てるのはずっと先のことだと思っていた」
— NHKニュース (@nhk_news) April 4, 2021
競泳の日本選手権、女子100メートルバタフライの決勝で白血病から競技に復帰した池江璃花子選手が57秒77で優勝し、東京オリンピックのメドレーリレーの派遣標準記録を突破し代表に内定しました。https://t.co/YQVSykPVRN#nhk_video pic.twitter.com/tzzrjNoUNA
しかし、一方で、『努力は必ず報われるものではない…』
という批判的ツイートも散見された。
池江選手がいうところの努力の報いは、オリンピックの出場であり、そして周囲が当然に期待するであろうオリンピックの金メダルということであろう。
努力が実を結び、そこに向けて着実に階段を上る池江選手は、その言葉通り『努力が必ず報われている』ことを実感しているに違いない。
一方、我々凡人が、努力を続けてもさて、オリンピックの金メダルを勝ち得るのか…ととわれれば、
『そりゃいくらなんでも無理だろ』
と世間の人が思うのもこれもまた事実だろう。
しかし、私自身は
『努力は必ず報われる』という言葉は、普遍的な言葉だと思っている。
それは、努力の結果というのが、また別の形でやってくるかもしれないという条件がつくのだが。
例えば私のようなおっさんに例をとろう。
今からオリンピックを目指して努力をするとする。
そこを目指すのは自由だし、人に迷惑をかけない限り、そのために練習を行うこと自体に誰も咎められることはない。
でも、これまでの世間の常識から考えて、また科学的に考えても、それが達成できるということは100%難しいであろう。
そう考えると、決してかなわない夢をおいかけた努力は、オリンピックに出場するという目標に対しては、まったく意味をなさないものであろう。
しかし、その努力の中で、さまざまな思考をし、さまざまな経験を積むはずだし、『何か』を得ているはずである。
その何かは、自分の人生においては絶対にプラスに働くものだ。
また、余命1週間しかなかったとしよう。
その1週間の中で努力をしても、身が滅んでしまえば、何も残らないというのも間違いだ。
家族や、友人、もしかしたら、まったく見ず知らずの人も、何らかの心理的影響が及ぼされるはずだ。
自分自身は、そこで得られなかったとしても、その努力は他の人の役にたつことになるかもしれない。
だから、努力をすることには普遍の価値があるのだ。